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手嶋さんから居残り練習のお手伝いはもういいと告げられてから数日。あれから私はお兄ちゃんと一緒に帰る事もなく、部活が終わったらすぐに帰宅している。
手嶋さんとも部活で必要最低限の会話しか交わしていないし、当然彼とのLIMEも文化祭の日以来動いていない。

…なんだか、胸にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような気分だった。


手嶋さんに失恋してしまったけど、チーム二人のファンであること、手嶋さんは尊敬する先輩である事に変わりはない。だから…これからは純粋にただのマネージャーとして手嶋さんの事を応援しようと思った。居残り練習のお手伝いもこのまま続けさせてもらおうと思っていた。

でも……今考えれば断られるのは当然だ。
手嶋さんが言った「遅くなると危ないから」、その言葉はもっともだ。
私にしつこかったあの彼に困っていた時、居残りなんてせずに部活が終わってすぐに帰ればよかった。そうすればいずれ帰りの時間をずらしたとバレてしまっただろうけど、それまでは彼に鉢合わせずに帰る事が出来たし、手嶋さんにもお兄ちゃんにも迷惑はかけることはなかったし、もしかしたらもっと早く問題が解決していたかもしれない。
それをしなかったのは、手嶋さんの走りをもっと見たい、少しでも力になりたい、もっと手嶋さんと一緒にいたいという、あの彼に待ち伏せされる恐怖よりも強い欲があったから。
その私のわがままで二人に迷惑をかけてしまった。日に日に罪悪感ばかりが募って胸が押しつぶされるような苦しさを感じている。

部活中はもちろん、家でも心配されたくなくてなんとかいつも通りに振る舞おうと頑張ってはいるけど……ふとした時に辛くなってしまって授業中はぼーっとして先生に怒られるし、何もない所で時々転んだり、ご飯だってあんまり美味しく感じられない。
辛いけど、これはもう時間に解決してもらうしかない……そう理解し始めた頃の部活終わり、一緒に帰り支度を整えていた幹ちゃんに「今日お兄ちゃんがお店に来て欲しいって」と声をかけられて、一緒に通司さんのいる寒咲サイクルショップに向かった。
来て欲しいって言ったのはきっと、以前幹ちゃんを通じてお願いしたアレのことだろう。






「結論から言うぞ」
「は、はい……」
「コイツはもう修復不可能だ」
「……ですよ、ね…」


お店に行くと通司さんに奥へと案内されて、はっきりと告げられた。
“修復不可能”、その言葉がまるで私と手嶋さんの関係を示唆しているみたいで胸がズキッと痛む。通司さんが言ったのは別のことに対してなのに。

彼にキッパリと修復不可能と告げられてしまったのは通された奥に隠すように置かれた、私がまだ選手として走れていた時のかつての愛車のフレームのこと。
つまり…私がレース中崖下に落ちた時、一緒に落下したそれ。当然どこもかしこもボロボロで到底走れる状態じゃなくて、修理はもう難しいだろうなっていうのは一目瞭然だった。というか、これを買った家の近所の自転車屋さんにもそう言われた。
それでもフレームだけでもどうにかならないかという希望を諦められなくて、お兄ちゃんに本音をぶつけた私達にとって大きい兄妹喧嘩をした日から少し経った頃、幹ちゃんを介してダメ元で通司さんに修理を依頼してみた。
これを直せないかと持ち込んだ時、通司さんは絶句して「冗談だろ?」という顔をしていたのはよく覚えている。その時も「これは無理だ」と言われたけど、私が余程諦めきれないという顔をしていたおかげか「望みはかなり薄いけど少し待ってろ」と言われていた。今思えばかなり迷惑なお客だったな…申し訳ない事をしてしまったなと反省している。


「修理が得意な知り合い何人かにも聞いてはみたけど…全員答えは一緒だった」
「そう…ですよね…」


望みが殆どない事は覚悟していたけれど、もしかしたら…を期待してしまっていたから思っていたよりもショックが大きい。

…本当は、この愛車の姿を見るのもつらくて手放してしまいたかった。なのにどういう訳かできなくて、ずっと家のガレージの奥に隠すように仕舞っていた。

それをもう一度引っ張り出す事が出来たのは、手嶋さんを巻き込んでしまったあの兄妹喧嘩の後。お兄ちゃんに私が思っていた事を全部吐き出して、同時に自分の本当の気持ちにも向き合えたあの時がきっかけだった。
やっぱりロードバイクを諦められない。たとえもう選手として走れなくても、ロードに乗りたい……本当はずっとそう思っていたのに、選手としてもう走れない辛さを押し込めるうちに、その気持ちまで心の奥底に追いやってしまっていた。
その自分の本心に気が付けたのは、お兄ちゃんに本音を言えた事もあるけど何より、手嶋さんとお兄ちゃん二人の走りずっと見ていた事、それから手嶋さんの少しずつでも前に進もうとする強さに影響を受けたからだ。

少しでもいいから、私も前に進みたいと思った。

だからこそもう一度この愛車に乗りたかった。すごく気に入って買ってもらったからっていうのもあるし、ロードバイクってこんなに楽しいんだとこの子が教えてくれたし、もう選手として走れなくなってしまった今だからこそ見つけられるロードの楽しさもあると思った。


「すまねぇな、一花」
「そんな、謝らないで下さい!多分無理だろうなって思ってましたし…掛け合って下さってありがとうございました」
「…大事なモンだったんだろ?コレ」


通司さんは申し訳なさそうに眉を下げながら私のフレームを見る。
これをお店に持ち込んだ時はただ「これ直せませんか?」と訊ねただけで、それ以上の事は言っていないはずなのにわかってしまうなんて専門の人はやっぱりすごい。まぁでも、こんなボロボロのフレームを直して欲しいなんて言う時点でそう思うか。


「それにしてもビックリしたよー。一花ちゃんがレースに出てたなんて」
「え……?」


私の隣にいた幹ちゃんが「ふふふ」といつものように可愛い笑顔を浮かべながら、さらりと衝撃的な言葉を放って思わずぴたりと固まってしまった。そのにこにこしている幹ちゃんとは反対に通司さんは「オイ幹!」と慌てていて、その様子に余計に私の頭が混乱してしまう……このフレームを持ち込んだ時点でロードに乗っていた事はバレてしまったけど、レースに出ていた事は一言も言っていないはず。もしかして幹ちゃんも通司さんも私が選手として活動していたって事を知ってた…?


「ったく…一花が触れられたくなさそうにしてたから黙ってたのによ」
「えっ、そうだったの!?ご、ごめんね…一花ちゃん……」
「う、ううん……けどどうしてそれを?」
「自転車屋って色んな情報入ってくっからよ。それでお前の事故のことも…な」
「そう、なんですね……」


ずっと家族と中学の自転車部の人達とかあの時のレース関係者、それから…手嶋さんにしか知られていないと思っていたあの事故の事がこんな身近な人に知られていたなんて。
だけど自分でも不思議な事に全然嫌ではなかった。以前の私なら、手嶋さんにこの事を打ち明ける前の私だったら……今通司さんと幹ちゃんから向けられているこの申し訳無さそうな視線も、通司さんが気を遣って触れないようにしていたというのも嫌で何かしら理由を付けて早々にここから逃げ出していたんだろう。

今は……少し、嬉しいと思っている。

少しの間だったけど私が選手として走っていた事を知っている人がいる事が、なんだか嬉しかった。自分でも笑っちゃいそうだ、前は選手時代の事に触れられる度に悔しさとか辛さとかでもうぐっちゃぐちゃになったドロドロしたような物が頭の中に流れてきて、嫌で仕方なかったのに。


「いやあ…あの時はほんっと大変だったんですよー!あともうちょっとで先頭に追い付けそうだったのに!」


笑いながらそんな事を言えば、通司さんは拍子抜けしたような顔をして、幹ちゃんは目を輝かせながら「聞かせて聞かせて!」ってはしゃいでいる。
それから幹ちゃんに色々質問攻めに合いながら、つらつらとあの日のレースの事を覚えている限り寒咲兄妹に打ち明けた。


「…そんな辛ぇ事あったのに、よくもう一度ロードに乗ろうって決心したな」


スゲェじゃねーか。そう言って通司さんに肩を強めに叩かれた。少しだけ痛かったけど、なんだか胸の中にあったかい物が流れてきてちょっとだけ目の奥が熱くなった。


「私一人じゃ、きっとこんな事考えもしませんでした」


今までのことが頭の中に湧き上がってくる。

手嶋さんとお兄ちゃんの走りに衝撃を受けたから総北に来て、もう一度自転車に関わりたいと思えた。
手嶋さんが寄り添ってくれたから、ずっと心の奥底に押し込んでいた気持ちを吐き出す事ができたし、お兄ちゃんとも、自分にも向き合えた。

何より……手嶋さんの自転車に直向きで一生懸命な姿のおかげで、『自転車は楽しい』って事を思い出せた。

もう二度と自転車に関わることはないんだろうって思っていたし、ロードに夢中だった事すらいつか忘れてしまってもいいやと思っていた私が今こうしてもう一度ロードに向き合えているのは、間違いなく手嶋さんがいてくれたからだ。

きっと彼はそんな事ないよ、って困ったように笑いながら言うのだろうけど……あの事故以来真っ暗で何にもない道をただぼんやり歩いていたような私を、手嶋さんが照らして導いてくれた。
そう…私にとって手嶋さんは星だ。誰よりも眩しくて、綺麗な一番星。


この気持ちが彼にとって迷惑な事はわかってる。もう忘れなくちゃいけないってこともわかってる。けど、苦しいほどに膨れ上がったこの気持ちはそう簡単に消えてくれそうにはない。


やっぱり私……どうしようも出来ない位、手嶋さんの事が大好きだ。



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