プロローグ 4月10日

 二上門でも指折りの高層マンションの最上階、広々としたワンフロアをそのまま一世帯用に使っているという贅沢な自宅の窓から、祐はぼんやりと地上を見下していた。高層マンションの窓から地上を見る、という構図故に見下している形になってはいるものの、祐は地上を馬鹿にしたりといった気も更々なく、単に暇と虚しさを持て余して景色を眺めているだけだった。至る所にビルが乱立し、忙しそうにスーツ姿の人々が行き交う実に彩度の低いいつもの光景。そんな落ち着いた色合いの中、この季節だけは淡いピンクが加わっている。
「桜が満開だなぁ、綺麗だなぁ。近くで見たらもっと綺麗だろうなぁ」
 窓から離れ、毛足の長い絨毯の上に冷めた目で寝転がる。脇に置いてあったクッション兼用のぬいぐるみを掴み、抱きしめ、拗ねた顔で見つめあった。
「寂しいなぁ、お花見とかしたいなぁ。でも、一人で見に行ってもなぁ」
 ぬいぐるみは何も答えない。彼女は暫くぬいぐるみに対して以下に一人は寂しいかを語り、見つめあい、盛大なため息の後脱力するようにぬいぐるみを手放した。空いた手で携帯を掴み、画面を見るが時間はまだ15時。アルゴンソフトの就業時間まで3時間だが、社長である門倉が定時で業務を終了することなど、年に数えるほどしかなかった。
 
 そのまま携帯の画像フォルダを開き、丁寧に一枚ずつ確認する。そこに並ぶのは門倉が載った雑誌の画像やインタビュー番組のスクリーンショット。だが、その表情は祐の夫である門倉国義ではなく、アルゴンソフトの社長で情報都市政策の重要人物である門倉国義社長とも呼ぶべき他人行儀な笑顔ばかりだ。
「しゃ、しゃちょ……会いたいよぉ、声が聞きたいよぉ、寂しいよぉ」
 今度は今にも泣きそうな声で、ぬいぐるみではなく携帯電話の画面に向かって語りかけ始めた。すると突然、その声に答えたかのように携帯がけたたましく鳴り始める。祐の携帯画像フォルダに唯一収められている、門倉国義の私生活での写真――愛する夫からの着信を告げる画像が表示され、驚きのあまり思わず携帯を落としそうになりながらも電話に出た。
 
『祐、GWに予定はあるのか?』
 突然の電話にしては説明も無い、唐突過ぎる質問だけが投げかけられる。電話に出たのは自らの妻であり、己の言う事を正しく聞きわけ、質問へ即座に答えるのが当然という、ある種の傲慢さすら感じる自信に満ちた人種の声だ。だが祐にはそれが愛おしくて、本当に嬉しくて、思わず泣きそうで、彼を不満にさせそうな程取り乱しそうで、だがそんな気持ちを必死に抑えて答える。
『ふむ、空いているのか。どこか行きたい場所はないか?新婚旅行に行きたいと言っていただろう?』
 特に難しくもないはずの、新婚旅行という単純な単語。だがあまりの前置きの無さに、祐はその言葉の意味を素直に飲み込めず、オウム返しと奇妙な相槌を返すことしか出来ない。
『随分待たせてしまったな。仕事を離れられるのは今月29日の午後から来月2日までの4日だけだが、国内旅行くらいは出来るだろう。不満か?』
 思わず祐が首を横に振る。当然電話の向こうにいる門倉がそれに気付ける筈はないのだが、祐はその事実にすら辿り着けず首を横に振り続けた。
『いい加減仕事に戻らねばならん、早く答えろ。29日の午後に天海を出て2日の夜までには帰る、国内限定だ。行きたい場所は?希望がないなら僕が勝手に決めるが?』
 自らへの絶対的な自信に満ちた人間特有の、力強い口調で捲くし立てる門倉の声。気の弱い人間なら気圧されてしまうところだが、祐にとってその声は、先ほどまで一人で泣いて、焦がれて、想い続けていた愛おしい声だった。
 電話の向こうから、ずっと聞きたくて溜まらなかった声がする……!祐は今やっとその状況を、意味を、内容を理解し、門倉の質問に答える事が出来た。
「じゃあ桜、桜が見たい!あ、でもGWじゃ桜は散っているし、桜じゃなくてもいい!自然が一杯の綺麗な場所に行きたい、天海じゃ見られないような景色を見て、そこにしかない食べ物をゆっくり食べて、天海と違って近代的じゃない、懐かしい景色に囲まれた場所でゆっくりしたい!何もせずに二人っきりで!」
 今度は我に返った祐が門倉を捲くし立てる。まるで具体性がない、あいまいな希望を必死に吐き出す。先ほどまで桜を眺めながら想像していた二人の世界に行きたい、誰も二人に構わず、浮世を離れ、時が止まったような空間に。ただの夢想でしかなかった想像を必死に吐き出して、祐の想像していた門倉と行きたい場所を伝えようとする。
『ふむ、自然が多くて、スローフードが味わえて、古い町並みが残る場所、ということか。京都、倉敷辺りが近いが――他に条件はあるか?』
 実在の地名を挙げられ、祐の中では二人での新婚旅行というものが益々と現実味を帯びてくる。ついに感極まり涙が流れ声が詰まったが、搾り出すような声で門倉に最後の希望を告げた。
『人が少ない場所?どちらも有名な観光地だからな、連休ともなると人は多いと思うが――嵯峨野、嵐山なら旅館から出ずとも景色を堪能できるかもしれないな。観光地に出向けば人は多いが、旅館に篭れば気にならないだろう。だが、それなら観光はあまり出来ないぞ?』
「か、観光なんていいのっ!ただ何も考えずに、二人で静かに過ごしたいよ。お互いのことだけを考えて、ゆっくりしたい……」
 思いを門倉に届けたい一心で声を出すが、その語尾は祐自身の泣き声に変わってしまう。寂しくて泣いているのか、うれしくて泣いているのかは、既に本人にすらすら分からなくなっていた。それに引きずられるかの様に、自信と傲慢さに溢れていた門倉の返答までもが、穏やかで静かな口調になっていく。
『そうか、すまなかったな。つい変なことを聞いてしまった。ああ、喧騒から離れて二人でゆったりした時間を過ごそう。旅館は僕が手配しておく。……楽しみだな、祐。愛しているよ』
 
 忙しそうに電話が切られた後も、祐は携帯を持ったまま涙を流していた。だが、その表情は先ほどまでの寂しさとは違う、まるで親に褒められご褒美を貰った子供のような、嬉しそうにはしゃぐ子供を見つめる親のような、ただひたすらに曇りの無い、温かく穏やかな笑顔を浮かべていた。


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