五月 気まぐれな後輩と生真面目な先輩

 校内でぶつかり注意をしてきた風紀委員という捉え方をするのなら、あまり良い印象を持っていないに違いないと、思われるのかもしれない。だが彼は、諸葛誕は、大好きな兄の同級生で、大好きな兄の友人だ。突き詰めてしまえば、白露にとって諸葛誕は、大好きな兄という概念の付属品でしかないのだ。白露が兄である王基を家族として、妹として愛する限り、諸葛誕に注意を受けたという事実さえも、彼が風紀委員としての行いを、職務を全うしているとしか映らない。兄が彼を認めているのなら、白露も彼を認める。ただそれだけの事であり、諸葛誕自身がどのような人間なのか、白露は根本的に興味がないのだ。もし諸葛誕をどう思うのかと聞かれれば、兄の素晴らしさがわかるに違いない兄の友人という返事になるのだろう。同時に、白露が知らない学校での兄を、諸葛誕は確かに知っているのであろう事も、理解はしている。だから白露は、諸葛誕に興味はないが彼の知る兄に興味があるのだと、一人で自問自答をした結果、諸葛誕に挨拶をした。
「おはようございます、諸葛誕先輩。こんな朝早くに、部活で朝練でもあるんですか?」
 通学の最中、偶然にも同じ電車の同じ車両に乗り合わせた諸葛誕へ声をかけたのは、本当にそれだけの理由でしかない。諸葛誕はきっと、白露の知らない兄を知っているであろうから、話を聞いてみたかった。これで兄の話が聞ければ、白露もたまには早めに家を出てみた甲斐があるというものだ。
「ああ、馬術部に入っているんだが、馬の世話が当番制で……基本は用務員さんが見てくれるが、その手伝いといったところだろうか。三年生は受験との兼ね合いで、もうあまり活動してはいないが、やはり馬の好きな部員が多いからな。彼らと触れ合うだけでも楽しいものだ。え……と、白露さんも朝から部活ですか」
「混んだ車両が嫌で、いつもこの時間です」
 白露から帰って来た返答に、諸葛誕が目を丸くする。彼女が兄を慕っている事は先日の件で充分に理解していた諸葛誕だからこそ、王基と白露が共に通学をしていないという事実に違和感を感じてしまう。
「……学校でのお兄ちゃんって、どんな感じですか?」
 間髪いれずに諸葛誕へ投げかけられたのは、まるで違和感を読まれたかのように、王基に関する話題だった。
「どんな人、か。よく司馬師殿や私が仕事に困っていると、自然と気付いて手伝ってくれるな。成績も優秀だし、受けた恩を忘れない義理堅さもある。友人として誇らしい、友達甲斐のある人物だと思うぞ」
 事務的だった白露の表情が一瞬で綻ぶ。自分の事を褒められたかのように嬉しそうに、笑顔を浮かべる。最初にぶつかった時といい、生徒会室での会話、役員達との帰宅といい、諸葛誕は既に彼女は表情が硬いことを把握していた。だがそれ以上に、何か嬉しい事があれば年齢以上に幼い顔を見せることも、嬉しい事は大抵兄に関連することだという事も理解していた。
「学校ではずいぶんと大人びた印象だが、私が知らなくて白露さんなら知っているような一面もあるのでは? 自宅だからこそ、気を抜いてしまうような」
 白露の顔が、素に戻る。何か問題のある発言でもしてしまっただろうかと諸葛誕が不安に思う中、短いが簡素な回答が帰ってきた。
「いえ、両親にも私にももう一人の兄にも、他人行儀なままですね。優しくて義理堅くて。うん、引き取られてうちに来た時から……お兄ちゃんは何も変わってません」
「……引き取られた?」
「お兄ちゃんの両親はずいぶんと昔に死んで、えーと……お兄ちゃんの本当の父親の兄夫婦に、私の両親に引き取られました。だから、お兄ちゃんと私は本当なら兄弟じゃなくて従兄弟、ですね」
 知らなくても仕方がない事だと思います。失言をしてしまったと表情で語ってしまった諸葛誕に対して、白露が作り笑いを浮かべて首をかしげ、呟く。
「お兄ちゃんは、口数が少ないわけじゃないのに、自分の事は何一つ話してくれませんから」
 三年間の間同じ学年、同じクラスだった諸葛誕が妹の存在を知らなかった程だ。言われてみれば、全く自分の話をしている記憶がない。だからこそ、諸葛誕と白露はこうして本人がいない時に話をしてしまったのだろうが。
「だから、うちの両親に迷惑をかけたくなかったから、進学校の天命館に特待生として入学したんだと思います」
 大好きな兄の話をしているというのに、白露は再び表情を消してしまって、どこか寂しそうに語った。

 ***

 『憮然とした顔』という言葉の例として教科書に載せてしまいたい。今の白露の表情を見ていると、諸葛誕はそのような感想が出て仕方がなかった。偶然、図書室で彼女を見かけたので声をかけても反応がなく、ただテスト用紙を顔の前に掲げ、ひたすら驚いたような、悲しいような顔をしたまま周囲に反応を返さない白露に対して、当初はきっとテストの点が悪かったのだろうという同情や憐れみの気持ちで一杯だった。だが、普段は無表情極まりない白露が王基とは無関係の事で感情を表に出しているという珍しい事態に、次第と興味が沸いてしまった。隣の席に腰かけて、反応を返すまで待ち、理由を聞くことにした次第だ。
 やっと我を取り戻した白露に話を聞くと、文字の書き損じという他愛ないミスで点を落としたらしい。答案を見せてもらえば、確かに6だと言われれば見えなくもない。だが一見は5にしか見えないし、テストという場で雑に字を書くのが悪いという教師の指摘にも頷いてしまう。だがどうやら、たった一問のミスで一方的にライバル視している鍾会に負け、同率学年一位を、満点を逃した白露には堪ったものではない事も理解できる。そして、内申稼ぎと明言して一年生の頃から生徒会に所属しながらも他の一年生を見下す鐘会を、諸葛誕は評価こそすれど快くは思っていなかった。だからこそ、決して白露に同情をしていないわけではないのだが。
「あの先生キライ、あの先生キライ……」
 わなわなと震える指先でテスト用紙を眼前に掲げたまま、うわ言のように同じ言葉をひたすら繰り返し、今にも泣き出しそうな瞳でじっと点数を睨み付けている。何が悪いかと諸葛誕が聞かれれば、白露の悪筆さだと答えるところなのだが、普段から字の丁寧さを心がける達筆な諸葛誕ですら、そう思うだけで決して口にしない。今回のテストを機に白露が自らの悪筆を改めれば良い教訓になるだろうと思いながら見守っているが、白露の口から出てくるのは教師への呪詛だけだ。同年代を見下す鐘会といい、今年の一年生は大人びた一面と年齢以上に幼い一面を持った者が多いのかもしれないと思うと、諸葛誕とて二歳しか年長でないにも関わらず、白露や鐘会がずいぶん可愛らしく思えてしまうから不思議だった。
「もし私でかまわなければ、ですが……食堂で、何かお菓子でもおごりましょうか?」
 子供をあやすような口調で、実際に子供をあやすような気分で呟く諸葛誕に、白露は返事を返さない。だが涙を貯めた目を閉じ、肯定の意を込めて大きく頷いた。
「じゃあ、私、放課後限定のクルミあんパンが食べたいです」
 天命館の食堂は私立ゆえに校内施設にも力が入っており、その一つが食堂の自家製パンだった。定番のカツサンドやボリュームのあるやきそばパンは男子生徒に人気だったが、隠れた名物は放課後にだけ少数販売される変わった菓子パンだった。
「……でも私、諸葛誕先輩に何かしてもらう理由なんてないけど」
 義理堅いところは兄の王基によく似ている、などと思っていまい、諸葛誕は小さく笑う。涙が溢れそうな顔を見かねてそっとハンカチを手渡した。
「いつか、何らかの形で、帰せそうな時に返してくださればかまいませんよ」
「……。じゃあ、この間みたいに生徒会が忙しい時に、手伝いに行きます。声、かけてくれれば。そんなのでいいの?」
 充分ですよ。諸葛誕は白露にそう伝えると、重々しく立ち上がった彼女をつれて食堂へ向かう。ただでさえ販売数が少ないクルミあんパンが残っているようにと、諸葛誕は心の底から願ってしまっていた。そもそも根が善良なのが、諸葛誕という男の性質だ。もしこれが白露でなくともクルミあんパンが残っているようにと願わずにはいられなかっただろうし、笑顔になって欲しいと思わずにはいられなかっただろう。だがクルミあんパンが残っていて、彼女が笑顔になってくれるなら、これほど嬉しい事はないだろうとも諸葛誕は考えてしまい、食堂まで向かう足取りは軽くなり、表情は自然と笑顔になっていた。

 ***

 諸葛誕にとっては友人の妹にすぎず、白露にとっては兄の友人にすぎず。今の諸葛誕と白露の関係性は、それ以上でもそれ以下でもない。間に友人が、または兄が入っているからこそ成り立つような、直接の繋がりもない微妙で曖昧な間柄の顔見知りでしかない二人が、友人同士や恋人同士が集う朗らかな空気の漂う放課後の食堂で二人きり、向かい合って無言でパンをほお張っていた。お互いに、食事に忙しいのであって『決して話す内容が見つからず、気まずく思っているわけではないのだ』と、お互いの全身から言い訳のオーラを放ちながら。
 ふと、白露が前を見て笑う。その視線は明らかに諸葛誕へ向けられていた。わずかに不愉快そうに、明らかに不可解そうに諸葛誕が白露を見つめる。何を笑っているのかと問いかけるような視線で。
「まるで、学校のパンフレットに載っていそうな制服の着こなしだと思っちゃって」
 小さく微笑み、白露が諸葛誕の制服姿を例えて述べる。指定のワイシャツは一番上までボタンを止めており、よく筋肉のついた首では少し苦しそうにすら見える。ネクタイは小さなシワ一つ見当たらないほどアイロンが丁寧にかけられており、スラックスの丈も長すぎず短すぎず、わずかにスクールソックスが見える様子は計算され尽くしたかのようだ。もう夏の衣替え間近だというのに冬服を指定通り着こなす諸葛誕の服装は、身長にさえ目を瞑れば引き締まった体格と相まって制服モデルのようでもあった。
「せめてベストくらい脱げばいいのに。指定のベストでも、五月にその格好じゃ暑くない?」
「ベスト? ああ、チョッキの事か。先程の図書室やこの食堂のように、既に冷房のついた部屋もあるからな。ちょっとした気温差のある場所を行き来する時には重宝するんだが」
 笑っていたはずの白露が突然、驚きで大きく目を見開く。まるで、キョトンという擬音が聞こえそうなほどに、まん丸な目で諸葛誕を見つめる。そして次の瞬間に、耐えかねて爆笑した。
「いやいや、諸葛誕先輩! 高校生でチョッキって、古すぎない? 久しぶりに聞いた気がする。おじさんみたいだよ、その呼び方」
 一度も疑問に思ったことがないらしく、諸葛誕が首を傾げる。
「いや、チョッキだろう。確かにベストとも言うが、どうもしっくり来なくてな。実際、間違っているわけではないのだし」
「確かに間違ってないんだどさぁ、なんか古臭いというか、おじさんっぽいというか……でも確かに、諸葛誕先輩っぽい気もするけれど」
 いかにチョッキという呼び方がおかしくないか力説し続ける諸葛誕と、次第にチョッキという呼び方もおかしくはないという考えに変わっていく白露の二人。会話が盛り上がりを見せる中、二人の間に不意の乱入者――まさしく二人の関係を繋ぐ者である、諸葛誕の友人かつ白露の兄――である王基が現れた。
「あれ、諸葛誕と白露って仲いいのか?」
「丁度いい所に! ねぇお兄ちゃん、諸葛誕先輩ってベストのことチョッキって……」
「ん? 諸葛誕のチョッキがどうかしたのか?いつも通りに見えるが?」
 唐突な説明に対する王基の意外な返事に、白露が固まる。慌てて何でもないと兄に伝える白露に、不思議そうな表情で二人を見比べる王基、そしてどこか安心した顔の諸葛誕。三人が三者三様の表情を浮かべていた。
「と、ところでさ。お兄ちゃんはなんで食堂に来たの? 今日はバイト、お休みだっけ」
「いや、バイト前に何か腹に入れとこうと思ってパン買いに来ただけ。じゃーな!」
 食堂のパンが入った袋を掲げ、王基が笑いながら立ち去る。その背中を寂しげに見ている妹の白露になど、まるで気付いていない様子だ。
「……他のパンで良ければ、まだ食べますか? もう一つ奢りますよ」
「別に理由がないからいい……お兄ちゃんの持っているパンを見ていたわけじゃないから」
 諸葛誕は無言で席を立ち、適当にパンを買ってくる。好きなものを選んでくださいと言いながら。
「余ったものは私が食べます。美味しいものを口にすれば、少しは気が紛れるでしょう? あ、いえ……私の勘違いなら、いいのですが。なんだか、落ち込んでいるように見えたので」
 落ち込む理由なんてない。そう言いながら、白露はパンの山から一つを取り出し、かぶりついた。パンに阻まれて聞こえないであろうような小さな声で、一言『ありがとう』と呟いて。


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