八月 悩む一般生徒と堅物風紀委員

 登校日も無事に終わり、既に校内の生徒より敷地内のセミの方が多そうな夏休みの午後の昼下り。諸葛誕は一つ一つの空き教室に残っている者がいないか確認していた。生徒の下校後に、物陰で一人隠れている者がいないか確かめる。あの日から、それが諸葛誕にとって下校前の日課となっていた。
 毎回、確認が終わる頃には軽く一時間が経過してしまう。夏休みの登校日という事もあり、普段の放課後に比べただでさえ少なかった生徒は殆ど見当たらない。もう諸葛誕以外の生徒は全て帰ったのではないかとまで思えるような校内の、陽炎さえ見えそうな真夏の暑さの中、正面玄関前の靴箱に女生徒が一人、佇んでいた。
「……なんで、毎回ここまでするの。もう私は大丈夫だってば」
 靴箱にもたれながら、白露が気だるげに大きなため息をつく。
「あの日に伝えた通りですよ。白露殿は私が守ります。私の知らないところで一人、涙を流すなど……もう二度と、させません」
 白露がうつむき、再びため息をつく。うつむいた視線の先に、諸葛誕の手が差し出された。
「帰りましょう、こんな暑い日に外で立ち話をしては、体に障ります」
 白露が顔を上げ、諦めたかのようなため息をつき、諸葛誕の手を取る。
「全く、先輩がこんな調子だから……私は、もう大丈夫って言っているのに……」
「私は、白露殿を見守ると誓ったのです。ですから、どうか気にせず」
「だから、あの時の事は気にしてないって……責任とか、付き合うとか……」
 手袋に包まれた諸葛誕の手は、意外と汗ばんでいない。諸葛誕の事だから、こまめに手袋を変えているのかもしれない。半そでの夏服を着ていても手袋を欠かさない諸葛誕の几帳面さが白露には面白く感じられ、小さく笑う。
「どうした? 何か、おかしいことでも?」
「んー、まぁ、ちょっと?」
 諸葛誕の眉間のしわを伝い落ちる汗を見てみれば、決して暑くない訳ではないことはわかる。それでも手袋と学校指定のベストを欠かさない諸葛誕の姿は、白露から見れば本当に諸葛誕らしく思えて仕方がない。
「ねぇ、先輩。せめて、一緒に帰るだけじゃダメなの? 校内の確認っているの?」
 そもそも、帰宅部の白露と馬術部の諸葛誕が毎回一緒に帰るというのは非現実的だ。それでも、全教室の確認はより非効率的だと白露は考え、なんとか諸葛誕にやめさせる方法を考えていた。本当はもっと良い提案があるのだが、なぜか白露が考える一番の解決方法を、諸葛誕が頑なに拒否していた。
「だいたいさー、別に電話番号とか、メッセージアプリのアドレス交換とか、なんでそんなに嫌がるの? 個人情報流出とか神経質な方?」
「いえ、ですから交際もしていない男女がそのようなものを交換する事は、風紀の乱れにつながると申しているのです。もし私が不埒な輩だったらどうするのですか、白露殿も気楽にそのようなことを提案すべきではない」
「不埒な風紀委員っているの?」
「もしそのような輩がいたとすれば、私が風紀委員長として粛正するまで!」
「……交際していない男女が、手を繋いで帰るのはいいの?」
「これは、小さな子を親が手繋ぎで連れ歩くようなもので、保護を目的とした……」
「小さな子がスマホ持ってたら、親と電話番号とかメッセージアプリのアドレスとか、交換してると思うけど」
 諸葛誕が言葉に詰まる。繋いでいない方の、鞄を持つ手を持ち上げて頭を掻く。もし諸葛誕を知らない者がこの会話を聞いたならば、手を繋ぎたい言い訳だと受け取るのかもしれない。だが、諸葛誕を知っている者が聞いたならば、男女が番号やアドレスを交換すべきでないという価値観にこだわりすぎているだけで、諸葛誕の悪癖である視野の狭さが突出してしまっただけだと気づくだろう。
「その……親類縁者以外の異性と、そのようなものを交換をした事がなく……私のような者では、何も面白い会話はできないにちがいない。それに、白露殿が泣いていないか心配で、しつこく様子を聞いてしまうかもしれない……」
「別に、諸葛誕先輩に面白い会話なんて期待してません」
 戸惑う諸葛誕を見て、白露がどこか楽しそうに笑う。きっと諸葛誕は、もしあの日に泣いていたのが白露でなくとも同じ事をしたのだろう。そう考えると、悲しくないといえば嘘になるのだろうが。
「……先輩は、どうして私が物陰で泣いている事が、一人で落ち込んでいる事が、そこまで嫌なんですか?」
「後輩が困っているのだ、先輩として助けるのは当然の事だろう」
 諸葛誕が胸を張り、一点の曇りもない表情で答える。やはり想像していた通りの反応に、白露の胸が少しずつざわめき始めた。
「じゃあ、私が後輩じゃなければ助けなかったんですか?」
 諸葛誕の眉間のシワが深くなる。予想外の事態に対応ができないような、困った顔をしてしまう。困らせていると白露も気づいているが、一度抱いてしまった不安が抑えられなかった。
「諸葛誕先輩だけで、一体何人の生徒の面倒が見られるんですか。全員なんて絶対無理なのに。学生の間は助けて、卒業後は知らんふりになっちゃうじゃないですか……」
 寂しそうに語る白露を前に、諸葛誕は思わず繋いでいた手を離す。そして、白露の肩を力強く掴んだ。突然の反応に驚く白露へ告げたのは、想像以上の意外な言葉だった。
「ああ、なるほど、そうか! 私自身も気付いていなかったが、確かにその通りだ。私は誰でも助けるべきものだと、そうあるべきだと自分では思い込んでいたが、そんな事は不可能だ。確かに他の者でも慰めたい、泣き止んで欲しいとは思う。そして、その場限りとなってはしまうが、できる限り力になる。その気持ちに嘘偽りはない、誓おう。……だが、ずっと見守りたいと、力になりたいと思うのは、白露殿、今はあなただけだ。もしあなたが許してくれるなら、私はあなたを、一生涯かけて守りたい」
 思わぬ勢いと返事に白露は気圧されるが、しばらくするとうつむいてしまった。搾り出すように小さな声で、なんとか返事を呟く。今にも泣き出しそうな声で。
「どうして、私だけなんですか? 『今は』って、その……いつか、変わっちゃうとか?」
 首を横に振り、白露の言葉を否定し、諸葛誕が自信に溢れた声で力強く答える。
「私には、ずっと支えたい人がいた。だが、その方にはもう私は必要ないのだ。もちろん、まだその方を心から敬愛している。だが、私の一方的な感情でその方に迷惑をかける訳にも行かないだろう? だから、私は私が支えたいと、守りたいと思える人を、私の助けを必要としている人を無意識に探していた時に、あなたが助けを求めていた。あなたを守りたいと思った。確かに偶然ではあるがのだろうが……。どうか、私にあなたを支えさせてはくれないか」
 つまり、私はその人の代わりでしかないんでしょうか。白露が小さく呟く。
「……。私、一人で帰れますから。だから、もうあまり気を使わないで下さい。私は、その人の代わりにはなれないと思うので……褒めてくれたのは、本当に嬉しかったけど。だけど、ごめんなさい。私は、その人にはなれません」
 セミの鳴き声にかき消されそうなほど小さな声で、白露は諸葛誕の手を振りほどき、走り去ってしまった。

  ***

 夏休みの最中に生徒会での買い出しで、天命館最寄の駅前ショッピングセンターに、私服で集合する。言葉にすれば、本当に他愛もない学生生活の一幕なのだが、わざわざ休みを半日潰すような雑務を好む生徒は生徒会にも少ない。さらに司馬師の意向で強制力がない『お願い』でしかなかった為、当日の集合場所、集合時間の10分前に集まったのは、片手で充分に足りる四名だけだった。
「で、兄上。後は誰が来る予定なんですか?」
 うだるような暑さの中、片手をうちわのようにヒラヒラとはためかせながら司馬昭が司馬師にたずねる。
「まだ来ていないのは手伝いを申し出てくれた王基殿だけよ。人がいないと伝えたら、妹さんにも声をかけてくれると言っていたらしいけれども」
 王元姫の返答に、司馬師が頷いて肯定する。質問者の司馬昭は暑さで蕩けながら了解の意を示すだけの一方、会話をはたで聞いていただけの諸葛誕が明らかな動揺を示し、反論した。
「そ、そのように大勢の人手が必要な買出しだとは思わないのですが」
 実際、買うのは体育祭と文化祭のちょっとした飾り付けの品だ。生徒会に一任されている理由は、良く言えば若い感性で選ぶため、悪く言えば教師の丸投げである。物としてはあまりかさばる物でもない。あえて人数が多い利点があるなら、感性を偏らせない程度の事だろう。
「ですが、せっかく来てくれるという申し出を断る必要もないのではないでしょうか」
 なぜ慌てるのかわからないとでも言いたげに、王元姫が涼しげな口調で答える。
「本来なら、一年生の生徒会役員が来てくれれば、来年以降も今回の経験が生かせてよかったのだろうが。だが、昭はともかく元姫のこの落ち着きなら、一先ず来年は大丈夫だろう」
「ありがとうございます、子元殿」
 王元姫が柔らかく笑う様子を見て、雲行きの怪しい会話に怯えた顔の司馬昭がキョロキョロと周囲を見渡す。結果、最後のメンバーに最も早く気付くこととなった。
「あ、おーい、こっちこっち!えーと、王白露ちゃん、だよね。王基先輩の妹の。王基、さんは?」
 手を振る司馬昭を見つけて皆に走り寄ってくる白露に、司馬昭が声をかける。暑い中を急いできたのか、汗をかいて息を切らす白露が、途切れ途切れに事情を話しはじめた。
「あの、お兄ちゃん、バイトからヘルプに来て欲しいって、急に電話があって。司馬師さん達に謝っておいてって。わ、私だけでも、役に立てますかね?」
 充分にありがたい。そう言う司馬師の言葉に、白露が安心して笑顔を零す。だが次の瞬間、不安そうに白露を見つめる諸葛誕と目が合い、入学当時のような無表情さで目をそらした。
「……ケンカでもしているのかしら?」
「どうした、元姫?」
「なんでもないわ、ただの些細な違和感だし、もし『そう』だとしても部外者が安易に踏み入るべきじゃないし、ね」
 どこか思わせぶりな王元姫の台詞に司馬昭が首を傾げる。だが王元姫を全面的に信頼している司馬昭は、それ以上追求する事はなかった。

 リストに書かれた品を探し、選んで購入するだけの作業は実に単調で、かつ作業量も少ない。同じ店舗で他の品をのんびり眺めながら学生らしい雑談に花を咲かせる、ウィンドウショッピングのような様相を見せていた。文房具コーナーでは可愛らしいマスキングテープを眺めたり、実用性を追求したアイデア商品に驚いたりと、羽目を外しすぎない程度に、皆が買い物を楽しんでいた。だがそれでも、白露が諸葛誕を避けているのは傍目にも明らかだった。
「これは、なにかのマスコットでしょうか?」
 丸くてフワフワとした、手のひらサイズのぬいぐるみマスコットを眺め、白露が呟く。もちもちとした質感に丸々とした愛らしいシルエットでありながら、どの動物も一様にむすっとした無表情さが、白露には返って愛らしく思えた。
「そういう小物がお好きなんですか?」
 先日の登校日以来、顔を合わせていなかった諸葛誕が白露に話しかける。今日は兄の代わりとしてどうしても来ざるを得なかったので、白露はできるだけ距離を置くようにしていたのに、愛らしいマスコットの動物達に気を取られ、後ろから諸葛誕が見ていることに気がついていなかったのだ。
「べ、別に……好きだけど。諸葛誕先輩には、関係ないじゃないですか」
「……ずいぶん、無愛想なんですね」
 どうして私が諸葛誕先輩に愛想を振りまかないといけないの。そう口に出しかけた白露だったが、諸葛誕が見ていたのはマスコットの動物達だということに気がついた。
「小さくて、愛らしいのに無愛想で、まるで……いえ、なんでもありません」
 諸葛誕がマスコットのうさぎを手に取り、いとおしむようにつつきながら呟く。
「そうだね、ちっちゃくてむすっとして、まるで諸葛誕先輩みたい」
 白露がマスコットの柴犬を手に取り、眉間のシワを伸ばすように撫でながら答える。その表情は硬く口調にはとげがあるままだったが、口元はわずかに緩んでいた。
「……白露殿は、この中だとどれが一番のお気に入りですか? やはり、その柴犬ですか?」
 突然の質問に驚き、白露の無表情が崩れた。
「え、うん……この子がすごく可愛いと思うけれども。な、なんで?」
 困ったように、悩ましそうに、諸葛誕が不器用に笑う。
「先日、あなたを傷つけてしまったお詫びです。高いものではありませんが……だからこそ、気にせず受け取っていただければ」
「そんな、諸葛誕先輩になにか買ってもらう理由なんて、私にはないし……。前に話していた、あの人にもそういう事したの? 私より、その人に贈ればいいのに」
 白露の質問に、諸葛誕が困ったようにため息をつき、目を伏せた。
「あの方は、そういうお方ではなくてですね……確かに、誕生日などに贈り物を贈ったことはありますが。ああ、どう説明をすればわかってくださるのか!」
 私は、ただあなたに幸せそうに笑っていて欲しいだけなのです。困りながらも、耳まで顔を真っ赤にして諸葛誕が口に出す。
「だから、その柴犬を撫でる白露殿の笑顔が、私は……好きなんです、だから、お贈りしたい。それだけです、あの方は何一つ関係ありません。あの方に幸せになって欲しかったから誕生日に贈り物をしました。そして今は、あなたの笑顔が本当に幸せそうで、愛らしかったから、贈り物をしたいと思ったまでです」
 諸葛誕が一息に語ると、白露は柴犬のマスコットを持ったまま固まっていた。驚いた顔で、呆気に取られたまま、口を開く。
「もう一回、言って?」
「何をですか」
「私の顔が、何?」
 あなたの笑顔が好きです。ずっと見ていたい、曇らせたくない。まるで自棄になったように、だが真っ直ぐな目で白露を見ながら、諸葛誕が顔を真っ赤にして叫ぶ。その声に思わず同伴していた生徒会役員達が振り返る。
「どうした、何かあったか」
 司馬師が二人に近づいてきたので、特に何もないと二人で慌てて告げる。そのドサクサに紛れ、諸葛誕は白露が持っていた柴犬のマスコットを奪い取り、レジに向かってしまった。愛らしいラッピングも共に頼み、一緒に同じマスコットのウサギも、自宅用にと告げて。


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