第一話 憧れから踏み出して 4月28日

 仕事を当初の予定より早いペースで進めた結果、明日から数日は僕がいなくとも計画には影響がなさそうだ。後は明日の午前に最終確認、及び業務の引継ぎを行う程度だと、頭の中で明日の予定をシミュレートする。だが、ふと仕事以外の事で懸念すべき点が二つあると気付いた。

 まず懸念したのは、祐は一人で旅行の準備が出来ているのだろうかという点だ。別に祐を馬鹿にしているつもりはないのだが、妙に不安になった。知り合う以前の事はわからないから置いておくが、知り合った直後も、付き合っている時も、結婚をした後も、一応人並みにはしっかりしていると評価はしていた。勿論さほど世間知らずとも思ってはいない。だが、二人で何かをする時は、僕を頼っているように思えて色々と気にかけてしまう。最も、単なる『祐に頼られたい』という僕の願望から来る考えなのかもしれないが。そしてもう一点は、以前から気がかりではあった。だが、この新婚旅行を機に二人で考えるべき問題点だと、僕は確信していた。
 
 珍しく残業もない定時での帰宅を、祐が満面の笑顔で出迎えてくれる。いつもなら「ただいま」とでも言うべき場面なのだろうが、思わず旅行の荷物に関する疑問が口をついて出てしまった。
「うん、今回は着替えや携帯、財布だけでいいんでしょう? 私と社長の分、両方でもバッグに充分入ったよ。旅館にアメニティは一通り揃ってるって社長から聞いてたし、それなら荷造りはバッチリだよ! 私一人でも持てちゃうくらいの量で、驚いちゃった」
 あっけらかんとした笑顔で祐が答える。とりあえず懸念していた一点は大丈夫なようだ。しかし、どうやらもう一点は、とても根が深い問題のようだと、今の祐の言葉で再び確信せざるを得なかった。
「社長?何かあったの? 着替えや貴重品以外に持っていくべきものってあったっけ? 」
 不安げな表情で祐が僕の顔を覗き込む。この様子だと、祐は自分自身では全く気がついていないのだろう。
「……祐、僕達の関係はなんだ? 言ってみなさい? 」
 突然の質問に祐が顔を真っ赤にして伏せる。確かに顔を伏せることで僕からは表情が隠れることになったが、耳やうなじが真っ赤になっているのは十分な程見て取れた。
「少なくとも僕が知る限りでは、祐は僕の会社で、アルゴンソフトで働いていた事はないはずだ。確かに僕は天海市民にとってはアルゴンソフトの門倉社長という存在なのだろうが。でも、祐にとってはそうじゃないだろう? 僕は祐にとって何だ? 」
 困り果てて泣き出しそうな表情をして真っ赤になった顔を上げ、祐は必死に何かを僕に訴えようとしている。だが今は口をパクパクさせるのが精一杯で、何も言葉に出来ないようだ。
「僕は祐にとって何者なんだ? 答えられないのか? 」
 別に苛めたい訳でも、祐の愛情を疑っている訳でもなく、ごく当たり前の事を、祐の口から聞きたいだけだったのだが……段々とその泣きそうな顔が可愛らしくも思え、追い討ちをかけてしまう。消え入りそうな小さい声で祐がやっと答える。
「しゃ、しゃちょーは、わたしの……わたしの、その、大切な、だんな……さま、です。大好きな、おっとです」
「なら、何故『社長』などと呼ぶんだ?夫婦ならいい加減僕を名前で呼んだらどうだ? 」
 小さな子が親にすがるように、子犬が飼い主に捨てられまいとするように、祐が顔を真っ赤にしながら僕にすがって泣き出す。これは想像以上に重症たったのかもしれない。
「ご、ごめんなさい! だ、だって、恥ずかしくて。あの、急に変えられなくて。だって、しゃちょーは、その……! 」
「僕の名前は国義だが?」
 我ながらもう少し言い方はなかったのだろうか。流石にこの言い方は苛めが過ぎる気もしたが、僕はせめて祐の前だけでは『門倉国義』でいたかった。天海市を裏で牛耳る『アルゴンソフト代表取締役』ではなく、一組の平凡な新婚夫婦として。
「だ、だって、しゃ……く、くに、よしさんは……。わ、わたしの、えっと……」
「僕は、何だと言いたいんだ? 」
 もう喋る事も出来なくなったのか、顔を僕の胸に埋めて祐が泣き始めた。泣かせたのは僕自身なのだが、泣いている理由を考えるとこの状況すら堪らなく愛おしい。僕は祐が何故僕を『社長』と呼ぶのかも知っていたし、何故『国義』と名で呼べないのかも知っていた。祐から説明されなくても全て分かっていた。だがその理由を、説明を、僕の名を祐の口から聞きたいという思いが勝ってしまったのだが……これ以上は流石に可哀想だろうか。
 
 夫婦と言うよりはまるで親子のように優しく抱きしめる。そして、真っ赤になって泣いている祐の耳元に口を近づけ、落ち着いた口調で優しく囁いた。
「大丈夫だ、分かっているから。決して祐の愛情を疑っている訳ではないんだ。でも、僕はもう祐の単なる憧れの対象じゃないだろう? 手の届かないテレビの向こうの、アルゴンソフト社長じゃないんだろう? もっと身近な存在になれたのだろう? 僕は祐に家族として、夫として扱われたいんだ。少しずつで構わない、明日からの新婚旅行で、そしてそれが終わってからも、僕を名前で呼んではくれないか? 」
 分かってくれたのか落ち着いたのか、少しずつ泣き止んでいく。泣き止み、暫くの間を置いて、やっと祐が顔を上げて口を開く。
 「その、今までごめんなさい。本当に少しずつだけど、これから頑張るからね……えっと、く、国義、さん……! 」
 「……ああ、そうだ。それでいい」
 僕の名を口にした瞬間に、祐は折角の可愛い顔を真っ赤にして伏せてしまった。だが何も慌てる事はない、明日からは四日間もずっと二人だけでいられるのだから。少しずつ、祐の中でやっと生まれた『門倉国義』という家族に、じっくりと四日間を費やして、ゆっくりと、心だけでもずっと傍にいられるように、慣れていけばいいのだから。


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