ホンの少しの魔法薬

 毎日忙しい国義さんでも、確かに良く考えてみれば土曜や日曜ならば家にいる事は多かったかもしれない。だがそれは比較的多いという程度の話で、あまりに忙しく頻繁に変わってしまう彼の予定は妻である私でも、いや仕事とは全く無関係な妻である私だからこそ、把握など到底出来なかったしする気も起きなかった。大好きな彼が時折私のそばに居てくれて、私に会うために国義さん自らで色々と予定を考えてくれる。それだけで充分幸せだったから。

 平凡な日曜らしくのんびり目を覚ますと、やはり既にベッドの隣は冷めてしまっていた。今日も国義さんは忙しく出勤してしまったのかと思い、まだ少し重い瞼をこすりながらリビングへ向かう。昼前のリビングにはいつも優しい日差しがカーテン越しに入り込み、今日も明かりが必要ないほど自然と光が入り込んでいるのだろうとリビングへの扉を開けたところ、私の予想に反してノートパソコンを真剣な顔付きで見つめる国義さんが優しい日差しに照らされていた。
 予想外の事に思わず驚きの声が出る。その声で私に気付いたのだろうが、だがノートパソコンから一瞬目を離してこちらを一瞥するだけで、彼が小さく相槌を打つ。
「今日は自宅でも出来る仕事を持ち帰っているから、当分居間で仕事をしているつもりだ。祐に構ってはやれないが、食事もこちらで適当に食べるから気にしないでくれ」
 僅かな間を置き口を開いたが、話した内容はそれだけだった。何故会社でせずに持ち帰ったのかが不思議で首を傾げていると、余程私の顔に疑問の色が出ていたのか、それとも私の全身から疑問の感情が滲み出ていたのか、やはりノートパソコンからは全く目を逸らさずに片手間ながら答えてくれた。
「バレンタインに会社へ居ては色々と面倒でな。私が出勤しなければ休日出勤を自主的にする者も減る。全く、あいつらは会社へ何をしに来ているんだか……」
 そう話しながらも視線はノートパソコンに向けられたままで、しなやかな指も休みなく動き続けている。

 国義さんの事は勿論大好きだし、例え構って貰えなくとも今日は一日中そばに居られるという予想外の出来事は嬉しくて堪らない。普段なら私もリビングでのんびり本でも読んで、素晴らしい日曜を過ごそうと考えるのだろうが、残念な事に今日は日曜でありながら2月14日なのだ。我が家のシステムキッチンはリビングから調理風景がよく見える。何を作っているのか、どんな作業をしているのかもリビングからは一目瞭然だ。実は私の今日の予定としては、国義さんにバレンタインのマフィンを作ろうと思っていたのだ。甘いものがさほど好きではない国義さん向けに、製菓材料の専門店で製菓用のピュアココアとコーヒー粉まで購入してきて何度か練習した、甘すぎないカフェモカマフィンを。だがこれでは作り始めから完成までを全て見られてしまって、どういうものが出てくるのかすぐばれてしまう。恐らく国義さんならそのような事を気にしないのだろうが、私には大いに気になってしまうし緊張して上手く作れる自信もない。そもそも食事は勝手にすると言っていたが、朝ごはんを食べた様子がどこにも見受けられない事も気がかりだった。
「あの、国義さん?朝ごはんは食べたの?」
「食事の事は勝手にすると言っただろう」
「でも、食べた様子もないし何か食べないと体に悪いよ」
「腹が空いたら勝手に食べるから気にしないでくれ。僕の事は気にせず祐も勝手に過ごせばいい」
 受け答えさえ面倒そうな様子で仕事の手を止めない。これはひょっとしたら、放って置けば一日中水すら口にしないのではないだろうか。

 仕方なく、リビングで仕事をする国義さんを横目に私一人分の朝食を作る。パンを卵液に漬け、その間にフライパンで野菜とウインナーを炒める。炒め物をプレートへ移したら卵液が染み込んだパンを焼き、焼き目をつけている間に牛乳をマグカップへ注ぐ。いつもの朝食だからこそ、滞りなく進めながらも色々と余計な考え事をしてしまう。国義さんにどうやって、どんなチョコを渡そうか、今の国義さんにはどんなチョコが喜んで貰えるか……。
 炒め物をのせたプレートにフレンチトーストを添え、牛乳を入れたマグカップと共にトレーへ乗せてリビングのテーブルに運ぶ。国義さんの向かい側にクッションを置いて座れば、普段はあまり見られない仕事中の彼を見ながら朝食を楽しめる。こちらを全く気にしていない様子の国義さんだが、その真剣な表情がとても愛おしくてつい眺めながら頬が緩んでしまう。
 朝食を食べる私の前には、相変わらず真剣な表情でノートパソコンに向かい合う国義さんがいる。真剣な表情ではあるのだが、表情をあまり表に出さない彼にしては色々な表情をしていた。悩む顔に集中する顔、自信に溢れる顔……どれも仕事をする為の顔なのだろうが、きっと普段もこんなに色々な顔をして仕事をしているのだと思うと、アルゴンソフトの社長付き秘書になれないかと考えてしまう。国義さんの事だから、私が少し勉強した程度じゃ足元にも及ばない優秀な秘書がいるのだろうが。

 ぼんやりと、アルゴンソフトの社長室で働く国義さんを想像してみる。書類をチェックして判子を押したりしているのだろうか、でもペーパーレス化の話をしていたので、そんなドラマに出てくるような仕事ではなくすべてパソコンの上で終わらせてしまうのかもしれない。そして、そんな国義さんに秘書がこっそりコーヒーを入れて持ってくるのだろう。そんな事を考えていると、会った事も話したこともない、むしろ本当にいるのかどうか、国義さん自身から話を聞いたことすらない、私の想像する彼の秘書に少し嫉妬してしまう。

 ふと思い立ち、既に片付いていたプレートとマグカップを乗せたトレーをキッチンに運ぶ。いつものように食後のカフェオレを飲むためのコーヒーを入れる。普段なら一人分だが、今日は国義さんの分も入れようと二人分で。まずはたっぷりの牛乳と砂糖を入れた、私がいつも飲んでいる甘いカフェオレを。そしてブラックコーヒーに少しのクリームとピュアココアパウダーを入れて、チョコの風味がするけれど甘いものが苦手な人でも飲めそうな程度の、ほんの僅かな甘さとチョコの風味が漂う特製カフェモカを一杯。
 リビングに戻り、カフェモカを国義さんの横に置く。甘いかも知れないけれど、国義さんにも入れたからと告げて。だがあまり意に介していないらしく、軽いお礼を言っただけで相変わらずノートパソコンだけを見ながら真剣な顔で仕事を続けている。私は先程と同じく向かいに座り、やはりそんな国義さんの表情を愛おしく見つめながらカフェオレをすする。普段は飲まないカフェモカを飲んでくれるだろうか?少し甘みがあるが、気に入ってもらえるだろうか?中にチョコが入っていることに、バレンタインのチョコだということに気がついて貰えるだろうか?そんな事を考えてつい自然と顔が緩んでしまっていた。
 ついに国義さんの手がカフェモカのカップに伸びる。カップを鼻先へ近づけた時、ふと眉を寄せ不思議そうな顔で私を見る。きっと今の私はいたずらの成功を見守る子供のような表情をしているに違いない。そんな私の表情を見て、国義さんの表情が緩んで柔らかな笑顔になる。まるで、子供のいたずらを見抜きながらも騙されてあげている優しい大人のような笑顔だ。そして、その笑顔のままカップに口付ける。
「……ああ、それほど甘くは無いのだな。クリームが入っている上チョコレートの香りがしたので、もっと甘ったるいのかと思ったが。この程度なら、疲れが取れていいかもしれない」
 思わずこちらも笑顔になり、彼の隣へ小さく駆け寄る。空いた方の手で私の頭を優しく撫でて、そっと額にキスをしてくれた。ありがとう、愛してるよ祐。そんな囁きと共に。
 
 今までバレンタインなんて浮かれたイベントには興味が無かったんだが、成程なかなか幸せな気分になるものなのだな。そう話しながらも手は止めず、パソコンでの作業は続けているようだ。器用だと関心もするが、仕事なら失敗などしては大変ではないだろうかとも心配になってしまう。やっと手が止まったかと思うと、私にパソコンの画面を向けてここはどうかと聞いてきた。言われた通りに画面を見ると、落ち着いてお洒落なフレンチレストランのバレンタイン当日プラン紹介ページが開けられていた。
「恐らく夕方前には作業を切り上げられるからね。この店ならまだ夜の予約が出来るようだし、うちから車で行けば余裕を持って向かえるだろう。どうだい?それとも好みじゃないか?」
 先程までの『アルゴンソフト社代表取締役門倉国義』とは打って変わった『私の旦那様』の国義さんが、少し恥ずかしそうに私の返事を待っている。私はといえば、突然だったのと嬉しすぎたので顔を真っ赤にして泣きそうになりながら抱きつくことしか出来なかった。
 ほんの少しのチョコレートが、こんなに幸せな恋の魔法薬になってしまうなんて。


9/11

*prevnext#
Back to Contents
しおりを挟む



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -