私の幸せはここにある

 すぐそばで泣いているはずの赤ん坊の泣き声が、まるで遠い世界の出来事のように思えてしまう。祝福の賛辞を述べる周りの女官達の声が、まるで上辺だけのお世辞のように聞こえてしまう。疲れ果てた体を横たえたまま目を瞑る。愛する伯済様の笑顔をぼんやりと思い出しながら、いっそこのまま眠ってしまおうか。少しでも良い夢が見たいから、大好きなモノを思い浮かべて眠りに落ちようと思う。浮かぶのはやはり、伯済様の優しくて儚げな笑顔。だがその笑顔はいつも、正妻の王妹様に向けられている。そして私は、伯済様に向けられる王妹様の気力に満ち溢れた笑顔も大好きだ。お二人の幸せそうな笑顔を思い出せば、私はいつでも幸せに浸れた。

 私は、伯済様を愛している。
 私は、王妹様を愛している伯済様を愛している。
 私は、愛し合うお二人を見ていると幸せだ。

 この感情は、何かおかしいのだろうか? 両立してはならないのだろうか? 産まれてくるまでは楽しみで、会うのが待ち遠しくて仕方の無かった、今日この日の出会いを楽しみにしていたはずの我が子の泣き声が、伯済様と私の子供の泣き声が、まるで私を攻め立てているように感じてしまう。これはきっと、体も心も疲れているからだ。だから眠ろう、なのに眠れない。疲れているからだろうか、色々なことを思い出してしまう。そうだ、あれはいつの事だっただろうか。
『あなたは正妻の王妹様と、随分と仲が良いのですね。妾として悔しくないのですか?』
 ああ、あまりに下らない質問で、誰に聞かれたのかすら忘れてしまった。
『だって、あのお二人の幸せそうな姿を見ているだけで、私まで幸せになってしまいますもの。悔しいだなんて、考えたこともなかった』
 そう返した後に、不可解な事を言われたのだ。より下らなくて、内容すら忘れてしまっていた。忘れてしまったはずなのに。なのになぜ、私は今になって思い出してしまうのか。
『郭淮殿に愛されなくても構わないの?』
 構わない訳がないじゃない。出産の疲れが突然に私の意識を連れ去り、糸が切れるように私はそのまま眠ってしまった。

 随分と日が傾いている。夢を見ることもなく、私は思惑通り眠ることができたようだ。だが、相変わらず身体は疲れ果てている。それだけ出産というのは大変なのだろうと、まるで他人事のように考えてしまう。
「お目覚めになられたのですね、先程まで郭将軍がいらっしゃっておりましたよ」
 間が悪かったのか、私が眠っている間に伯済様が来て下さったらしい。お会いできずに残念だ……残念な、はずなのに。なぜか今の私は、安堵してしまっている。
「お子様が健康な事を大変喜んでおられました。また、貴女様の顔色も良いと安心されておりましたよ」
 嬉しそうに、女官が言葉を繋げる。確か伯済様は、王妹様が伯済様の子をお産みになった時も、お子様の健康を何より心配なされていた。それこそいつものように、小さく咳き込みながら。あの時は、不安で青ざめて咳き込む伯済様の方が心配になってしまう程だった事を思い出してしまう。
「よかったです、やっと幸せそうにほほえまれて。ずっと難しそうな顔をされていたので、どこかお体がまだ痛むのかと心配しておりました」
 女官が安堵のため息を漏らして笑う。言われてみれば、あの時の伯済様を思い出すだけで、私の口はゆるんでしまっていた。ひょっとしたら、今日もあの日のように慌てておられたのだろうか。私が頑張っている時に、別室でおろおろと困惑しながら青ざめて、咳き込んでおられたのだろうか。それならどれだけ幸せだろう。もしその姿を拝見できたのなら、私はあのような問いかけを思い出すこともなく、伯済様にお会いする事を恐れることもなかったのかもしれない。
「どうか、まだゆっくりお休みくださいませ。お子様は、乳母達が面倒をみております。もし再び郭将軍が来られましたら、貴女様が一度目を覚まされたことはお伝えしておきますので」
 小さくうなずいて、再び目を瞑る。
「何か伝言があれば、お伝えいたします」
 ふと、女官の言葉で私は眉をひそめる。私は、伯済様に何をして欲しいのだろうか。何を知って欲しいのだろうか。何か、伝えたいことがあるのだろうか。
「……聞いておいて、ください」
 私を愛しているのか、私の子を祝福してくださるのか、聞いておいてください。そんな無茶を口走りそうになり、踏みとどまる。
「えっと、今度はいつ来られるのか、聞いておいてくださいますか?」
「ええ、わかりました。ご安心ください」
 相変わらず、女官はまるでわが事のように笑顔で引き受けてくれる。伯済様は良い使用人を持ったものだと感心しながら、私は再び眠りに落ちた。

 ***

 王妹様は、太陽のような方だ。いつも笑っていて、気力に満ち溢れている。伯済様と並ぶと、まるで太陽と月のようだった。私は、そのようなお二人が大好きだ。妾である私の出産が無事に終わったことを、王妹様は心から祝福してくださった。体力が回復したもののまだ疲れやすい体を中庭で休めていたら、綻ぶように笑顔を咲かせて、王妹様は話しかけてきた。
「ああ、よかったわ元気そうで。私の子が産まれた時、己が事の様に喜んでくれた貴女だもの。こうして顔を見るまで、心配で仕方がなかったの」
 あの日から、王妹様にお会いするのが少し怖くて避けていたことは、どうやら気付かれていないようだ。王妹様が無邪気に私を心配してくださる顔を見ていると、こちらの身勝手な恐怖心で先方を避けていたことに心が痛んでしまう。
 そう言えば、結局あの後に伯済様とお会いする機会はなかった。私の出産が心配で急いで駆けつけてくださったようで、私と子が無事だったことを確認次第、対蜀戦線の駐屯地に急いで戻ってしまわれたらしい。次に私と会えるのは早くとも一ヵ月後だと、伝えてくれた女官まで申し訳無さそうにしていた。
「ご機嫌麗しゅうございます、王夫人。なにぶん始めての子ゆえ色々と不慣れな点が多く、色々と助けていただくかもしれませんが……」
「そんなに畏まらないでくださいな、私と貴女の仲じゃない。それに、子の世話は私も乳母達に任せてばかりよ。貴女もそうすれば間違いないわ。安心して、伯済様が選んでくださった乳母達だから」
 やはり、王妹様は今日も太陽のようだ。明るくハキハキしたお声に、私まで自然と元気が出てしまう。
『伯済様が選んだのだから』
 王妹様の声を噛み締める。甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれるあの女官も、産まれたばかりの子を見てくれる乳母も、そして妾にも優しくお声をかけてくださる王妹様も、みな伯済様が選ばれた方だ。確かに、素晴らしい方々に違いない。
「伯済様はね、すこし頼り無さそうに見えるかもしれませんが。いえ、実際にお体が弱いのは否定できませんが。ですが、本当に優しくて、何事にも熱心で、一度決めたら貫き通す、素敵なお方なんですよ」
 伯済様のお話をする王妹様の頬は、ほんのり赤く染まっている。まるで初恋をする乙女のようだ。
「貴女も、わかるでしょう?」
 ゆっくり、うなずく。ふと頬に手を添えると、私の頬も熱を持っていた。中庭に射す太陽の日差しが強かったのだろうか。
「お互い、幸せですね。伯済様のような、素敵な方の元へ嫁ぐ事ができて」
 王妹様の言葉が、私の中ですとんと落ちる。ああ、なるほど。私は伯済様の事を思って、頬を熱くしていたのか。自分では、気付けなかった。

 ***

 赤ん坊なんて誰でも同じような顔だと思っていた。そして自分の子に会っても、その考えは揺るがなかった。何か変わるかもしれないと思っていたのに、驚くほど何も感じない自分に幻滅してしまうほど、他の赤ん坊と、王妹様のお子様と同じ顔に見えてしまった。
「王夫人の子とあまり変わりませんね」
 幸せそうに笑う乳母に自分の子を抱かせてもらいながら思い出すのは、やはり王妹様が産まれた伯済様の第一子で。こんな母親で申し訳ないと、胸に抱いている我が子に罪悪感すら感じてしまう。
「そうですね、どちらのお子様も郭将軍によく似てらっしゃいますから。この子は口元が特に似ていますね」
 慣れた手つきで赤子の口元を優しく撫でながら、乳母が言う。言われて注目してみれば、弱弱しくほほえんだ時の伯済様とこの子は瓜二つの笑い方をしていて、なんだかおかしくなってしまう。
「赤ん坊なんて誰でも似たような顔に見えるでしょう? こういう仕事をしているとね、結構違いに気付けて楽しいんですよ。ですが、郭将軍のお子様はお二人とも郭将軍によく似ていますよ。私まで驚くほどにね」
「伯済様は意外なところで自己主張が激しいのかしら」
 相槌のように返しながら、乳母と私の二人で笑う。そう、普段の伯済様は控えめに見える。何よりよく咳き込んでおられるから弱弱しく見えてしまうかもしれない。ですが、その力強いお言葉は耳を引き付ける、何があっても決して心は折れないし、譲れない事は決して譲らない。何よりとても力強い心をしていらっしゃる。
 指を差し出してみると、まるでかえでの落ち葉のように真っ赤で小さな指を伸ばして、必死に私の指を掴もうとしてくる。まだこんなに幼いというのに、ずいぶんと自我が強そうだ。
「まぁ、もう指を掴もうとしてくるわ」
「お母様がわかるのかしら。頭がいいのね」
 乳母がそう言って笑う。鋭い子なら、私がこうして抱いている間にも不安を感じている事がわかってしまうのではないだろうか。ふと空恐ろしくなってしまう私へ、この子は両手を向けて笑いかけてきた。
「……大丈夫よ」
 子に笑いかける。やはりこの子は、伯済様とよく似た笑顔で笑う。私がお腹を痛めて産んだ子供へ、安心させようと笑いかける。これは作り笑いかもしれないけれども、でもこの子が生まれたばかりの時ほど不安がないのは本当の事だ。
「だーいじょうぶですよぉ。お母様は逃げも隠れもしませんからね?」
 私の言葉を引き継ぐように、乳母が子に話しかける。そう、私はこの子からは逃げたり、隠れたりなどするはずもない。
 ……なら、私は何から逃げたいと思っているのでしょうか? 何が恐ろしくて仕方がないのでしょうか?

 ***

 約一ヶ月振りに見る伯済様は、やはり記憶の中と寸分変わらぬ笑顔で笑い、王妹様とお話をされていた。結局、蜀は僅かなけん制のみで魏の防衛線の強固さを悟り、撤退。一ヶ月にも及ぶ駐屯であったにも関わらず、大きな争いはなかったらしい。毎回、戦地へ赴かれる伯済様を不安な気持ちでお送りする王妹様や私に使用人たちは、心からの安堵で伯済様の帰宅を祝福した。
「郭将軍は、今回戻られて真っ先にお子様の様子を見に来られたんですよ」
 子供達を不安にさせないためだろうか。いつもニコニコと笑っている事で有名な乳母だったが、いつもよりなお幸せそうな笑顔で私に告げる。
「王夫人が子を産まれた時もそうでしたね。まったく、ご自身の体が弱いからと子の健康を過度に気遣う。伯済様らしいわ」
 少しだけ、ほんの少しだけ。乳母が困ったような顔をする。相変わらずの笑顔には違いないのだけれど、少しだけ困ったように、眉を傾けた。
「確かに、お世継ぎの健康状態が気になるのはあるかもしれませんが……それだけでは、ないんじゃないですかねぇ」
 乳母の言葉を聞きながらも、私の視線は伯済様と王妹様がお話する様子を追い続けていた。優しく語りかけているであろう伯済様に、嬉しそうに笑って答える王妹様に。私が子を産む前と、何一つ変わらない幸せそうな風景は、相変わらず見ているこちらも笑顔になってしまう。
 こちらに気付かれたのでしょうか。王妹様が、一際笑顔を綻ばせて大きく手を振る。どうやら私を呼んでいるようだ。その事で私の存在に気付かれた伯済様も、こちらを見て破顔する。
「今ね、貴女のお話をしていたのよ!」
 ゆっくりと歩み寄った私を、まどろっこしいとでも言いたげな勢いで王妹様が引き寄せる。私を守るように両肩を後ろから抱きすくめる。目の前にいる伯済様は、私達の様子を見て仲が良いと思われたのか、嬉しそうにほほえまれて、咳き込む。ああ、一ヶ月ぶりの伯済様は、体調も相変わらずのようだ。
「機会が合わず中々お会いできないので、心配しておりました。お元気そうで何よりです」
「一週間も経ったころには、なんとか普段どおりの生活が送れるようになっていました。乳母達や女官達、そして王夫人のおかげです」
 伯済様の声は、相変わらず穏やかだ。王妹様の利発さが太陽だとするのなら、伯済様の平穏さはまるで月のようだと思う。
「顔の色艶も良い様子。貴女は眠っておられましたが、出産直後の貴女とお会いした時も、このように血色の良い顔色をしておられたので、胸を撫で下ろしました」
 筋張った伯済様の指が、私の頬に触れる。青白い肌の色から連想してしまうような、低く落ち着いた体温が指先から頬へと伝わる。少しずつ、伯済様の指が冷たくなっていく気がした。
「そんなに照れなくてもいいじゃない」
 耳元で王妹様が小さく笑う。どうやら、私の頬が徐々に熱を持っていただけのようだ。
「お二人の仲が良く、安心しました。やはり愛する方々には仲良くしていただきたいもの……ごふ、げふ」
 自分でもわかるほど、耳が熱くなる。ひょっとすると今の私は、顔どころか体中を真っ赤にして照れているのかもしれない。
「ええ、彼女が本当に良い人だから、私もとても過ごしやすいの」
 表情こそ見えないが、王妹様の声は私にもわかるほど明るく、優しく、嬉しそうだ。
「では、私はまた子供達を見てきましょうか。本当に、お二人とも私より健康そうでなにより……」
 頬に触れていた手が、ゆったりと頭に移動する。まるで子をあやすように、優しく私の頭を撫でる。筋張って頼りなげだと思っていた伯済様の手はとても大きくて、私は思わず目を瞑ってしまう。
「あなた方を見ていると生気が漲るようだ。愛しています……」
 私はなんてちっぽけな人間なのだろう。子が産まれてから一ヶ月の間、私は伯済様に愛されているのかなんて考えていたけれど。こんな、伯済様のたった一言で、伯済様のたった一挙手で、私はこれほど満たされて、幸せを感じてしまう。これほど幸せなのに、悔しいなんてあるはずがない。
「伯済様、よければ私も子供達に会いたいわ。貴女もいらっしゃらない?」
 王妹様の言葉に、私は満面の笑みでうなづく。一ヶ月も遅れてしまったけれども、今ならあの子を母親らしい気持ちで抱き上げてあげられる気がする。


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