二月 頑張る差出人と支える受取人

 辛いと感じたことはあっても、つまらないと感じたことは一度たりとてなかった。苦しいと思うことはあっても、逃げ出したいと思ったことは一度たりとてなかった。この三年間、諸葛誕はそれだけ真面目に、ひたむきに、自らが憧れる天才達に並び立てる存在になるべく、学業へと打ち込んできた。なのに三年生の三学期である今、窓の外をぼんやり見つめて考え事に耽っているのは、進路が既に決まり気が緩んでいるからだと思われても、ある程度は仕方がないのかもれない。だが、生真面目で堅物な諸葛誕の事だ。本人は決して授業を軽んじているつもりなどなかった。ただ単に、授業より気がかりな事があり、とにかくそれが気になって仕方がないだけなのだ。
 真面目で努力家な白露の事だ、今頃は一年生の教室で脇目もふらずに授業へ集中しているに違いない。諸葛誕はそう思い、窓の外を見る。校庭で体育の授業に励むのは、ジャージの色からして二年生だ。当然、その中に白露がいることはない。なのに、諸葛誕はどうしても授業内容が頭に入らず、つい無関係な二年生が校庭でちょこまかと動く様子を眺めてしまう。心配事で、頭が一杯になっていた。
 もう半年以上昔の事となった夏の日の図書室で、一人物陰に隠れ思いつめ、泣いていた白露を思い出す。何年もの長い間を一人で努力し、努力を隠し、強がって、強がる気持ちで自らの首を絞めるように、誰にも無理を認められず、無理をし続けることが苦しくて泣いていた。諸葛誕が卒業すれば、白露は誰に甘えるのだろうか。誰の前で泣けるのだろうか。自宅で兄に、王基に甘えられるというのなら、白露が現状でここまで張り詰めてしまっているはずがない。認めてくれる存在がいるというのなら、あれほど白露が諸葛誕に甘える必要がない。これから二年の間を、白露は再び一人で過ごすことになるのだろうか。
「じゃあ……諸葛誕! 教科書の90頁、問3」
 教師の声で我に戻った諸葛誕が、教科書に目を落とす。幸い、ケアレスミスさえなければ容易に解ける問題だ。返事と共に立ち上がり、ケアレスミスをせぬようにと必死に頭を切り替え、努めて生真面目に板書する。丁寧に、参考書と寸分違わぬような回答を行い、真面目に授業へ打ち込むようにとの教師からの声を浴びつつ、自らの机に戻る。

 司馬師の記憶でも、王基の記憶でも、諸葛誕が教師に授業態度を指導されるという事はこの三年間で始めてだったようだ。体調でも悪いのか、それもと心配事でもあるのかと、休み時間にたずねられるが、内容と質問者を考えると、少々話し辛く思えた。諸葛誕としては白露と交際を始めてからでも、二人とは今まで通りの付き合いをしているつもりではあった。だが改めて考えると、王基に対しては多少わだかまりを感じる点もある。
「いえ、騎手養成学校に入学が決まったのは良いのですが、全寮制で地域も違う。私が戻ってくるまで、白露殿とは遠距離でのお付き合いを余儀なくされるのかと考えてしまい、つい」
 諸葛誕の悩みを聞いても、当然二人では解決方法を出すことはできない。だが応援はできるとばかりに諸葛誕を激励する司馬師とは対照的に、王基はあまり関心自体がなさそうに見えた。
もし、諸葛誕が白露から『兄に心配をかけたくない』との願いを聞かされていなければ、ある意味最も相談に適した相手であっただろうに。
「……まぁ、俺は自宅から大学に通うし、何かあれば連絡をくれ。できる範囲で対応する。白露が家を出たりしない限り、一応同じ家に住んでいるわけだしな」
 思わず諸葛誕が目を見開く。関心がないのだろうと思い込んでいた事をわずかに恥じ入りながら、決して王基が白露に全く関心が無いわけではないのだと、胸を撫で下ろした。

 ***

 授業で習った事ならば、完璧に習得するまで何度でも復習する。決して後回しにはせず、鉄は熱いうちに打てとばかりに、習ったその時に取得してきた。だから、今ならクッキーも上手に焼けると思ったのだ。授業であれだけ失敗して、幾度となく焦がしたり、焼いている最中に割れてしまったりを繰り返して、成功するまで授業時間を一杯使って大量の失敗作を生み出してしまったが。だから、あの授業から数ヶ月が経った今でも、身につけた技術は残っているはずだと思っていた。目の前の皿の上にそびえ立つ、失敗したクッキーの山を見つめながら、白露は一体なぜ失敗したのかを考える。
「オーブンが、学校と家じゃ違うから……?」
 家族が寝静まった深夜に、両親から許可を得て台所で一人、苦戦する。以前に諸葛誕へ渡した量をそろそろ超えてしまいそうな失敗の山から、せめて焦げてはいないクッキーを選別する。
 放課後の食堂で一緒にパンを食べるときに、諸葛誕が菓子パンを食べていない事が、白露には気がかりだった。ひょっとしたら、甘いものが嫌いなのかもしれない。そしてもう一つの懸念は、学業に関係のないものの持込を厳しく取り締まる風紀委員長本人である彼に、一体いつ、どうやって渡すのかという事だ。バレンタイン当日は用事があるという彼に、学校へ持ち込まずにどうやって当日に渡すというのか。
 彼の自宅まで持っていこうか? だが付き合っていない男女が携帯電話の番号を交換する事すら不純だと言い出すような諸葛誕だ、自宅を教えて欲しいと言っても断られるだろう。 
 なら、彼に最寄り駅まで受け取りに来てもらおうか? だがそんな事が可能なら、用事があると言ってデートを断りはしないだろう。
 名前を書いた手紙を添えて、靴箱に入れておいてはどうだろう? 結局、白露が学校にお菓子を持ち込んだ事実に変わりはない、風紀委員長としての彼を悩ませてしまうだけだ。
 失敗をしたクッキーの山から焦げていないものを取り出し、ぼんやり白露は考える。例えここでお菓子が上手に出来上がっても、渡す方法が思い浮かばない。そうして思い悩めば思い悩むほど、お菓子作りに集中できず、失敗作は増えていく。
「……お菓子だから、学業に関係ないって言われるんだよね?」
 白露は普段、あまり食事もお菓子も作らない。だが、家庭科の授業である程度の基礎知識は習得し、ネットで検索するだけの知恵は持ち合わせていた。後は、白露が考えたようなアイデアにあうメニューが見つかるかどうかだけだ。

 いつもなら先に学校へ向かっているはずの白露が朝に台所で眠ってしまっていたと聞いて、王基は驚き、思わず笑いそうになった。当の白露は、今も王基の目の前で忙しなく朝の準備に追われている。
「白露も意外と失敗したりするんだな」
 朝食のシリアルを食べながら小さく呟き、慌てる様子の妹を眺める。改めて考えると、妹の白露をこうしてじっくり見つめるのは王基にとって始めてかもしれない。
「お兄ちゃん! 公休先輩に、昼休み中庭に来てって、私が一緒にお弁当食べるって、伝えておいて!」
「なんだ? 今日はおまえ、弁当なのか?」
 ばたばたと朝の準備をしながら白露が頷く。バレンタイン前日の深夜から台所にこもって作っていたのがお菓子ではなく弁当だと聞き、王基は台所の隅に置かれている焦げたクッキーが山のように盛られた皿に視線を移す。
「後、そのクッキーお兄ちゃん達にあげる! 食べて! 私の分はもう食べたから!」
 二人の兄達に視線を送ることもなく、白露が叫びながら家を飛び出していく。残された王基ともう一人の兄は、辛うじて食べられそうな程度にこげたクッキーをつまみつつ、気ままにマイペースに、各々朝の準備にとりかかった。
 ***

 食堂に繋がっている中庭は、食事時間の昼休みには学生達で賑わっていた。話に花を咲かせる友人達、大盛りの定食をほおばる運動部員達、そしてつかの間の逢瀬を楽しむ恋人達。
「公休先輩、こっちこっち!」
 一足早く授業が終わった一年生の白露が、二人がけのベンチに腰かけ、諸葛誕に手を振る。普段なら教室で食べている弁当を片手に持参した諸葛誕が、笑顔で白露の横に腰をかけた。
「急だったから、来てくれないかと思ってた」
 登校した諸葛誕は、朝一番に王基から呼び止められ、白露からの伝言を伝えられていた。ただ昼食を共にしたいだけと受け取ることもできる内容ではあったが、今日が二月十四日であることを考えてしまうと、どうしても諸葛誕は浮つき、落ち着かない。チョコレートなどの学業に関係ない菓子を校内に持ち込んでいたというのなら、風紀委員長として没収せねばならない。そして白露が諸葛誕の立場を知らないはずはない。だが決して、諸葛誕も白露の気持ちをただ無下にしたい訳ではなく、もし今日に用事がなければ、放課後に待ち合わせをするなりして、恋人達のイベントを恋人と過ごしたかった気持ちは持ち合わせていた。
「その、急に、何かあったのですか? 白露殿から昼食を共にしたいというお誘いは、初めてだと思うのですが」
 少しだけ悩んだように、白露が頷く。その表情は、何かをたくらんでいるというよりは、思いつめている、不安がっているように見えた。
「……今日は、お弁当をたくさん作ってきたから、手伝って欲しいなって。公休先輩って運動部だし、一緒に出かけた時もたくさんご飯食べてたし……少しだけでいいから、ね?」
 そう言いながら、白露は小さな弁当箱とビニール袋を取り出した。弁当箱には洋風のおかずが、ビニール袋にはスコーンが入っている。
「スコーン? パンやベーグルではなく?」
 諸葛誕の質問に、白露が首を縦に振る。
「……チョコクッキー入りスコーン。主食、だよね? 炭水化物だよね? 問題ないよね?」  
 怯えたような瞳で白露が諸葛誕を見つめる。ビニール袋の中に入っているのは、砕いたチョコクッキーがたくさん練りこまれたらしいスコーンだった。スコーンを主食だと主張しながら、不安げな顔で諸葛誕をじっと見つめる白露を見かねて、諸葛誕は思わずほほえむ。
「よく、バナナはおやつか否かという話もありますが……昼食時に食事として持参したものを食べているだけならば、我々風紀委員がとやかく言う権利はありますまい」
 花が咲くように、白露の顔が綻ぶ。ニコニコという音が聞こえそうなほどの笑顔で、袋からスコーンを取り出す。
「良かった、これでもダメだったらどうしようかと思ってた。どうにか、チョコをお弁当にできないかなって……よかった、大丈夫で」
 諸葛誕はスコーンを白露から受け取り、一口頬張る。チョコクッキーがふんだんに練りこまれた見た目とは違い、想像以上に甘さは控えめで、確かに食事の主食にもなりそうだった。
「見た目に反して、それほど甘くはないのですね。これなら塩辛いおかずとあわせても、さほど違和感はなさそうです」
「あー……やっぱり、公休先輩もそう感じる? そんなに焦げてないクッキーを選んだつもりだったけれども、クッキーに入れるチョコがビターすぎたか、クッキーの砂糖を減らしすぎたのかな」
 確認するように、白露がスコーンを頬張る。小さく何度も頷きながらスコーンを食べる様子は、少々小柄な体型も相まって、相変わらず小動物のようだった。
「何、笑っているんですか? 先輩? はやく食べないと、お昼休憩終わっちゃいますよ?」
 真顔に戻った白露を見つめて、諸葛誕が声を出し幸せそうに笑っていた。
「いや、私の判断は間違っていなかったと、改めて確認してしまってな」
 何の判断ですか? 白露の問いに諸葛誕は答えず、ただ静かにほほえみながら頷いて、自らの弁当を広げて食べだした。
「……変なの。別に、言いたくないならいいですけどね」
「話すと、白露殿が機嫌を損ねてしまう可能性があるからな」
「私の悪口なんですか?」
「いや、私としては褒めているつもりだが」
「先輩がそういうなら、悪口じゃないですね」
 真顔のまま、白露が食事に戻る。諸葛誕を信じて当然だというような白露の返事に、諸葛誕の口元がゆるむ。
 やはり、白露殿はあのウサギのマスコットのようだ。あの日にウサギを選んだ事、白露殿の真似をしてウサギのマスコットに名をつけた事。全て適切だったと、諸葛誕は噛み締めていた。
 そして何より、諸葛誕の立場を理解して気遣った上で、これほど趣向を凝らしたバレンタインの贈り物を考えた事。
「……素敵なバレンタインの思い出を、ありがとうございます」
 改まった諸葛誕の一言に、白露の頬が真っ赤に染まる。スコーンで口を隠し、聞こえるか聞こえないかという音量で小さく、どういたしましてと白露が呟いた。


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