一月 落ち込む小動物と慰める番犬

 一見、いつもと変わらない無感情な顔の白露に見える。だが白露と親しい人なら、彼女が不機嫌なことはどことなく感じられる空気を漂わせていた。さらに、目尻や頬はよく見れば濡れ光り、目の下にはほんのりとアイシャドウのようなクマができていた。
「……別に、何でもない」
 何かあったのか、困ったことでもあるのか、疲れているのか。諸葛誕が何を聞いても、彼女は一つ覚えのように何もないと答えるだけだ。暖簾に腕押しとは良く言ったもので、何を聞いてもまるで手応えがない。何もないと返されては、さらに追求するわけにもいかない。だが、明らかに普段より弱っているように思えてならなかった。

「……そういうのじゃないから、大丈夫だよ」
 ある日の下校時、もう他の生徒が見当たらない靴箱の前。学校で転んだと言いながら膝に内出血を作っていた彼女は、いじめを疑った諸葛誕にそう答えた。何度聞いても自分で転んだと答える白露を疑ってしまい、思わず幾度となく言及するが、彼女が下らない嘘などつかないということは諸葛誕が一番良く知っている。
「なぜ、転んだのですか」
 白露は諸葛誕の質問に答えなかった。決して下らない嘘はつかないが、隠し事なら頻繁にする彼女は口を紡いでしまった。気まずそうに目を反らして、いつの間にか目尻へ涙を貯めて、口を真一文字に結んで答えない。肩を掴んで瞳を覗く諸葛誕から目を反らし、不機嫌そうに口をへの字に曲げてしまった。
「か、考え方……してたか、ら」
「何を、考えていたというのですか?」
 白露は口を開かない。だが、上目遣いに諸葛誕を見上げて、瞳を潤ませながら、肩をわなわなと震わせて……やっと、小さく呟いた。
「……私、先輩にっ、似合わないって。釣り合わないって、言われ、て……っ! 何か、されたりとかは、ないけど……ただ、私じゃ、無理だって、みんなが……」
 ダムが決壊するように、ポロポロと涙が溢れる。瞳に溜まっていた輝きが、頬を伝い服に落ち、染みを作る。対照的に、諸葛誕の眉が普段以上につり上がる。眉間のシワが音も聞こえそうなほどに深くなる。
「そんな事、他人が決めるような事ではないはずだ! そもそも、私自らあなたを選んだのですよ? なぜ他人にそのような事を言われなかればならないのか! そして、白露殿は私の判断を信じては下さらないのですか? あなたは、私の言葉よりどこの馬の骨とも知れない相手の言葉を信じるのですか?」
 涙と共に言葉を詰まらせ、白露が諸葛誕の目を見る。いつもの強がりが鳴りを潜めて、怯える子供のような目ですがるように諸葛誕を見つめ、視線で助けを求めているようだった。
「だって、私、性格も口も悪いし……すなおじゃないし、運動もできないし……。なのに、公休先輩は、なんかすごい人気で、優しくて、みんなから好かれてて、運動もできて、勉強もできて……私とは、全然違って。私なんか、釣り合わなくて……」
 あなたは、私の風紀委員長という立場を理解してくれるほど、利口で聞き分けがいいではないですか。そう言いながら、諸葛誕が白露の頭を撫でる。
 あなたは、私に合うスヌードを選んでくださったり、ぬいぐるみに私の名前をつけたり……私という個人のことを見て、愛して下さるではないですか。そう言いながら、諸葛誕が白露にほほえみかける。
 あなたは、特待生として良い成績を取り続け、私に心配をかけまいと必死にこらえたり、いつも頑張っている努力家ではないですか。そう言いながら、両の手で頬を挟んで顔を覗き込む。
 頭を撫でられ、ほほえまれ、顔を間近で見つめられ。白露は嗚咽し、しゃくりあげ、必死に涙をこらえていた。そして、何かを決意したように大きく頷く。諸葛誕を信じると言いながら、再び大きく頷く。次の瞬間、顔をふって手を振りほどき、諸葛誕の胸に顔を埋めて、泣き出してしまった。子供のように泣きわめく顔だけは見られぬようにと隠して、驚くほど幼い泣き声をあげて。信じるから嫌いにならないでと、頑張るから捨てないでと言いながら。
 それは、独りで平気だと、他人の助けなど必要ないと、兄だけでなく万人の前で強がっていた頃の彼女ならば決して見せなかっであろう、諸葛誕があの日に気付いた白露の本性だった。
「ああ、構わない。私があなたにどれほど助けられている事か。私があなたをどれほど助けたいと思っている事か。どうか、独りで無理をしないでくれ。あなたが私のそばで幸せそうにほほえんでくださるというのなら、いつまでもあなたを支え続けよう!」
 ゆっくりと顔をあげた白露の頬は相変わらず濡れそぼち、瞼は腫れて、瞳は真っ赤で、鼻をすすっている。だがすでに眼光は鋭さを取り戻しており、いつもの口調で、拗ねたように、照れを隠すように、ただ一言『ありがとう』とだけ言い放ち、必死に胸を張って強がっていた。

 ***

 ぼんやりと、白露が自分の手を見つめる。防寒具の着用が認められている校風の為、一月になってから白露は登下校の際に、分厚い真っ白なミトン手袋を着用していた。横を歩いている諸葛誕を見てみれば、潔癖な印象の白手袋をつけているだけだ。
「先輩って、いつも白い手袋をつけてるよね。冬とか、寒くないの?」
 白露の指摘に、諸葛誕が否定の意で首を横に振る。冷え切った白露の頬に触れた諸葛誕の手袋越しの手は、存外に暖かかった。
「肌着のようなものですから。様々な素材の白手袋を用意し、季節により変えている。今は、保温素材のものだ。一見薄手に見えるが、他の防寒具とあわせれば充分に温かいぞ」
 諸葛誕が少し得意げに語ると、白露はその内容に驚き、頬に触れていた諸葛誕の手を両手で包み込んで握る。だが、ミトン手袋の上からでは手袋の質感すらわからなかった。
「じゃあ、夏の時に先輩の手を冷たく感じたのって、手袋の素材もあるのかな?」
 諸葛誕の隠れたこだわりを聞かされて、キョトンとした様子で驚く白露が思い出したのは、六月の夏に弱り、冷え切っていた諸葛誕の手だった。乗り越えたとはいえ、辛かった思い出が蘇った諸葛誕は、少々寂しそうに笑う。
「いや、あの時は実際にあまり体調が優れなくてだな……本当に、あの時はあなたがいてくれてよかった、ありがとう」
 当時を思い出した諸葛誕を、白露が心配そうに見つめる。失言を詫びながら、手を握る。
「嫌なこと思い出させちゃって、ごめんなさい……こんなことでいいなら、いつでもするから。私には、こうして手を握ることしか、できないけれども」
 充分だと、諸葛誕が笑う。その笑顔には一点の曇りもなく、穏やかなものだった。
「その、白露殿の手袋も……私が想像していた通りで、愛らしい」
 愛らしいという言葉に頬を赤らめながら、想像していた通りという言葉に首をかしげる。意味をたずねる白露に諸葛誕が話したのは、八月の買い出しで諸葛誕が購入した、ウサギのぬいぐるみマスコットの話だった。
「無表情でありながらどこか愛らしいところと、白くて小さなところが、その……白露殿に、似ていると、当時から思っていたのだが。そういえば、話したことはなかったな」
 公休先輩も同じだったんだ。あの八月の日に一目見た時に諸葛誕を連想し、当の本人に贈られ、思わず贈り主の名をつけた柴犬を思い出す。
「でも、その、私ってウサギなんですか? 他の、ネコやクマも、無表情でむすっとしていて、丸くて可愛かった気がするけど……私って、ウサギっぽいところありますかね?」
 不思議そうに白露が諸葛誕にたずねる。諸葛誕は白露の質問する仕草まで愛おしそうに、楽しそうに見つめながら笑う。
「なぜウサギか、か……パンを頬張る様子が、小さな動物のように見えてしまってな。私はあまり動物に明るくはないのだが、リスやウサギのようだなと、あの頃は思っていた」
「今は、違うの?」
 白露の再びの質問に、諸葛誕の頬がゆるむ。握られた手とは逆の空いた手で、白露の頭をそっと撫でる。ただほほえんでばかりで、諸葛誕は白露の質問に答えない。
「……どうしたの? 先輩?」
「そういえば、白露殿はあの柴犬に私の名を名付けたのですよね?」
 小さく頷いて、白露が肯定する。
「あまり物に名前を付けたことはないのだが、そうだな……私も、白露殿の名前をつけていいだろうか? せめて、あなたの代わりに寮生活を共にしたい」
 顔を真っ赤にし、質問をはぐらかされたことに拗ねながらも、再び白露が小さく頷いた。


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