十月 照れるモブと浮かれるヒーロー

 定期テストでのライバルである鍾会が、憎々しいほどのドヤ顔で表彰台に上がっている。体を動かすことが好きではなくむしろ苦手な白露にとっては、体育祭は普段のライバルが個人競技で一方的に活躍する様をただ憎らしげに見せつけられるだけの、つまらない行事と成り果てていた。白露自らが出なくてはならない競技では、いかに足を引っ張らずに目立たないかだけを考え抜くだけで、ただ観戦するだけの競技では、とくに仲が良い同学年もいないのであくびをかみ殺しながら眺めるだけ。そんな校内行事に午前だけで飽き飽きしてしまった白露は、苦虫を噛み潰したような顔で昼休憩には中庭へと抜け出し、紙パックの飲み物を両手で抱えて飲んでいると、突如大きな声で呼び止められた。
「白露殿、白露殿! クラス対抗リレーのアンカーとなりましたので、どうか見ていて下さい。あなたに勝利を捧げます!」
 聞き覚えのある、いや天命館に入学してからの数ヶ月で忘れられない思い出となった大きな声で名を呼ばれて、思わず飲み物を吹き出しそうになるが、必死にこらえて息を整える。
「いや、クラス対抗リレーって学年関係なくクラスの縦割りだし、私は先輩とクラス違うから、別のチームなんだけど。勝利を捧げるって、うちのチームに対する完勝宣言じゃあるまいし」
 九月に交際を始めてからというもの、諸葛誕は機会さえあれば表だって白露へ会いに来るようになった。今も、弁当箱を片手に白露へ会いに来たようだ。白露の家族が応援に来ないと聞いていたからか、貴重な昼休憩だというのにわざわざ探し回ったのかもしれない。既に電話番号もメッセージアプリのアドレスも交換しているというのに、こうして中庭で見つける前に一年生の席まで確認に行ったと聞いた時には、じつに諸葛誕らしい気がして、白露は思わず笑ってしまう。
「ところで、先程から何を大切そうに抱えているのですか?」
 両手で包み込んでいるからか、諸葛誕からは白露が飲んでいる紙パックのラベルが見えないらしい。ふと思いつく事があり、白露は意地悪くほくそ笑んでから、小さな声で囁いた。
「えっへへ……これね、お酒の味がするお茶。大人の味、でしょ?」
 諸葛誕が年下の恋人に笑いかける上級生の顔から、厳しい風紀委員長の顔に早変わりする。運動の苦手な白露ではとても避けられないような素早い動きで、咄嗟に紙パックを奪い取る。だが、諸葛誕が白露から奪い取ったものは、なんの変哲もない紅茶の紙パックだった。
「ま、まさか……中身を入れ換えて?」
 恐る恐る確かめるように、諸葛誕が紙パックを鼻に近づける。ほんのりとレモンの香りが漂うだけで、やはりレモンティーらしい香りしかしない。ゆっくりとストローを口に咥え、一口だけ啜る。まるでジュースのように甘い味は、よくあるチープな味わいがする市販のレモンティーだ。諸葛誕は目を白黒とさせながら二口目を吸うが混乱を深めただけで、ストローから口を離して紙パックを再び眺める。諸葛誕の素直な反応があまりに愛おしかったのか、こらえきれずに白露が笑い出した。
「アハハハ! ごめん、ごめんなさいって……なんか、甘いレモンティーみたいな味のお酒があるらしいって聞いたから、じゃあ甘いレモンティーってお酒と同じ味って言っても、嘘じゃないかなって?」
 盛大なため息と共に、諸葛誕が肩を大きく下げる。わずかな落胆と疲れ、そして大きな安堵のため息だった。
「はぁ、からかわないで下さい……全く、もしあなたが未成年で飲酒などという不届きな行いをしていたらと、慌てました」
 実際にずいぶんと慌ててしまったらしく、十月だというのに眉間のシワを汗が伝い落ちた。だが、白露はなおも悪戯な笑顔を浮かべる。
「でも、今の間接キスだよね?」
「そ、それは、仕方なく……! 風紀委員だからとからかうな!」
 顔を真っ赤にした諸葛誕が怒鳴り、その怒鳴り声に反応して白露が真顔になる。表情が消えた顔で悩むように首をかしげると、白露は不思議そうに一言だけ、ぼそりと呟いた。
「……彼氏だから、からかったんだよ?」
 まだ赤くなる余地があったのかと驚くほどに、諸葛誕が顔を赤らめる。耳や首まで真っ赤に染まりあがり、慌てた様子で反論する。
「そ、そもそも! なぜ、こんな事をするのですか! こんなにも私をからかって、一体何のつもりが……」
 白露が全く表情を変えず、首を反対側にかしげて、再びぼそりと呟く。
「うーん、……キスして欲しいから?」
 諸葛誕が固まる。不運にも手を滑り落ちた紙パックは、残り少なかったためか地面を軽く濡らした程度で、二人の服を汚すことはなかった。
 だが、白露は諸葛誕が紙パックを落としたことが不満そうだった。
「ひどい! 私、先輩と間接キスしてない!」
「そういう問題ではない!」
「じゃあなんで……付き合って一ヶ月経つのに、なんで……」
 ため息をつくでもなく、困った顔をするでもなく。諸葛誕は腕を組み、生徒を指導する風紀委員長の顔に戻っていた。
「元より、高校生がそのような不健全な行為を行うべきではない。最低でも高校卒業を待ってだな……」
 白露の表情が曇る。それは不機嫌や不満ではなく、不安によるものだった。
「……私が卒業するまで待っててくれるの? 卒業した後も、先輩はそばにいてくれるの?」
 当然だと、諸葛誕がうなずく。
「でも、先輩って大学じゃなくて全寮制の養成学校に行くって言ってたじゃない」
 大丈夫だと言い、諸葛誕が白露の両肩を掴む。
「なんで? 卒業まで三年もかかるんでしょ? 私達が出会ってまだ半年なのに、その六倍も会えないんだよ?」
 諸葛誕が困り、悩み、考え込む。白露が抱え込んでいた不安を吐露する姿を見かねた様子だったが、何かを決意し、大きくうなずいた。
「そうだな、わかった。ならば、二年で迎えに来よう」
 二人の間に流れる空気が変わる。突然の提案で狐につままれたような表情の白露をよそに、諸葛誕が言葉を続ける。
「免許を取るのに養成学校の卒業資格は必要ないからな、免許さえ取れれば卒業を待たなくてもいい。なんせ全寮制だ、自習の時間も充分にあるはずだ。それなら、白露殿の卒業式に立ち会うこともできるだろう。この約束で、信じてもらえないだろうか?」
 そんな事できるはずない。拗ねたように吐き捨てる白露の頭を撫でて、諸葛誕が笑う。
「約束は守る。まずは先程約束した通り、リレーの勝利をあなたに捧げよう。そうすれば、私は一度口にした約束は守ると、信じてはもらえないだろうか?」
「だから、先輩と私、チーム違うし……」
 泣き出しそうになっていた白露が、再び小さく笑った。

 ***

 大勢の人間から惜しみない称賛を浴び、皆の笑顔に囲まれながら満足げに笑う。今の諸葛誕の姿は、まさしく彼が憧れてやまない『天才』のあるべき姿なのかもしれない。アンカーの証であるたすきをかけてバトンを片手に走る姿は、小柄な身体も相まってしなやかな肉食獣のようだった。なのに、彼の成績を祝福する皆へ向ける笑顔はなんと爽やかで、清々しく優しげなものなのだろうか。
「白露殿、見ていてくださいましたか!」
 クラスメート達に囲まれているというのに、諸葛誕は突然よそを向き、一年生の、しかもリレーでは別のチームであるクラスの席に座る白露へ大きく手を振り、大声で叫んだ。諸葛誕のデリカシーがないところは苦手だと常々思っていた白露は、遠い目をしたまま無表情になり、固まってしまった。

 生徒会役員と手伝いの生徒達で体育祭の片づけをする中で、白露は表情こそ平静を保ちながらも耳まで真っ赤にしたままで、生徒会の手伝いをしていた。一人で幾人も追い越してチームを逆転勝利に導いた体育祭のヒーローが、全く別の学年、別のチームの生徒の名を呼びながら手を振ったのだ。嫌でも注目を浴びてしまう。
「それにしても、リレーの諸葛誕はすごかったな。いやー、さすが兄上がアンカーに選ぶだけあるわ」
 ゴール後の出来事を共に思い出してか、司馬昭がわずかな苦笑混じりに感嘆の声を漏らす。この言葉を文字通り受け取り笑顔で謙遜する諸葛誕とは異なり、白露は名を呼ばれた時の事を鮮明に思い出したらしく、うつむいてしまった。
「でも、あんな風に名前を呼ばれちゃ、白露ちゃんも照れてしまって可哀想でしょう? いくら恋人同士だからって」
 王元姫の指摘に、諸葛誕と白露が慌てだす。極度の羞恥で思わず必死に関係を否定してしまう白露だが、指摘を受け入れ自らの行動を省み、素直に反省する諸葛誕がいては説得力もない。
「なんだ王基、妹と友人が付き合ってるというのに無反応だな。知っていたのか?」
 皆を慈しむように見つめる司馬師の問いに、王基が首を振って否定する。表情は相変わらず平坦で読めない。
「いや、今始めて知った。それにしても、白露は嘘が下手なんだな、それも知らなかった。あれはひどい、バレバレだ」
 司馬師が小さくため息をつく。お前は相変わらずだと、呟きながら。

 ***

 学年が違うからと、いつものように正門前の靴箱で待ち合わせていると、相変わらず先に来ていた白露の様子が少しおかしいように見えた。いつもなら、他人に何かを勘ぐられる事が嫌で、努めて無表情に待っているというのに、今日はそわそわして落ち着かない。まるで、他人の目を気にしているような姿に違和感を覚えつつ、諸葛誕は待たせた事を詫びながら、現れた。
「あのさ……ああいう、風紀委員会の放送、初めて聞いた気がするんだけど。前からあった? 急に、なんで?」
 驚いて心臓が止まるかと思った。開口一番にそう言いながら、白露は唇を尖らせる。出会った頃に比べればずいぶんと色々な表情を見せてくれるようになったと、二人で手を繋ぎ、最寄駅まで向かいながら、諸葛誕は感慨無量に白露の様子を眺めてしまう。
「毎週水曜日の昼休みにいつも流しているが、確かに私が担当する事はあまりないな」
 事の発端は今日の昼休み。風紀委員会からのお知らせで全校に諸葛誕の声が響き渡り、先日の運動会での一件を――リレーの功労者である諸葛誕が、注目を浴びる中で白露の名を呼び、手を振っていた件を――覚えていたクラスメートに冷やかされてしまった、という事らしい。
「風紀委員全員での持ち回りなので、確かに毎回私が流すわけではないが。一学期にも何度か私が担当した事はあったはずだ」
「だ、だって……当時は先輩の事なんてどうでも良かったし。周りも冷やかしたりしないし。というか! その、先輩が放送するなって事じゃなくて、体育祭の件で周囲が色々言ってくるから! 放送が嫌なわけじゃなくて!」
 白露がしどろもどろと焦り、困りながら答える。だが視線を反らし、頬を赤らめた様子から、何かを恥ずかしがっているのだろうと、感情の機微に疎い諸葛誕にも、容易に見てとれた。
「周囲が? ならば、意外と皆も風紀委員会の放送を聞いているのだな。嬉しくもあるが、まさかそれが白露殿に迷惑をかけてしまうことになるとは」
「ち、違うし! 単に先輩って声が……大きいから、イケボとかじゃなくて、その、声が目立つから。だって、体育祭であれだけの事したし、それで覚えてたんでしょ、皆。声、おっきいし……ほ、本当に、イケボとかじゃないけど」
 視線だけではなく、顔まで横に背けてしまった白露は、耳まで真っ赤になっていた。
「それほど私の声は目立つのか、ぬう……全く気にした事がなかったな」
 知らなかったとはいえ、自分の事で恋人に迷惑をかけたと諸葛誕は受け取ったのだろう。眉間のシワをより深くして、悲しそうにため息をつく。元より素直な諸葛誕は、白露が周囲にからかわれた事で恥ずかしい思いをしてしまい、その事を思い出した羞恥心で赤面しているのだと信じてやまない様子だった。
「だが、私はあなたに迷惑をかける為に、体育祭で名を呼んだわけではない。あなたに、白露殿に、私は一度約束した事は守り通す男だと信じて欲しかったのだ。それだけは、どうか理解してはくれないか」
 白露は相変わらず真っ赤な顔を背けたままだが、ちらちらと諸葛誕を覗き見て、わざとらしく重苦しいため息をつく。普段は無表情ながらもハキハキとした姿を見せる白露だが、諸葛誕の前では毎回、調子が狂ってしまうようだ。
「知ってる……公休先輩はそんな事考えないし、しないって知ってる。それに、悪いのは子供っぽくてバカみたいなクラスメートの連中だし、先輩は何も悪くないし。それにっ、その……先輩の声が聞けて、正直……少し、少しだけ、だけど、嬉しかったし」
 言葉の最後は、周りの騒音でかき消えそうなほどの、聞き逃さないのが不思議なほどの小さな声だった。だが諸葛誕は聞き逃さず、白露の緊張が伝染したように、赤面してしまっていた。これまでの会話を素直に受け取り、咎められていると捉えていたのだろう。
「や、やめてよ……私まで照れるから、恥ずかしくなるから。そんなに嬉しそうに、喜ばないでよ……」
「で、ですが……その、私の声は悪目立ちすると、先程は言っていたのでは」
 空いた方の手で、白露が口元を隠す。片手では顔を隠しきれず、露出したままの目元は緊張と恥ずかしさでもはや泣き出しそうだった。
「ちが、目立つっていったけど……よく通って、落ち着いていて、渋くて、大人っぽくて、その……格好いいから。なのに大きいし。無駄に大きいし、だから目立つだけ」
 突然の言葉に驚いた諸葛誕が返事をしようとするが、白露は返事を拒む。顔をさらに真っ赤に染め上げ、何も喋らないでと、小さく呟く。
「い、今は公休先輩の声、聞きたくない。嫌なんじゃなくって、その、もう……恥ずかしくて、照れちゃって、どうにかなりそう、だから」
 だから、ごめん。後でメッセージちょうだい。そう言いながら、白露はやっと見えてきた駅に向かい、一人走り出してしまった。
 逃げるように走り、駅へ消えていく白露の背中を眺めながら、諸葛誕は四月のあの日を思い出す。兄に会いたい一心で、諸葛誕に興味もしめさず廊下を走って消えてしまった白露の姿を。
「あの時は、こんな事になるとは考えもしなかったのにな……」


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