六月 恋を知らぬ少女と恋に破れる少年

 教師を呼びに来たり、書類を受け取りに来たり、備品を運んだり。この二年と数ヶ月、諸葛誕は風紀委員会の活動でこの教室には数え切れないほど来たはずだったが、客人としてこの教室に入るのは初めての事だ。予めホームルームで配られ、自らの気持ちを正直に記入した進路希望調査書を片手に持ち、名を呼ばれ入室する。思えば、一年生の頃から幾度となく入りなれた部屋のはずなのに、緊張から手のひらはじっとりと汗ばんでいた。客人として入室するこれほど進路指導室が怖いものだと、諸葛誕は考えたこともなかった。
 初めての事とはいえ、大体の手順は予想がついていた。いつものように礼儀正しく挨拶し、席について進路希望調査書を教師へ渡す。手渡された紙を扱う教師の対応は手馴れたものだったが、目を通した瞬間に顔色が変わり、明らかな難色を示した。
「騎手養成学校? しかも、第一希望で?」
「はい。天命館で三年の間、馬術部に打ち込んだ経験を生かしたいのです。その為にも、騎手になりたいと考えています」
 諸葛誕は、決して成績が悪いわけではない。むしろ、上から数えた方がずっと早いほどだ。その上、天命館は名の知れた進学校だ。学校の為に進学率を重視する教師なら、それなりに名の通った大学を進めたい場面ではある。長年に渡り進路指導をしている教師から見ても初めての経験なのか、ずいぶんと戸惑っているように見えた。
「……普通、中卒で入るものだったはずだが」
 なぜ高校を卒業してから入るのか、という遠まわしな教師の問いかけに対して、答えを素直に言うのならば。きっと若気の至りやモラトリアムの一種としか言えないような感情なのだろう。ただ、諸葛誕は少しでも長く司馬師と共にいたかっただけなのだ。ただ、司馬師と同じ夢を少しでも長く追っていたかっただけなのだ。天命館付属中学の頃から馬術部に所属していた司馬師と、中学卒業時点で同じ進路を選んだだけだ。そもそも司馬師は、中学生当時から騎手養成学校には入れない程の体格に成長してしまっていた。だから、司馬師が高校へ進学すると言うから同じ高校へ進学し、進学した高校でもまた馬術部に入ると言うから共に馬術部へ入り、やはりいつまでも馬が好きだと語っているから、小柄な諸葛誕は騎手になりたいと思った。大学まで司馬師を追うことも考えたが、大学卒業後では年齢の問題で騎手養成学校に入ることは難しい。本当に、それだけの理由だった。だが、諸葛誕自身もずいぶんと感情的な理由だと思えてならない。教師に説明をしたところで、共感してもらえるとはとても思えなかった。
「私の馬術部での成績なら、こちらの用紙を……大会などの受賞暦をまとめましたので、見ていただければ。入学時点で他の生徒と年の差はあるかもしれませんが、私の成績と体格なら、年の差を補うのも可能かと、考えています」
 教師が顎に手を添え、首を傾げる。否定の言葉が出てくるという諸葛誕の予想は外れ、多少歯切れは悪いものの、了解を示す声が吐き出された。押し問答覚悟で進路指導室に入った諸葛誕から見れば、驚くほどあっさりと了解を得られた形となる。胸の中で何度も練習した偽の動機は結局使われる事なく終わり、ただ本来の動機である、司馬師の夢を諸葛誕が叶えたいという気持ちが、人知れず諸葛誕の胸に仕舞われてしまい、存在感を増し続けた。

 ***

 他の誰が忘れようとも、私は決して忘れるものか。叫びだしたい気持ちを必死に抑え、諸葛誕は普段より眉間のシワを深くしながら、黙り込んでしまった。進路指導室から戻り、いつものように憧れの同級生へ、司馬師へ話しかける。だがその際、諸葛誕に対して投げかけられた司馬師の言葉は、諸葛誕にとっては心外すぎた。だが、司馬師の言は何も間違ってなどいないのだろう。そう理解しているから、黙ることしかできない。司馬師は確かに馬術が好きなのだろう。中学生の頃も馬術部で部長を勤めていたし、高校へ進学してからも、三年生になってからも部活によく顔を出していた。だが、中学生の頃から背は他の生徒より高く、体格に恵まれすぎているが故に騎手の夢を諦めなくてはならない事も、なんら不思議ではない。だが、諸葛誕は中学生の司馬師が夢を語る姿が決して忘れられなかった。
「私も中学生の頃には、騎手になりたかったんだがな。そう語っていた時期もあったはずだが、流石に誰もおぼえてなどいないだろう」
 諸葛誕の進路希望調査書を見た司馬師は、自嘲するように寂しげな目で笑った。
 
 諸葛誕は、司馬師に認められたかった。司馬師の天賦の才に、強く憧れずにはいられなかった。だからこそ敬愛し、いつも見守り、憧れ、好んでそばに付き従った。だが違う、何も満たされない。昔の夢を悲しげに語る司馬師の姿は、諸葛誕に虚しさしか残さなかった。
 名家の子息が進学ではなくボートレーサーの道を選ぶ事を容認しているのだ、理事長の司馬懿は充分に頭が柔らかいのだろう。むしろ、中学生の司馬師の発言一つに思考を縛られている諸葛誕の頭が固いとも言える。だが、どうしても振りほどけない。
「諸葛誕、お前なら覚えているか? 私も中学生の頃には、騎手に憧れていた事を……」
 はっきりと覚えている。あれは放課後の部室だったはずだ。いつも大人びた司馬師が、子供のような笑顔で楽しげに夢を語っている姿を忘れたれるはずがない。幾度も思い出し、反芻し、諸葛誕自身も夢叶えた司馬師の横に立つことを夢見ていた。敬愛している司馬師に、すぐそばで笑っていて欲しかった。横でその笑顔を見守っていたかった。諸葛誕が騎手になる理由は、司馬師を悲しませる為ではないはずだ。
「……忘れましたよ。中学生の時の事など。ええ、忘れてしまいましたとも」
 諸葛誕の言葉に、司馬師がどこか安心したように微笑む。その笑顔には、付属中学の部室で司馬師が見せたような、夢に憧れる無邪気な輝きはなかった。もしこの変化に教師達が気付けば『大人になった』『現実を見るようになった』などというのかもしれない。
「まぁ、ボートレーサーになりたいと伝えてもあいつは心配していたのだがな。どちらにしても、私はそのような仕事に憧れ続ける性なのだろうと、もう諦めてしまったたようだ」
「……ご両親ですか?」
「いや、婚約者だ。昔から話はあったが、正式に決まったのはつい最近だな。そう言えば、まだ話していなかったか」
 なぜだろうか。中学生の頃から共に追ってきた夢を司馬師が諦めたと聞いた時よりも、視界が暗くなってしまう。実に、めでたい事だと思っている。心から、祝福したいと思っている。何より、長年連れ添った諸葛誕から見ても、その婚約者の話をする司馬師は幸せそうだった。だというのに、司馬師が幸せそうだと気付けば気付くほど、思うほど、頭を殴られたように視界が暗くなる。
「どうした、諸葛誕。顔色が悪いようだが」
 あの敬愛する司馬師殿に心配をかけてしまうとは。気にかけてもらえた事を喜ぶ気持ちと、気をもませてしまった罪悪感が諸葛誕の中で入り混じる。なによりも、諸葛誕自身もなぜこのように気分が悪いのか、理由がわからないのだ。敬愛していた司馬師が、叶わない夢を捨てて新しい夢を見つけた。家同士の決めた結婚とはいえ、どうやら本人同士も納得できているらしい婚約者ができた。どれも、めでたいことではないか。嬉しいことではないか。なのになぜ、私はそれらを嬉しく思えないのかと、祝福できないのかと、諸葛誕は必死に自問自答する。
「申し訳ありません、司馬師殿。初めての進路指導に疲れたようです。部活は休みます」
「ああ、わかった。無理をせずゆっくり休め」
 諸葛誕は悔しくて仕方がなかった。もう高校生活は一年もない。諸葛誕が司馬師と学生生活を満喫できるのもわずかな期間しか残されていないのに、機会を自ら棒に振っている。あまつさえ、理由が諸葛誕自身にも度し難いものなのだから。

 ***

 あまり接点がない、知り合ってから間もない、そう言い捨ててしまっても、間違ってはいないのだろう。だが、諸葛誕の想像の中では、彼女は一度もこんな顔を浮かべたことはなかった。心から相手を心配しているらしい不安げな顔の白露は、いつもの自信に溢れた冷たい表情とは全く違っていた。
「先輩、お腹でも痛いんですか? ……でも、トイレそこにあるし。えっと、保健室、行きますか? 一人で行けますか?」
 正門側の廊下で白露と偶然出会った諸葛誕は、二歳も年下でありながらまるで子供か腫れ物のように諸葛誕を扱う白露の対応に、今の己がどれだけ酷く見えるのかを思い知った。傍目には病気に見えるほどやつれているなど全く自覚はなく、想像だにしていなかった。ただ、司馬師が中学生の頃の夢を完全に諦めたのだと、そして相思相愛らしい婚約者がいるという理由で傷付いているという事が、諸葛誕自身にもさっぱりわからない。
「……喋るのも、辛いんですか?」
 諸葛誕が一人で状況を省みている間にも、友人の妹という、多少面識がある程度の関係性でしかない白露はそばにいて、諸葛誕の様子をつぶさに見ていたようだ。反応がなくとも慌てず落ち着いて現状把握に努める落ち着いた様子に、諸葛誕は嫌でも司馬師を思い出してしまう。
「し、司馬師殿……」
「えっと、司馬師先輩ですか? 司馬師先輩を呼んで来ればいいんでしょうか?」
 身を翻し、馬術部の部室がある方へ歩みだした白露の手首を諸葛誕が掴む。今だけは、司馬師に再び会うのが怖かった。諸葛誕にとって、今までに司馬師と会う事が恐ろしく感じたのは、司馬師が生徒会役員への労いとして大量の肉まんを持ってきたに逃げた後だけだったのに。
「ま、待ってくれ。司馬師殿に用がある訳ではなくてだな……」
 不安げな、心配そうな顔は相変わらずで、より思いつめたように、白露が諸葛誕の顔を真っ直ぐ覗き込む。その瞳に映る諸葛誕の顔は、不安で押しつぶされそうだった。
「なら、他になにか、私でもできることはありますか? 私、諸葛誕先輩にはパンを奢ってもらった恩がありますから」
 少し無理をしたような作り笑いを浮かべて、わざと空気を壊すようにおどけた様子で、白露が言う。諸葛誕に掴まれた手首を振りほどくのではなく、掴ませたまま反対の手を添え、青ざめた様子を白い手袋で隠していた諸葛誕の手を、ゆっくり温め始めた。そのしぐさと手のひらから伝わる温もりで、、諸葛誕は思わず手当てという言葉を浮かべてしまう。
「手袋の上からでもこんなに冷えて、一体どうしたんですか、先輩! いえ、言いたくなければ、もちろん言わなくてかまわないんですけど。……あ、そう言えば、嫌じゃなかったですか? 手を触られるの。先輩、いつも手袋してるし、潔癖症なのかなって」
 嫌ではないと、言葉の代わりに首を振って伝える。諸葛誕が白露の手首を離すと、白露は自由になったもう一方の手も使い、諸葛誕の手のひらを包み込んだ。
「本当に、手が冷えきってますよ。気分が悪くて一人で帰れないなら、司馬師先輩を呼んできた方が……」
「いや、今はその……司馬師殿には、会い辛くてだな」
 白露は少し驚いたが、なにかを決意したように小さく頷き、微笑んだ。
「私も小さいときに下のお兄ちゃんと喧嘩して泣いていたら、お兄ちゃんが……先輩と同じクラスの、この学校に通っている方のお兄ちゃんが、こうして慰めてくれたんですよ。だから今は、この間慰めてもらった分だけですが、私が司馬師先輩の代わりに……頼りないでしょうけど。もし体調が良くならなかったら、ちゃんと保健室に行ってくださいね、約束ですよ」
 幸せそうに王基の思い出を語る白露を、諸葛誕がぼんやりと見つめる。彼女にも、いつか兄と会うのが怖いと思う時がくるのだろうか。それは、どのような時なのだろうか。もし彼女が今の諸葛誕と同じように、尊敬する兄への思いで泣く時が来たとすれば、諸葛誕には何ができるのだろうか。自分自身の感情すら今だわからず混乱するばかりの諸葛誕は、思わず自らの状況から目を背けていた。自らの感情を理解する事を放棄し、来るかどうかもわからない未来を考え始め、目の前の彼女がただの同級生の妹で、下級生で、通りすがりでしかない事を思い出す。
「いや、その。もう放課後で人も少ないというのに、人が少ない廊下で女子生徒が男子の手を握り続けるというのはどうなのだ」
 突然の言葉に、白露が思わず吹き出す。笑いながら、手を離す。
「ああー、よかった。いつもの諸葛誕先輩に戻って。じゃあ、私は帰りますね。これでパン一つ分のお礼は返せましたよね?」
 身を翻し、大きな靴箱の影に消えていく白露の背中を眺める。気付けば、助けてもらった礼を伝え忘れたと気付きながら、諸葛誕は自らの手のひらがいつものような体温を取り戻している事を確認し、そのまま帰路についた。


26/40

*prevnext#
Back to Contents
しおりを挟む



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -