雪月花

 まだ2月半ばを過ぎたばかりの冷たい雪が降る中で、世間は春を迎える為の様々な準備を始めていた。
 夜中に仄かな月の光が差し込む自室で、パソコンの前に座り一人で黙々とキーを打ちマウスを操る彼の作業も、そんな春を迎える為の一つの準備と言えるのだろう。
 彼の前にあるモニターにはパラダイムX内のコンテンツの一つであり、ネット上で四季を楽しみ自然と触れ合うための公園である『VRパーク』が映っていた。もっとも、現在彼の目の前にあるモニターに移っている『それ』は実際に天海市民がアクセスしているVRパークとは少々違っている。一部のアルゴンソフト社員がパラダイムXのアップデートデータを本公開前にテストする為に使用している、クローズドテスト用に用意されたもう一つのVRパークだった。公には決してアクセスできない、殆どの人間が立ち入ることの出来ない仮初の場所である。窓の外では粛々と降る雪が月明かりに妖しく照らされ、街行く人々は寒さに手を合わせ足早に家路を急いでいるというのに、そのVRパークの中では鳥が歌い暖かなそよ風が吹き、咲き乱れる桜が優しい陽の光に包まれ、だが人の声はどこからも聞こえない奇妙な静寂を湛えていた。
 舞い散る花びらの間を抜けて木漏れ日はきらめき、鳥のさえずりは春のまどろみを祝福し、芝生の緑はそよ風を受けて優しく揺れる……先ほど彼に届けられた春用のVRパーク環境データは、作り物とは思えない程に完璧な出来と言えた。その完全な春の中、静かに微笑みながら彼の操作通りに動くアバターが、ただ一人で何者の気配もない無人のVRパークを彷徨い歩いてる。その姿は彼の愛する女性を忠実に模しており、他の社員には存在すら知られていない、完全なる彼専用のオリジナルアバターだった。
 本物と見間違えるような花びらが舞う桜吹雪の中、彼の指示通りにアバターが穏やかな微笑みを浮かべて歩きまわる。見渡す限り完璧に作られた、寒風吹きすさぶ現実とはまた違うもう一つのネット上の現実として存在する一面の春の中を、彼に背中を向けて公園の奥へとひたすら進む『祐』。それはまるで、彼を一人だけ冬の中にある現実へ取り残し、モニターの奥にある電子の春の世界へと、一人で桜と共に消えてしまうかのような、そんな儚げな光景にさえ思えた。

 いつの間にか深々と雪を降らせていた雲は無くなり、空には見事な月だけが浮かんでいる。先程まで降り続いた雪は既に輝きながら溶け始め、街は白化粧から普段の素顔を取り戻そうとしていた。
 月の光は雪の反射を受け、強さを増して彼を照らす。月明かりに照らされた彼の仄白い髪は溶けようとする雪のように輝き、白いスーツは雪の白さを受けてより白み佇む彼の妖しさを際立たせ、普段から少々色素の薄い肌は月の輝きに儚さを増し、今の彼は人ならざる存在だと言われても納得してしまいそうな浮世離れをした空気を纏っていた。さながら、月の光を受けながら雪と共に輝き溶けてしまいそうな程に。

 不意に誰かが彼を後ろから抱き締める。驚いた彼がふと後ろに視線を向けると、モニターに移るアバターと瓜二つの女性が涙ぐみながら抱き付いていた。
「国義さん……行かないで」そう、泣きながら祐が彼を抱きしめ……いや、捕まえていた。
 月の光に照らされた国義さんが、そのまま月に攫われて雪のように融けてしまいそうに思ってしまった、まるでかぐや姫のように――そう言う祐の頬には、涙の跡があった。そして、思わず振り向き同じように祐を抱き締めた彼の頬にも、涙に濡れた跡が残っていた。
 祐が一人でどこにも行かないように、どこにも行けないようにときつく抱き締め返す。一人で冷たい現実の冬から立ち去って、美しい電子の春へ消えてしまわないように。桜の花びらに攫われてしまわないようにと、より強く抱き締める。そんな折、彼の肘が不意にキーを叩いた。するとモニターの中の『祐』は立ち止まり、モニターの前の振り返るように方向を変える。まるで前の二人を見守り、祝福するかのように、桜吹雪の中で笑みを浮かべながら立ち尽くして。


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