その身に滾る炎を、想うままに迸らせて、沈下する余韻にふたりで身を任せた。
シーツに顔を伏せている僕を、もう一度と、誘う手。
本当はそのまま強引に奪ってゆくくせに、僕に抗うことなどさせないくせに。
あまい口付けに溶けて、二人だけで閉じこもる。
僕はそっと静かに、包み込む彼の手の平に縋るだけ。
ただ優しさだけを探して、密やかに息をするだけ。
恐らくそれだけで僕は生きていけるだろう。



ラ・ヴァリテ




麗らかな午後の陽射しが降り注ぐ中、弛むような静寂が集う場所。
穏やかに日溜まりができるこの古びた蔵書室は、静謐な空気に包まれている。

「…太一」

明るく、それでも周囲を気づかって潜められた声が、太一の耳に届いた。
視線を向けていた書棚から、顔をそらして声のした方を探すと、軽やかな足取りとともに南健太郎が歩いてくる。

「部長、」

太一は、自然と笑みを含ませた声で彼を迎えた。

「こら、もう俺は部長じゃないよ、ちなみに幹事長でもない」
「あ、」
「やっと肩の荷が下りたとこなんだ」

思い出させないでくれと苦く微笑んでから、南は太一の頭をいつものように撫ぜる。
それから太一が取ろうとしていた分厚い本を書棚から取って渡してやった。

「ありがとうございます、南先輩…でも僕にとって先輩はずうっと部長なんですよ」
「…ま、いいさ、お前を甘やかす口実になるしな」
「ふふ、」
「……亜久津には言うなよ、暴力沙汰は俺の内定をいっぺんで吹き飛ばすからな」
「はあ、」
「それになにより五体満足でいたい」
「ううーん…大丈夫だと思いますけど、でもどうしてです?」

先輩だって本当は喧嘩強いんでしょう、僕知ってますよと太一が揶揄混じりに囁くと南はついに頭を抱えてしまった。
いかにも、そろそろかなりの年季を持つ太一の情報網はなかなか侮れないのだと南はこんな時に思い知る。
そもそも南に多少の覚えがなければあの名高い悪童を始め、橙色のミスタートラブル共々纏め上げることなどできなかっただろう。
さすがに大学に至ってはそこまで大袈裟ではないが、規模は大きいがゆえに彼らの母校は中高共に品行が宜しくない生徒を少々内包していた。

「ついに俺は中高大一貫してあいつ等のお守をする運命から逃れられなかったよ…」

果たして内部進学したのは間違いだっただろうかと恨めし気に数々の悪夢を思い返して南は天井を仰いだ。

「……だからせめて卒業前ぐらい静かに暮らしたい」
「…はい、秘密ですね」

堪えきれないというように太一は肩を震わせながら南の憔悴した顔から目をそらす。
ひどく重苦しい溜息を吐いてから、南は一つ頭を振った。

「…ああ、取ってやる必要もなかったな」
「はい?」
「いや、随分お前は背が伸びたから、…あんなに小さかったのにな、」

お前でも取れる位置にあったと南が本を指差すと、得心したように太一は静かに微笑んだ。
思えば太一が十三歳、南が十五歳の時からの付き合いで、初め太一は南の胸元ぐらいにしか背がなかったように思う。
南も彼らの友人達も皆、幼く本当に何もかもが子供でいられた時期だった。
中でも太一は、むやみやたらに人懐こい子犬のような印象だけが色濃く残るほど特に素直で幼げだった。

「それって中学生の時のことでしょう、もう、僕はお酒だって飲める歳になったんですよ」
「童顔だから未だに居酒屋で確認受けたりするんじゃないか?」
「…まあ、でもそんなに僕って子供っぽく見えますかねえ」
「若く見えるってことだよ、それにビールも飲めないだろうに」
「あの苦いのはどうにも…」

甘ったるいカクテル以外はどうにも苦手だと首を振る後輩を、再び南は自然に手を伸ばして撫ぜる。
彼らが親密に関わってきた7年間のうちに、南が太一に手を貸す時期はとうに過ぎ去った。
今では南は少年から青年になったし、太一にいたっては特に顕著だった少女と見紛うようなあどけなさはとっくに薄れていた。
己たちは子供じみた不安定さなど、とうの昔に無くしてきたのだと南自身がよく知っている。
それでも、この変わらず細く見える手を引いてやりたい感覚は、南の中からたやすく抜け落ちてはくれないようだった。
相変わらず繊細そうに見える太一の痩身を見止めながら、これは彼の成長を喜ぶ心と相反するだろうかと南はそっと自嘲した。

「太一、…なるべく、ゆっくり大きくなれよ」
「ええ、でももうそんなに伸びないかもしれません」
「まあな、でも充分だろう、…いや、悪い意味じゃなくな、」
「?…僕、本当は175センチは欲しいんですけどね、」
「確か身長は23歳ぐらいまで伸びるっていうよな」
「はい、あとちょっとですよ」

牛乳は偉大だと白皙の少年だった彼が朗らかに囁く。
南は釣られるように大きくうなずいてみせた。

「…そういえば、亜久津を2号館の講堂で見かけたんだが、」

言葉尻を言い終える前に、南は背を向けていた蔵書室の入り口の方の本棚を見回している。
補講も残り少ないこの時期に亜久津が学内にいること自体珍しいと南は思ったが、太一がいるなら話は別だった。
留学から帰還して日が浅ければなおさらのこと。

「たぶんあいつのことだからお前と一緒に居るかと思ったんだが、」
「ええ…でも亜久津先輩が僕の史料編纂の課題につきあって下さるとは、…あー…かぎりませんし、」
「そうか?…手伝うどころか適当にコピペでもして自分と一緒に帰りやがれとか言うだろうに」

不思議そうに首をかしげた南に、太一は書棚に顔を向けたまま誤魔化すように笑う。

「ええ、まあ、…10回に1回くらいは僕もそういう気分になるかもしれませんけど、今日は違います」
「…お前は振り回してるんだか、振り回されてるんだか、」
「きっとお互い同じくらいなんですよ」
「いや、太一、アイツはどうにも言葉足らずで荒っぽいしなあ、まあ悪い奴ではない…いや、やっぱり悪い奴かな、教授を脅しつけて単位取ったとか、この前立海大の誰かさんとひと悶着あったとか、ラケットを握ったら砕けたとか、」
「もう、それは随分とお鰭のついちゃった噂です、先輩もご存じでしょうに」

訥々と最もらしく言いたい放題に語り出した南に、太一は思いがけず吹き出してしまう。
お互いをよくよく知り尽くしている故のこの気安さと親愛が酷く心地よくて大切すぎて手放せない。
僕は万事大丈夫ですよと太一が満面の笑みを浮かべると、南は肩をすくめた。
ふと、太一が視線を向け続けている書棚が気になったのか、

「太一、なにかそこに探してた文献でもあるのか?」

そう言いながら、太一が見ている高い位置にある棚を見上げる。
そこには太一がさきほど手にした分厚い史料があった位置だけぽかりと隙間が空いていた。
南の言葉に、太一は軽く目を見開いて、

「…ええ、…でももう見つけたから良いんです、ありがとうございます、南先輩」

古い紙の匂いに隠れた奥から2番目の書棚に、太一はゆるりと視線を向けながら微笑んだ。





静かな空間に足音の余韻を残して、穏やかな笑みとともに立ち去った彼の姿が完全に見えなくなる。
目の前の書棚の裏側から、密やかな舌打ちを聞いて太一は笑いながら呟いた。

「なにかやましいことでもあって隠れてるんですか、亜久津先輩」
「……お前も南に黙ってただろうが」
「はい、では同罪ですね」

さきほどは存在に気付いていながらも南に言いたい放題言わせていたくせに。
あっけらかんと太一が囁いたのを見て、亜久津はもう一度小さく舌打ちとため息を吐き捨てた。
薄暗い照明の下、書棚を挟んだ向こう側、太一と亜久津とが同じ場所で抜き取った本の隙間の秘密。
視線を絡ませたまま、秘められた視線だけの会話、罪のないふたりだけの内緒話だった。

「もう少し、待っていてくださるみたいですね、」

隙間から見える亜久津の左目が太一をとらえたまま穏やかに細められて、太一ももう一度微笑った。



2010/10/25

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