記号化

 彼女が彼の名を呼んで微笑む。今はもう誰も呼ばない、彼の名を呼んで彼女が笑う。
 週刊誌が、経済誌が、新聞が、昼のニュースが、こぞって彼の名をあげる。時代の寵児と称える。称賛の中で記号と化した彼の名を、まだうら若い彼女だけが人の名として声に出す。柔らかく口から紡がれる彼の名は、まだ記号化していない彼を現そうとする言霊だった。

「国義さん」
 少し困った顔をして、祐が門倉国義の名を呼ぶ。順風満帆だからこそ変な輩に絡まれる門倉の事業が、祐を苦しめてはいるのかもしれない。不安な顔で祐の顔を覗き込んだ門倉の顔が、歪んで止まる。
「別れましょう、国義さん。私と国義さんじゃ、住む世界が違ったの」
 門倉の時間も、祐の時間も、ただ簡素な一言で止まる。どちらかが息を飲む。片方が泣く。誰かが叫ぶ。疑問が飛び交う。ただ、不思議な程に静かに、幕を降ろす。
 何もなかった。愛なんてなかった。これは永遠の愛だった。静かに、幕が降りた。
 日々、奇病に犯される人々が増える天海市で、一人の女性が行方不明になった事など誰も噂すらしなかった。茜台の暴動に巻き込まれたのかもしれない。高速道路の幽霊に取り憑かれたのかもしれない。誰も、記憶に残さない。

「大丈夫だよ、祐。心配しただろう? アルゴン本社が異界化したと聞いて、祐が泣いてないか不安だったんだ。きっと、僕を心配してしまうんだろうなって」
 彼の前には、腕に収まる程度の丸い何かが抱き締められている。まるで、マネキンの首のような『それ』は、生きた人間のように穏やかな笑みを浮かべて瞼を閉じている。
「嬉しいだろう、幸せだろう? もうすぐ、あの邪魔な桜井どもも片が付く。その次はファントムだ。そうすれば、僕と祐だけの世界だ。楽しみだね、宇宙はどんなところなんだろうね。こんな醜い人類より、素晴らしい生命体が沢山いるんだろうね! そうすれば、祐もきっとあんな事を二度と……あんな、あ、あぁぁああ、あぁっ!
 ……祐、僕に何か言ったかい?」


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