九月 まがい物の主君と偽物の兄様

 もう私は一人で帰れる。一ヶ月ほど前の夏休み、その最中の登校日に、白露は諸葛誕へそう伝えて走り去った。だが今、白露は始業式の日に一人で靴箱の前に佇んで、本を読んで彼を待っていた。本を読むなら冷房の効いた図書室の方が良いことは自明の理で、九月だというのに治まることを知らないかのような猛暑の中、額に玉のような汗を浮かべていた。
 以前の白露なら、こんな場所で当てもなく人を待つより、本人の教室を尋ねていただろう。教室の場所も知っているし、もし部活のある日なら部活が終わるまで諸葛誕は正門前の靴箱まで来ないかもしれない。所属していない部活の活動日を知る方法など、本人に聞くよりない。それでも、白露は靴箱の前で待っていた。

 恐らく今日もバイトがあるのだろう。少し急いた様子で白露の兄、王基が靴箱の前に現れ、白露がいることに気がついた。妹である白露に、また後でとだけ告げて去っていく。
「うん、後でね、お兄ちゃん」
 兄を優しい人だと思っていた。万人に平等で、義理堅くて、家族となった今でも両親や弟、妹に気を使う優しい兄だと思っている。誰一人、特別扱いしない人だと知っている。
 白露が病気になった時に、兄の王基が心配をして看病をしてくれたことがあった。泣いて落ち込んでいるときに、手を握ってくれたことがあった。それはきっと、白露だからではなく妹だからだったのだろうと、最近になって考えてしまう。
「……なんで先輩は、あんな事を言うんだろ」
 諸葛誕も同じことを言っていた、誰でも助けると言っていた。両者は同じはずなのに、なぜ白露は諸葛誕を優しいと思えなかったのだろう。諸葛誕が誰でも助けると思ったときに感じてしまったわだかまりは、一体なぜなのか、今ならわかる気がした。
「なぜ、こんな所で本を読んでいるのですか。こんな暑い日に冷房のない場所で立ち尽くしていては、体に障ります」
 あの日と全く同じ口調で、諸葛誕が心配そうに白露へ声をかける。既に持っているだけの飾りとなっていた本をわざとらしく閉じ、白露が諸葛誕を見る。時間を確認すると、終業式が終わってから一時間強が経過していた。
「ひょっとして、また私がどこかに隠れていないか、探していたんですか?」
「他の生徒が空き教室で不届きな行為をしていないとも限らん。だから、あなたが気にする事はない、風紀委員長として……」
「来年以降の風紀委員長さんも、同じ事をすべきだと思うんですか?」
 思わぬ反論に諸葛誕が口ごもる。
「それは、その……! と、ところで白露殿は、なぜこのような場所に。誰か人でも待っているのなら、せめてもう少し涼しい場所での待ち合わせにできないのですか?」
 想像通りの返事に、白露が小さく笑う。まだ知り合って半年も経っていないというのに、白露には諸葛誕の返事が手に取るようにわかってしまった。
「もう着ましたよ、待ち合わせの相手。うーん、私が勝手に待ってただけなので、待ち合わせじゃないですけど。……諸葛誕先輩に、もう一度この子のお礼を言いたくて」
 白露が鞄から取り出したのは、先日諸葛誕が白露に送った柴犬のマスコットだった。眉間にシワを寄せた手のひらサイズの柴犬は、相変わらず不機嫌そうだ。
「なっ! 学校に学業とは無関係の物を持ち込むな、風紀委員として没収せねばならなくなる。最初という事で今は目を瞑る、早く隠せ!」
 まるで目の前に裸の女性でも現れたかのように、諸葛誕は慌てて目を強く瞑り、横を向いてしまった。風紀委員として仕事に忠実でありながら気遣いを忘れない姿に、白露はさらに笑いながらマスコットを鞄にしまう。
「……もう鞄の中にしまいましたよ、先輩。目、開けてください」
 恐る恐る目を開け、諸葛誕が白露の方に向き直る。待っていたのは、まるでキスをせがむように目を瞑り、背伸びをしている白露の顔だ。
「えっ、あ、なっ! 何を! やめなさい!」
 ひとしきり驚く諸葛誕の声を聞いて、白露が満足げに目を開く。コロコロと笑いながら、顔を綻ばせる。
「先輩さぁ、前に付き合いたいって先輩の方から言ってきたのに。こういうとき、慌てちゃうんだよね」
「当たり前だ、交際していない男女がそのような事、粛正せねばならん!」
「……抱きしめるのはいいの?」
「そ、それも問題がある……だから、責任を取り、結婚を前提としてだな……」
 困り果てる諸葛誕を前に、白露が楽しそうに笑う。一呼吸を置いて深く、落ち着くようにと深呼吸をし、少し不安げに、怯えて呟いた。
「……私、この間から先輩の発言で勝手に怒ったり、拗ねたり、今みたいに笑ったり、すぐ機嫌が良くなったり悪くなったり……。先輩は、なんで私みたいな、こんな気分屋で、気まぐれで、わがままな子の為にさ……そこまで、結婚とかまで言えちゃうの?」
 予想以上に真剣な顔で、悩むことなく諸葛誕が答える。彼にとって色恋沙汰の話ではなく、人生の話なのだと伝わるような、いつもの生真面目な声色で。
「私は、あなたが一人で物陰に隠れて泣いている事が本当に悔しかった。私だけでも、あなたの努力を認めたかった。あなたに尽くしたい、力になりたい、そう思ったまでです。ずっと、一生をかけてあなたに連れ添う事になったとしてもだ。あなたに尽くせるなら、生涯を費やしても一向に構わないと考えたまでです」
 諸葛誕の言葉が止まる。わずかな間を置いて、少し戸惑ったように再び言葉が続いた。
「何より……ただ、笑っていて欲しかった」
 力ない音が響く。白露が両腕で、諸葛誕の胸板を叩く。うつむく白露の表情は諸葛誕から見て取れないが、わずかに白露の肩が震えていた。
「もう、どうして……どうして、そういうこと言えちゃうの……っ! わ、わたし……人の代わりはいやだって、自分では言ってるのにっ、なのにっ! せんぱいのこと、代わりに思っちゃう……代わりに、甘えちゃう!」
「代わりで構いません。私に、あなたを守らせてください。尽くさせてください」
 力なく泣きながら、駄々をこねる子供のように、白露が諸葛誕の胸板を繰り返し叩く。
「……今からでも、いいですか? 一回、断った後だけど。今からでも、私のそばにいてくれますか、せんぱいっ」
「もちろんです、白露殿。ですから、泣き止んではくれませんか?」
 諸葛誕が差し出したポケットティッシュで顔を拭きながら、白露が小さく頷いた。

 ***

 まだ目を潤ませながらしゃくり上げる白露と、困ったようにほほえむ諸葛誕は、手を繋いで二人一緒に食堂に向かっていた。はたから見れば、泣き止まない妹を慰める兄のようだ。
「せ、せんぱいっ……あの、本当に、わたし、あの子もらったの、すごくうれしくて……なにか、もらったからとかじゃなくてっその……」
「ゆっくりで構いません、あなたの為ならいつまでも待ちますので、どうか無理をなさらず」
「あのね、だってあの子っ……せんぱいに似てるなって、思って見てたから……わたし、あの子のなまえ、公休くんってつけたの」
 諸葛誕が驚いた顔で固まる。手袋の上からでもわかるほどに汗をかくほどに、焦っていた。だが白露は意に介さず、言葉を続ける。
「わ、わたしっ。せんぱいに、ほめられて……本当に、うれしくって。でもだれかの代わりって思われているの、すごくいやで、でも、でも。
わ、わたしも……せんぱいの、こと。おにいちゃんの、代わりとしてみてるんだって、もうしわけなくてっ。だから、なつやすみのあいだ、公休くん相手に、あやまるれんしゅうっ、してて……でも、上手く、あやまれなかった……」
「白露殿、こちらへ」
 今にも、再度泣き出してしまいそうな白露を、諸葛誕が引き寄せる。周囲に人がいない事は、既に確認済みだった。
「……一生懸命、今日の練習をしてくださったのですね。ありがとうございます」
 繋いでいない方の手で、頭を撫でる。白露が堰を切ったように、再び泣き出した。
「ねぇ、聞かせてよ、教えてよ、せんぱい……。せんぱいが言っていた人って、尊敬している人って、どんな人なの? ずるいよ、わたしばっかり話して……」
「ええ、お話しますとも。お名前は明かせませんが、それはそれは素晴らしい才能に溢れたお方で、私はあの方と出会って以来ずっと……」
 まるで夢を見るように、諸葛誕がうっとりとした顔で、司馬師の事を語り始める。結局、食堂に向かう道中から食堂での軽食中、延々とよどむことなく語り続けた。だが白露はクルミあんパンをかじりながら、諸葛誕の話を飽きることなく、興味深そうに聞き続けていた。
「聞けば聞くほどすごい人だけれども、私そんな人の代わりになれるのかな……」
 パンから口を離して、どこか不安そうに、独り言のような小さな声で、白露が呟いた。だが諸葛誕は聞き逃さず、穏やかな顔で笑いかける。
「白露殿がその方のように振舞う必要など、全くありません。私は、そのお方の才能を敬愛するように、あなたの努力を尊敬しております。ただ、それだけです」
 顔を真っ赤にし、パンで隠すように白露が顔を伏せる。注意してやっと聞き取れるような小さな声で、なんとか諸葛誕に返事をしながら。
「……私も、ただ先輩に褒められたいだけだから。褒められるの、嬉しくて、気持ちいいもん。お兄ちゃんとは、関係ないから」
 食事をする為に手袋を外していた手を、諸葛誕が拭う。身を乗り出して、向かいに座っている白露の頭を撫でる。初めて、諸葛誕が素手で白露に触れた瞬間だった。


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