私の好きな人



◆◆◆◆◆◆


入学したばかりの四月には綺麗な淡い桜の花をその身に咲かせていた中庭の木々達は十二月になった今、枯葉をほんの数枚だけ身に付けたなんとも寒々しい姿になっていた。
昼休みを使った委員会ミーティングから教室へ戻る途中の廊下を歩きながら、窓からそれを見下ろして、もうすっかり冬なんだなと意味もなくちょっぴり寂しくなる。季節が進むのはあっという間だ。
そういえば、朝のニュースでは今日からぐっと気温が冷え込むと言っていたっけ。たしかに今朝は特に寒くて、より冷たい風に当たるロードで通学する事を一瞬躊躇ったし、今日はボトルを洗ったり水を使う仕事も辛いだろうな。
けどそんな事も言ってられない。部員のみんなも寒空の下で練習に励むのだから、マネージャーの私も頑張らなくちゃ。
みんな今日は「寒い寒い」と体を摩りながら外周に出るんだろうな。きっと部室に戻ってくる頃にはみんな汗をかいてるだろうけど、今日はホッカイロを準備しておこう。体温が下がらないようにドリンクに生姜も少し混ぜようかな。

生姜といえば、今日のお弁当に生姜焼きを入れてくれたってお母さん言ってたなぁ。昼休みになってすぐ委員会に向かったから、今日はまだお昼ご飯にあり付けていない。当然もうお腹がぺこぺこでたまらない。ミーティングがすぐに終わってくれたからよかったけど、少しでも長引いていたら私はきっと空腹で泣き出していたかもしれない。
早く教室に戻ってお弁当にありつきたい。今日のおかずは自信作って言ってたし、食べるのが楽しみだな。そう考えながらぐう、と悲鳴を上げそうなお腹を抑えて教室に向かう足を速めて目の前の曲がり角を曲がった──はずだった。
角を曲がり切る前に視界に飛び込んできたのはうちの制服の緑色のブレザーと赤いネクタイ。目の前に人がいて、このままじゃぶつかる!…と理解した瞬間にはもう手遅れだった。


「わっ…!」
「おっと!」


私のおでこはごつんと音を立ててその人にぶつかってしまった。しかも情けないことにぶつかった拍子に後ろによろけてしまう。お腹が空いて力が入らないせいで踏ん張ることも出来なくて、尻もちをついてしまうことを覚悟して思わずぎゅっと目を瞑った。

けど…いつまでもお尻に衝撃を感じる事はなかった。恐る恐る目を開いてみると、まず飛び込んできたのは前から伸びた手にしっかりと掴まれた自分の手首。どうやら、私の不注意でぶつかってしまった人がありがたいことに助けてくれたみたいだ。


「す、すみません…!」


言いながら視線を上げて、ぶつかってしまったのに助けてくれた親切な人の顔を見上げて……思わず目を見開いた。


「間一髪だったなー、怪我してないか?一花ちゃん」
「手嶋さん…!」


私の手首を掴んで助けてくれて、私に笑いかけてくれている彼は自転車競技部のキャプテンであり頼れる優しい先輩、そして……大好きな、私の彼氏の手嶋純太さんだ。


「はい、大丈夫です!ありがとうございました」
「よかった。可愛い彼女に怪我なんかさせたくねーからな」


ニッと笑った手嶋さんの右手が、手首から離れていく。彼の温もりが離れていってしまうのがちょっとだけ名残惜しいけど、それよりも「可愛い彼女」という言葉が照れくさいと同時に嬉しくてついへにゃりと笑ってしまう。

手嶋さんが私の恋人だって事が未だに信じられないな、と思う。

私が初めて彼を知ったのは去年、まだ私が中学三年生の時だった。私の一つ歳上の兄の青八木一のレースをこっそりと観に行った時、お兄ちゃんと一緒に走っていたのが彼だった。
お兄ちゃんと手嶋さんの走りは本当に息がぴったりで、正に完璧といえるチームワークだった。今でもあの時の衝撃は忘れることが出来ないし、今まで観てきたロードレースの中で一番心を揺さぶられた。
けど…レース中、手嶋さんの自虐を交えつつも挑発して心理戦を仕掛ける様はとても怖かった。
「すごく頭の良さそうな人だけど怖そうな人」…これが彼への私の第一印象だった。

けど、総北に入学して、マネージャーとして自転車競技部に入部してからはその印象は一変。彼はとっても優しくて面倒見がよくて、頼りになる努力家の先輩だって事がわかった。辛い時は寄り添って、力強い言葉で励ましてくれる優しい人。なのに自分には厳しくて人一倍練習を重ねている人。

私は彼のそんな優しさにたくさん救われて、頑張る姿には大きな力をもらって──そして気が付けば、恋をしていた。
毎日どんどん手嶋さんのことが好きになって、切なかったり幸せだったり……苦しいほど後悔したくなる事もあった。だから、今手嶋さんと恋人という関係になれたことがすごく嬉しいし、ふと夢なんじゃないかと思うこともある。


「一年の教室に来たって事は、部活の事で用ですか?」
「ああ。青八木と今後のメニュー組み直したから、これパソコンで清書して欲しくて」
「あ…はい。わかりました!」


手嶋さんがブレザーのポケットから取り出した、四つ折りにされたノートの一部だったらしき紙を受け取りながら頷く。開いてみると読みやすい綺麗な線の字が罫線に沿って並んでいる。これはお兄ちゃんの字だ。意外にも雑な手嶋さんの字が読めないって訳じゃないけど……これなら仕事がスムーズに出来そうでよかった。
今日の部活中にやりますね、と言いながらその紙をまた四つ折りに畳み直してからポケットにしまった。

仕事を頼まれるのは全然嫌じゃないし、むしろ頼って貰えることは嬉しい。それにお昼休みの時間に手嶋さんに会えただけでも嬉しい。けど…なんだかほんのちょっと残念というか、寂しいというか……部活関係なく私に会いに来てくれたのかな、なんてほんの少しだけ期待してしまっていた。


「その仕事を頼みに来たのはついでで……本題はこっちなんだわ」


手嶋さんの左手がすっと上がる。その手に持たれているのは、緑色のいかにも手嶋さんらしいランチバッグだ。


「オレとお昼、ご一緒してくれませんか?」




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