七月 夢破れた姫様と夢誓う騎士

 憧れている人がいる。尊敬している人がいる。私は、彼が夢を追い努力する姿に憧れていた。なのに、彼は夢を諦めてしまったのだ。できる事なら共に夢を追いたいと私は思っていたのに、彼は夢を捨て、新たな夢を見つけて恋人まで作っていた。ただそれだけの事なのに、なぜか私は非常に落ち込んでしまったのです。私は、一体何が悲しかったのでしょうか。
 諸葛誕の話を聞きながら、王基は時々思考をめぐらせるように視線を泳がせる。手を軽く握り、顎に添えて首を傾げる。そして、閃いたように目を見開く。あっけらかんと、笑い出す。
 きっと憧れだけではなく、恋愛感情でも抱いていたんだろう。歯に衣着せずにそう言い放って笑う王基を、諸葛誕は相談した身でありながら殴りたくなってしまった。名前を伏せて、特定されぬよう嘘も交えて話したとはいえ、相談する相手を間違えたような気がする。
「ひたすらその相手に憧れすぎて、一種の恋愛感情というか、独占欲のようなものがあったんじゃないか? 自分だけが理解者だ、みたいな。アイドルのファンが、他のファンを憎く思ったり、アイドルが有名になるのを悲しむような感情とでも言えばいいだろうか。でも話を聞いている限り、諸葛誕は人への憧れがずいぶん強いんだな。自分がどうなりたいのか、自分が何をしたいのか、っていうのはあまりないのか? でも、諸葛誕には自分がやりたい事もしっかりあるみたいだから、まぁ大丈夫だろ……進路指導の話、結構広まってるみたいだしな」
 進路指導の話と聞き、思わずあの日の記憶が蘇る。名を伏せたのに相手を見透かされたのではないかと、友人相手でありながら警戒し身構えてしまう。
「……まぁ、どんな理由であれ、自分がしたいことを見つけられたなら幸せだとは思うけれど。例えそれが、他人の為だったり、他人への憧れから生まれたものでもな」
 相談内容の真相に気付いているのかどうかも打ち明けず、また聞かれた以上に踏み入らず、勝手な結論をつけて話を切り上げるように横を向く。人によってはこのような王基の態度を身勝手だと思うのかもしれない。だが、過度に深入りをせずに、ただ求められた答えだけを返していると受け取る事もできた。そして、諸葛誕は後者の解釈で受け止める事ができる人間だった。だからこそ、この二年程の間、王基と友人として過ごすことができたのだろう。

 ***

 白露がぼんやりと期末テストの用紙を眺める。前回の中間テストでは、悪筆さで点を逃すというまさかの失態を演じてしまった。今度はとにかく丁寧に書いた。確かに全教科満点とはいかなかったが、今の実力はすべて出し切れた。その結果、再び鐘会に負けたが悔いはない。負けたことには、悔いはないのだ。
 前回、学年二位を取ったとき、親も兄たちも褒めてくれた。そう、テストの結果も見ずに、ただお疲れ様と。きっと良かったのでしょうと。二位だと伝えて悔しがっている白露を見ても、二位なら充分だと言っていた。テスト用紙を見ることもなく、白露が伝えた結果を信じた。まるで、どうでもいいとでも言いたげに。
 怖かった。家族は優秀な王基にしか興味がないのではないかと考えることが。優秀な兄は、自分に興味がないのではないかと気付く事が。今回のテストは、学年十位以内ではあるが、前回よりは落ちている。なら、お兄ちゃんはどう言ってくれるのだろうか? 順位が落ちたことを咎めてくれるだろうか? それとも十位以内であることを褒めてくれるだろうか? テストを受ける時ですらしなかったほどに緊張しながら、白露は三年生の教室へ足早に向かった。
 三年生の教室が並ぶ廊下を一年生が歩くというのは、どうしても目立ってしまう。やはり行き交う生徒の視線が白露に集まってしまうが、大好きな兄の妹として恥ずかしくないよう、大好きな兄にとって自慢できる妹であるようにと、緊張を隠し、必死の虚勢で胸を張る。今までと同じように、兄に相応しい妹である事が当たり前なのだからと白露は自らを鼓舞して、表情を殺す。少しでも感情を出してしまえば、不安と怯えで泣き出してしまいそうだから。
 兄の教室を覗くと、兄は友人と話をしているようだった。つい先日、ずいぶん具合が悪そうにしていた兄の友人、諸葛誕が兄と普段どおりに会話をしている様子を見て、白露は少しだけ安心する。安心しながら、二人が教室から出てくるタイミングを待つ。今日は妙に、人へ声をかけるのが怖かった。

 友人の諸葛誕と共に教室を出てきた兄、王基を、白露が声をかけて呼び止める。少し驚いた様子を見せたが、微笑んで白露の話を聞く。テストの返却は全学年共通の日程だが、わざわざクラスまで見せに来るとは思わなかったようだ。
「ねぇ、お兄ちゃん。私ね、テスト帰ってきたんだけれどね……」
「ん、あぁ。お疲れ様。今回も良かったろ?」
「えっと、それが……前回より落ちて、でも一応十位以内には」
「うん、まぁ良いんじゃないか? 充分だろ」
「でも、その……前回より落ちたから。間違えたところ、ちゃんと勉強するから、あの……」
 さすがは俺の妹だと褒めて欲しかったのか。順位を落としてしまったことを叱責され、優しく教えて欲しかったのか。白露は一体、自分が何を求めてここまで来たのかわからなくなる。ただ一つわかるのは、白露に関心がなく適当にあしらうような今の兄が、王基が、ひたすら怖くて仕方がないという事だ。
「と、図書室で間違えたトコ、復習して帰る。家には遅くなるって言っておいて……!」
「ん、ああ、わかった」
 あんなに大好きな兄からとにかく急いで逃げたくて、思わず廊下を走って逃げ出していた。兄の横にいた諸葛誕から、また廊下を走るなと怒られてしまうかもしれないという想像は杞憂に終わり、走り去る白露の背中に誰かが何らかの言葉をかけることはなかった。
「……王基殿、なぜあのような態度を」
 諸葛誕の問いの意味がわからないかのように、王基が困った顔で首を傾げる。思わず、諸葛誕が王基の肩を掴む。
「入学してから、いえ。特待生入学という事は入学以前から、あんなに頑張って勉強をし、結果を出し続けている白露殿に、どうしてねぎらいの言葉もかけてあげられないのですか!」
「だから、お疲れ様って……別に、学年十位も特待生も、そこまで大変じゃないだろ? 授業の内容を全て覚えて応用させるだけなのに」
「そんな事が容易にできる人間はごく一部だけです! きっと白露殿はいつも人知れず努力して、あなたに認めてもらえるようにと、必死に頑張ってらっしゃるというのに。だからこそ、こうして知らせに来たのではないのですか?」
「まさか。あいつは俺や司馬師みたいな、そういう事ができる方の人間だろ。小さい頃からずっとああだったんだ、そんな背伸びを小学生の頃から続けられる方がおかしいじゃないか」
 『だって、頭も良くて、優しくて、天命館に学費免除の特待生入学したようなお兄ちゃんだもん』無邪気に喜び大好きな兄の自慢をしながら、転びそうなほどふんぞり返ってしまい、幸せそうに笑っている白露の姿を、諸葛誕は思い出す。気付けば、図書室へ向かって駆け出しそうになり、風紀委員長の意地で逸る気持ちを必死に抑えて歩いていた。それでも途中の食堂で、クルミあんパンを買って行くことは忘れずに。

 ***

 図書室でも人の少ない、高い本棚で囲まれた百科事典のコーナー奥でたたずみながら、まるで年上を敬う気もなさそうに、険しく吊り上げられた白露のまなじりと直線に結ばれた口は、普段と何も変わらないように見えた。だが、夕日に照らされた頬は僅かに細い筋が光り、目尻にはまだ大きな滴が残っていた。
「やはり、一人で泣いていたのですか」
 口にして初めて、酷い失言だと気付く。諸葛誕の周りは、確かに天才と呼ばれる類いの人間に恵まれていた。文武に優れ品行方正、そして人々の重圧に潰れる事すらない天性の指導者とも言える司馬師は、その最たる存在だ。だから、優秀な人間は皆そういうものなのだと、諸葛誕も最初は思い込んでいた。天賦の才を持つ者は、人からの重圧など気にかけぬのだと夢見ていた。特待生である王基や白露もそうなのだと想像し、期待という重圧から逃げる事もできずに陰で歯を食い縛って耐えているなど思いもしていなかったのだ。
 失言だったなら、謝らねばならない。そう考えた瞬間には、諸葛誕の腕は逃げようとする白露の手首を咄嗟に掴み、引き止めていた。涙を隠すかのように片腕で必死に顔を隠しながら、図書室のさらに奥へ去ろうとした彼女の肩を強く捕まえて、本棚へ押し付けて、思わず問い質してしまう。いつも、親にも、下の兄にも、大好きな王基にも、褒められた事がないのかと。
「……いつもの、事だから」
 鼻声でやっと話した白露の言葉に、諸葛誕が戸惑いと共に更なる質問を被せる。
「なら毎回、一人で隠れて泣いていたのですか? いつも、誰にも褒めてもらえずとも、一人で耐えながら努力を続けていたのですか?」
 肩を揺さぶられても頑なに顔を上げず、都度首を縦に振って白露が質問を肯定する。その度に、諸葛誕が驚き、憤っている事に白露は気付かない。
「だって、褒められる為に何かするなんて本末転倒じゃん……お兄ちゃんには、絶対言わないで。変な心配、かけたくないから。お兄ちゃんに、面倒な妹って思われたくない。まだ家族全員に気を使っているお兄ちゃんに、さらに気を使わせたくないから……」
 堰を切ったように、白露がぽろぽろと涙を流す。また、行動の後に大失態を犯したと諸葛誕は気が付いた。つい先程、すでに王基を問いただしてしまった事を思い出してしまう。
 王基を問いただしてしまった失言を謝ろうにも、泣き出す白露を見ていて咄嗟に、諸葛誕は再びの暴挙に出てしまう。しかも、また行動に移してから気付いてしまう。まるで、兄の、王基の代わりを諸葛誕が担うとでも言わんがばかりに、慰めようと思った瞬間には、既に白露を抱き締めてしまっていた。
「なら私が、私があなたの努力を見守ります、あなたのそばで、あなたの事を褒めます。王基殿には決して言いません。それなら、構わないでしょう? 私がずっとそばにいます、そばであなたを守ります。もうあなた一人に、こんな苦しい思いをさせません! このような、陰であなたが一人、泣く必要などありません!」
 風紀委員長である諸葛誕自身も、今の自らの行動が、どれだけ間違っているかわかっている。高校生の男女が図書室で抱き合う――正確には、一方的に年上の男子生徒が年少の女子生徒を抱き締めている――など、しかも交際しているわけでもない、同意も得ていない。普段の彼なら、粛正とでも叫び出す程の事だ。実際、突然抱き締められた白露は状況が掴めない様子で涙を引っ込め、戸惑ってしまっている。そして、その戸惑う様子で、諸葛誕は我に返った。
「ああ、なんという……私は、先程から重ね重ねなんという事を! その、申し訳ありません! 交際もしていないのに、このような……かくなる上は、責任を持って結婚を前提とした清いお付き合いを!」
「はぁ!?」
「いえ、白露殿が嫌なら無理にとは……いや、違うのだ。決して軽々しい気持ちで口にした訳では、だがその、責任は取るべきではあってだな、なおかつあなたの意思は尊重されるべきであり……ああ、私はなんという取り返しのつかない事を!」
「……先輩、図書室で大声出しちゃダメだよ。風紀委員なんでしょ?」
 顔を真っ赤にしたまま必死に慌てる諸葛誕を見て、白露が小さく笑いだす。
「別に、責任とかいいから……じゃあ、あの、手袋のままでいいから『よく頑張った』って、その、頭を撫でて……褒めて、欲しいかな、なんて……ダメかな?」
 まるで、伝染したように白露も顔を真っ赤にする。同じく伝染したように、諸葛誕が小さく笑う。優しく微笑みながら、白露に手を伸ばす。
「白露殿は本当に、よくできた子だ……よく、頑張ったな」
「……ん、えへへ。なんだか、くすぐったい」
「図書室は飲食禁止だからな、後で中庭に行こうか。白露殿が好きな、クルミあんパンを買ってある」
「そっか、お兄ちゃんは未だに私の好きな食べ物なんて知らないのに……なんで先輩は、もう覚えてくれているんだろうね」
「この間、手を握ってくれていた礼だ」
 ああ、また恩が増えてしまった。既に泣き止んだ白露が、顔を真っ赤にして照れながら、笑っていた。


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