四月 尊敬する新入生と敬愛する在校生

 生まれの関係か、それとも生来の気質なのか。彼は、幼い頃から天賦の才というものに強く憧れずにはいられなかった。だからこそ、天賦の才を持つ者達を敬愛し、いつも見守り、憧れ、好んでそばに付き従った。天才と呼ばれる存在をすぐそばで仰ぎ見ながら、天才達が人道に反しない限りは彼らの力になる事こそが、彼の至上の幸せだった。感謝され、必要にされる事が本懐だった。例えその行動を、気概がないと周囲に笑われる事になろうとも。彼にとって優秀な者たちの力になり、信頼を勝ち得ることこそが、彼の悦びだったのだ。
 彼は、諸葛誕は、そのような気質を持つだけの善良な人間で、自らも充分に非凡と言える才能を持っているにも関わらず、天才達の手足に甘んじていた。そして諸葛誕自身すらも、その事に不満や違和感を抱くことなく、自らの責務として全うしていた。そのつもりだった。

 生徒会長の司馬師にコピーを頼まれたプリントの束を抱え、風紀委員長と生徒会書記を兼任する諸葛誕が生徒会室を出る。新年度は慣れない新規役員が多くの業務に取り組む事となり、どうしても生徒会の仕事が慌しくなってしまいがちだ。だが、一昨年及び昨年より生徒会長を引き続き務める司馬師がいる上に、司馬師の弟で普段は怠け者の司馬昭、司馬師と諸葛誕の同級生で共通の友人である王基らが手伝いを申し出るなど、生徒会役員外からも多くの助けを得ることができた。そのお陰で、例年に比べれば落ち着いた新年度を生徒会役員達は送っている。一年生の新規役員も含めた生徒会役員が皆、忠実に職務を全うし、さらに役員外の人々までもが手助けを申し出る。この生徒会の現状こそ、憧れの司馬師殿の人望が現れた結果に他ならない。諸葛誕は一人、生徒会の穏やかな現状を司馬師の才と解釈していた。また司馬師と共通の友人である王基の優秀さと義理堅さに感謝し、自然と頬を緩ませていた。同時に、その喜びから気を緩めてしまっていた。元々、視野が狭く多くの事に気を回す事が苦手な諸葛誕が、望外の幸せで浮かれているのだ。周囲に対して不注意になっていても、何一つおかしくはなかった。
 広い階段の踊り場に設置された大きな手すりは、充分に安全を配慮した設計であった。だが、物を抱えて階段を下りる者や慌てて先を急ぐ者にとって、丈夫な手すりは大きな遮蔽物にもなりえた。生徒会室のある二階から職員室のある一階へ急ぐ諸葛誕は、逆に一階から二階へと急いで駆け上がってきた者の存在に気づくのが遅れ、お互いに肩がぶつかってしまう。ただ軽く衝撃を感じる程度の衝突で、お互い怪我をするほどでもなく、転ぶほどでもなかった事は不幸中の幸い、せいぜい姿勢を崩す程度ではあった。だが、ぶつかった衝撃と共に聞こえた女性らしき小さな悲鳴は、堅物で生真面目、さらに風紀委員長を務める諸葛誕に大きな罪悪感を抱かせるには充分だった。
「っ……! あ、生徒会の人、ですか?」
 小柄とはいえ馬術部で鍛え抜かれた体幹を持つ諸葛誕とぶつかり、よろめいた女子生徒はよろめきながらも諸葛誕の腕章に書かれた生徒会書記の文字を目敏く見つけたらしい。気付いた途端に姿勢を正し、早口で話しかけてきた。まるで、相手を顧みず捲くし立てるかのような怒涛の勢いで。
「あ、すみません! 私、一年生で全く校内がわからなくて……。生徒会室に行きたいのですが。えっと、兄を探していて。兄のクラスの方からは、生徒会長の手伝いをしていると聞いたのですが、生徒会室はこの棟の二階であってますよね?」
「いや、こちらこそすまない。怪我はなかったか? うむ、生徒会室ならこの廊下の突き当たりに……」
 兄を探しているという女子生徒の話を聞き、諸葛誕は生徒会役員達を一人一人、丁寧に思い出す。しかし、どれだけ思い出そうとしても、生徒会の役員から一度でも妹がいるという話を聞いた覚えがとんとが無いのだ。一年生の兄が一年生という事も考え辛い。現在、生徒会長を手伝っている者の妹だというのならば、司馬昭の妹なら必然的に生徒会長の司馬師の妹となるが、聞いた覚えが全く無い。つまり、この女子生徒は王基の妹なのだろうか。諸葛誕が女子生徒の一声に思わず思案をめぐらせている間に、件の女子生徒は生徒会室へ向かって一直線に走っていってしまった。それはまるで、生徒会室の場所がわかれば諸葛誕になど用がないとでも言いたげな勢いで。
「……って、おい! 廊下を走るな、一年!」
 既に生徒会室の前へたどり着こうとしている彼女の背中に、諸葛誕は彼らしい大声で怒鳴りつける。だが諸葛誕からの叱責をまるで意に介さない様子で、一度も諸葛誕を顧みる事もなく、女子生徒は生徒会室へと消えてしまった。
 その後、諸葛誕が何度思い出そうとしても、王基から妹がいるという話など全く思い出せず、そもそもクラスメートでありながら家族の話を聞いた覚えが無い事に思い当たる。いくら思い起こそうとしても、諸葛誕は王基から家庭の話や私生活の話をろくに聞いた記憶がないのだ。よく話をする同級生であると思っていた諸葛誕にはどこか腑に落ちない事実に気付き、奇妙な違和感を覚えながらも、再び人にぶつかることがないようにと多少周囲に気を配りながらたどり着いた職員室で、司馬師に頼まれたコピー作業にいそしんだ。

 ***

 小さな頃から、ただひたすらに兄の背中を見つめていた。憧れていた。大好きで尊敬する兄の妹である事を誇り高く思っている彼女には、いつしか『兄の妹として優秀である事』はただの義務となっていた。義務だから、そうあらねばならない。義務だから、褒められなくても続けねばならない。ただ空気が周囲にあるように、ただ太陽が空に輝いているように。ただ、彼女は自分が兄にとって優秀な妹でなければならないと妄信していた。義務に生まれ持った天賦の才は関係ない。兄である王基やその友人の司馬師のように、優秀な兄を持つ、優秀な兄を尊敬する妹である彼女も、兄に相応しい優秀な妹でなくてはならないと信じ込んでいた。大変な努力をし続けながら、報われる必要を考えたこともないほどに。ひたすらに、ひたむきに、優秀であり続けなければならないと、彼女は、王白露は、一人で人知れずにもがき続けていた。

 必要な数だけコピーした資料を生徒会室に持ち帰った諸葛誕を出迎えたのは、生徒会役員やその兄弟、友人の見知った顔に、さきほど知り合った――廊下でぶつかり、風紀委員の務めとして注意し、無視されただけの――一年生だった。
「ああ、諸葛誕お帰り。こっちは俺の妹の白露。一緒に帰りたいらしい、邪魔させて悪いな」
 司馬師の手伝いをしている王基が、諸葛誕に気付いて声をかける。手のひらで示した先にいたのは、まるで初対面かのように関心のなさそうな、だが気まずさで視線を横にそらす彼女だ。
「……廊下は走るな、一年」
 先程とは打って変わった、どこか諦めの入った口調で諸葛誕が呟く。諦めたようなため息と共に、彼女は――廊下を走っていた一年生であり、王基の妹である白露は――力なく、すみませんと囁いた。そのような二人のやり取りをみて、生徒会室へ駆け込んできた白露の勢いを覚えている者たちが微笑む。
「周りが知らぬ者だらけの環境に放り込まれたばかりの新入生にとって、校内の兄弟というものは頼もしい存在だろう。思わず急いでしまうのも、ある程度は仕方がない。昭も去年はよく放課後に……」
「ちょ、去年の話とか今更やめてくださいよ、兄上! そもそも俺は元姫と一緒に入学しましたし、一人じゃなかったんで!」
「本当に、入学当時から子上殿は適当でやる気がなくて、私も大変だったわ」
 他愛もない会話に皆が笑う中、白露はどこかすました顔で窓の外を見ていた。まるで、他人に興味がなさそうに。先程まで白露との簡単な会話で彼女を見ていたからこそ気付けた諸葛誕も、ただ彼女がまだ打ち解けていない先輩の会話に入れないか、あまり協調性を重視しない性格なのかと心配に思うほどに、凍った表情をしていた。むしろ、諸葛誕にとって敬愛する司馬師の気遣いを無下にされたという気持ちすら浮かんでしまうような関心の無さだというのに、その醒めた目が頭にこびりつき、気がかりで仕方がないのだ。妙な懐かしさ、既視感、といった表現がしっくり来る。だが、誰かに相談するわけにもいかず、淡々と仕事をこなしているうちに諸葛誕は違和感を忘れてしまっていた。

 ***

 仕事を終えた生徒会一同とその兄弟、友人に乱入者の一年生を加え、疲れはあるが満たされた顔でぞろぞろと学校から最寄り駅へ歩く。途中、理事長の息子であり学校の側に自宅がある司馬兄弟が抜けたといえ、充分な人数ではあった。鍵を忘れたから兄と一緒に帰りたい、という理由で共に帰ることになったというのに、白露はなぜか王基の横に並ばすに、二歩ほど後ろを歩いていた。兄が友人と話すことを気遣ったのかと諸葛誕は思ったのだが、当の王基は集団の先頭に立って一人気ままに歩いているだけだ。
 年の頃を思えば普通の体格なのだろうが。諸葛誕と白露が横に並ぶと、同学年の男子生徒内では小柄な諸葛誕から見ても、白露はずいぶんと小さく見えてしまう。このように小柄な少女にぶつかってしまったのかと罪悪感を覚えるような、まるで小動物のような印象を受けていた。ただ、小柄な印象はあるのに白露の頭頂部は諸葛誕の肩より高い位置にはあるように見える。なぜ小柄に見えるのか、ぼんやりとその理由を考え、諸葛誕は一つの疑問にたどり着いた。
「その、白露さん? そのリュックは、白露さんには少し大きすぎるのではありませんか?」
 白露の上半身がすっぽり入ってしまうような、少しへたれた大きな鞄を背負っている事。それこそが、白露の体格が実際以上に小さく見えてしまう理由だろうと諸葛誕は思ったのだ。もしこの鞄が新品で張りがあれば、買ってもらったばかりのランドセルを背負う小学一年生のようだったかもしれないと思える程に、白露の背負った鞄は大きかった。
「これ、お兄ちゃんのお下がりだから、お気に入りなの。一杯入るし、使いやすいし」
「……そう、ですか」
 言われてみれば、デザインに見覚えがあった。同級生の王基が、今年の最初になって一年生の頃から愛用していた鞄を変えていたことに思い当たる。諸葛誕より背の高い王基が背負っている時は、ここまで大きく感じなかったが。
「わたしがね、お兄ちゃんと同じ学校を受けるから験担ぎに何か欲しいって言ったらくれたの。だから、大切な謂れのある素敵な鞄なの」
 大きな鞄を背負って少し嬉しそうにふんぞり返る白露は、知り合ってから初めて諸葛誕に笑顔を見せた。突然の笑顔は実際の年齢以上に幼く見えてしまい、小柄な印象と相まってまさしく小動物だ。大きくふんぞり返る様子を見ながら、大きな鞄に引っ張られて転ばないだろうかとヒヤヒヤしながら、諸葛誕は思わず笑顔で白露を見つめた。
「白露さんは王基殿が……お兄さんが、大好きなのですね」
「だって、頭も良くて、優しくて、天命館に学費免除の特待生入学したようなお兄ちゃんだもん。理事長の息子さんの司馬師先輩も常に学年トップクラスだったり一年生の頃から推薦で生徒会長をしていたりと、聞いた話だとすごくて……私も、同じ学年に生まれたかったな」
 突如、会話に登場した司馬師の名に諸葛誕が狼狽する。尊敬し、敬愛する司馬師を褒められた点には同意しながらも、他の人間と比べられた点には不満を感じてしまう。比較対象が諸葛誕と司馬師の友人であるにも関わらず、また決して一方を不当に貶めた言い回しではないにもかかわらず、諸葛誕の心に奇妙なわだかまりが残り、胸がざわついた。
「そ、そうですね。司馬師殿は特待生として入学する必要のない家柄の方ですから、単純な比較は出来ませんが……あのお二人と同級生として肩を並べられる事は、私も誇らしく思っています」
 白露が、諸葛誕を羨ましそうに見つめる。まだ知り合って間もない先輩へ向ける視線としては純粋そのものの視線を。踊り場でぶつかった時の関心のなさ、生徒会室での無表情さすら忘れさせるような、人間らしい感情に満ちた視線だった。
 本当に、彼女は兄の事を……王基の事を、一人の人間として純粋に尊敬し、敬愛しているのだろう。諸葛誕はひしひしと白露から王基に対する誇らしい気持ちを感じると同時に、他者から諸葛誕の司馬師に対する尊敬と敬愛の感情がどのように映るのか、と不安に思い始めた。諸葛誕が司馬師に対して抱く感情は、純粋に友人として誇らしく思う気持ちだけなのか、他者の目にはどのように映っているのか、と。


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