泥の沼だ、ここは生ぬるい沼地だ。
流れるように歩く群衆が泥砂にしか見えない。
亜久津はそう思いながら、待ち合わせ場所に佇む彼の手首を掴んで足早に歩きだした。
未だに少年の面影が抜けないと歯噛みしたくなるような繊細な体は誰よりも鮮明で健やかだ。
細身のスーツの下、亜久津と比べてしまえばどうしようもなく彼は細くて頼りなくて、その上暗闇の中でさえ光沢を残すように白い。
まろい頬の薄ら紅、幼気な瞳、彼だけがこの澱んだ沼底に沈まずに一筋の穢れすら残させない。
舌打ちを零して、亜久津は余裕を持って握りこめてしまえる彼の手首を引いて、締め付ける。

「ぁ、」
「駄目だ」

許さないと言外に告げれば、彼はそっと目を伏せて今日も同じ言葉を零した。

「…はい」

ようやく彼の手首から力を抜いてやると、ほっとしたように肩を震わせるのが分かった。
はやくはやくと急くのを噛み殺しながら、亜久津は冷えた街をすり抜け、車に滑り込む。
直ぐ様アクセルを踏み込み駆ける車窓を騒々しいネオンが過ぎ去って、助手席では項を照り映えさせた彼が甘そうな吐息を隠して亜久津を見やった。
懸け合わせた視線の先で彼はそっと微笑んで己を拒まずそこに居続ける。
それが当然の事だと飲み込めば亜久津の腹は充ちた。
心髄を犇く背徳感、そして罪を掻き集めても凌駕する悦楽、途方も無く昂った欲が満たされる、彼の細い手首に残る赤い痕。
そしてこうしてしまえばそれを撫ぜる口実すらも出来るのだと亜久津の内側が笑った。
触れた柔い頬に滑る亜久津の掌は何時も、彼の意識を残酷な優しさで攫う為にある。




「……手首に、」

溜息にほんの少しの憐憫、そしてそこには多少の侮蔑も懐疑も、嫌悪すら綯い交ぜてある癖に冷たくはなり切れない。
真摯に己を見つめる目の前の男、己にとって友人であり続けようとするこの男のことを亜久津はよく知っていた。

「また同じものが、」
「何が言いたい」
「…どうしてそんなことをする」
「俺があいつに手をあげたと?」
「そうは思わない」

それはそうだろうなと亜久津は灰皿に煙草を押しつぶして薄く笑った。
己が抱くものが、殴打して満たされる程瑣末で稚拙な情念で片付くはずがない。
始めからそんなもので足りる訳がないのだ。
それが真理だと、亜久津も眼前の男も実に良く理解している。

「なら、…どうして手首の痣が治らないのか、」
「南」

治る前につけるからだと分かり切ったことをまた言い募るのを遮って、亜久津は立ち上がった。




「ハア…」

冷めきったコーヒーの前に取り残された男が絞り出すように溜息を吐く。
彼の視線の先には、こちらを一瞥も振り返らずに街を縫って去ってゆく亜久津の後ろ姿が辛うじて映っただけだった。

「…嗚呼」

吐き出した哀切がどうにも南の頭を重くする。
今や太一が変わらぬ明朗さでいることだけが南を安堵させる数少ない材料だ。
亜久津に会う前に電話で話した彼は、今日も穏やかに南と他愛の無い話をしていた。

「やあ、南」
「…っ、千石、お前」
「どうして遅れたかって?…文句なら上司に頼むよ、嗚呼、…亜久津は、」
「帰った」
「だろうねぇ、わかるさ、まったくアイツはせっかちでしかも石みたいに無口で困る、…いつも」
「へらへらしてんなよ、」
「南が深刻な分バランス取れるだろ」
「ああ、ったく」

溜息を吐きかけてやりたいと南が胡乱気に目を眇めても千石は気にした素振りも見せない。
へらりと人好きのする笑顔で目の前の椅子に座り込んだ彼は、不思議と憎めない奴だ。
容易く言ってのける口さがない彼の笑顔だけは少年と見紛ってしまえる。

「南、東方が温泉行きたいってぼやいてたよー」
「あー…そうだなあ」
「またみんなで行こうよ、スキーでもしに行くついでにさあ」
「ゲレンデで修羅場は御免だぞ…鼻血で染まった雪はもう見たくない」
「何年前のこと言ってんのさ!」

もう大学生じゃないんだからと噴きだした千石に南はまた少し思い知る。
彼らが出会ってから積み重ね過ぎ去った年月は確実に彼らを大人に変えてきた。
変わらないのは未だに彼らが誰よりも近しく親密で居続けようとしていることだけだ。
俺達はいつもそうだった、まだ幼かった時分から自分達は誰よりも密接でいた。
そうして生きてきたはずなのに、いつの頃からかあの二人は二人だけの歴史を重ねはじめた。
そして俺達すら入り込めぬ世界が少しずつ築かれていった。
それをごく近くで見てきたことを、南はよく覚えている。

「南、壇君は弱くないさ」
「…分かってる」

弱くはない、脆くもないがしかし、あの子が強い人間であると断言はできない。
否、そうであって欲しくないのだと南は苦く笑う。
己たちが入り込み見定められる世界に、手の届くところに彼らと共に居たいと南は望んでいる。
そうは見えなくとも太一はすでに庇護を要しない成人なのだと南は幾度も自分に言い聞かせてきた。
それでもどうしようもなく、南には太一の無垢さだけが色濃く映る。
言葉に出したことは無いが、南にとってやはり太一はいつまでも擁したい存在だった。
それを察してか、君は誰よりも彼らを理解して守ろうとする、兄貴は苦労するねと千石が笑いながら言う。

「お前らみたいな兄弟は絶対にいらん、…太一を除いてな」
「ブラザー、心配性だなあ」
「…お前が言えたことか」
「んー…」

コイツも無論その一人であると自分でも分かっているくせに、白々しい奴だと南はまた心労のために眉間の皺を寄せた。
それでもなお、自分達が誠実に二人の友人であり続けようとすることも、亜久津が己たちには許容する隙を垣間見せていることも、彼らの年月が積み重なる長い間、どちらも覆すことができないでいる。

「俺たちは、アイツらの手を離したりなんかしないだろ、南」

そんな事出来やしないんだ、穏やかにそう言った千石の眼差しは誰よりも強く真摯に映った。




一度赦されたならばそれはその瞬間から彼らの日常となる。
平穏な生活の一部と化す。
そして受け入れられ続ければそれがどこまでなのか知りたくなる。
亜久津はすべて承知で要求をエスカレートさせる。

「太一、」
「はあい、えーと、南先輩とお昼の時に電話しましたよ、おいしいお寿司屋さんを見つけたんだそうです、でも先輩は胃痛持ちだから今度人間ドック行くらしくて…僕もついていこうかなあ、あ!あと千石先輩がスキーと温泉に行きましょうってさっきお誘いのメール着てましたよ」
「…うぜぇな」
「また先輩たちのスノーボード対決見られそうですね」

くすりと笑いながら太一がそう言えば、亜久津は舌打ちを零してスケジュールを思い浮かべた。
一日で一体誰とどんなコンタクトを取ったか告げることなどすでに定例事項で、太一は亜久津の質問の前に全て言ってのける。
亜久津は己を一日中拘束できないのだからそれぐらいの事構わない、以前そのことを聞いて苦い顔をした南に太一はそう笑って告げていた。
内情を知り得ぬ端から見れば歪み異質な亜久津の束縛等、太一の中ですでに有り触れた日常に摺り変わっている。
拒まれれば引き下がる用意があってなお亜久津はどこまでも踏み込むだろう。

「亜久津先輩、二箱目でしょう、それ」
「ああ?」
「だーめですよう、今日はそれで最後にしてくださいね」
「…チッ」

それでも太一はぎりぎりのラインだけは踏み越えないように一線の崖で踏みとどまっている。
太一という人間は決して脆弱なだけの子供ではない。
それは亜久津も、南たちも皆よく知っている。
彼と亜久津にとって大切な周囲の人間のため、己たちのことを思いやる友人達のため、そして何よりも亜久津のために太一は決定的な一点から先を拒む。
亜久津を押し止めることができるのは太一を除いて他に居なかった。
亜久津という男は太一が否と言えばそれを飲み込むからだ。

「おい、」
「はあい」

言葉もなく引き寄せられる傲慢な腕に太一は抗ったりなどしない。
亜久津が求めるがままに差し出しながら太一は微笑んだ。
太一は亜久津をいつまでも赦し続けてきた。
そして亜久津は尚貪婪に求め続ける。
時を重ねて全てが深く重く苛烈になる。
それはとうに、常人とはかけ離れたところにまで至った。
誰にも気取らせないような緻密さを以って、薄暗い異常さで構築された世界。
たった二人で住むその場所を、亜久津は誰よりも深く自覚している。

「せんぱい、」

ずっとしたいことがある、気が狂いそうな程おぞましい欲望がある。
亜久津は己の中身をよく知りながら、そっとそれを求め続けている。
そして太一はそれを優しく拒み続けている。
甘く、そして突いたら崩れ落ちそうな砂糖細工のように、繊細な色を映す太一の声。
もし、もし彼が失うものなど何もなくなった時、その時彼は深淵の淵をのぞきこむだろうか。
そうすれば二人とも沼の底へ迷いなく飛びこめる。
それを考えるとぞわりと腹の底から亜久津は疼く。

「…全て忘れろ、捨てちまえよ、何も残すな」
「…いいえ、僕はできません、」
「…」
「…できないんです」

抱き潰すような強さ、締め付ける亜久津の腕はいつもと同じで変わらない。
そして太一は困ったように微笑んで、今日もひそひそと拒絶を囁いた。
そうすれば亜久津は陰鬱そうに目を眇めて低く歯噛み引き下がる。
太一はどこまでも優しく穏やかに、亜久津の掌に触れた。

「…先輩、どうか、…僕を世界から切り離さないでください」

己を決して世界から隔離させない、それが太一の決めた最後の砦。
亜久津を世界にとどめておくために太一はそこで立ち止まる。
それは決して彼自身のためだけではない。
もし太一が、彼自身のためだけに生きることができるならば、己を世界から隔絶したいと求める亜久津を拒んだりはしない。
彼はたったひとつ、はいと肯いて、亜久津だけが存在する世界に仕舞い込まれるだろう。
亜久津を拒むことがどれほどの呵責なのかは本人にしかわからない。
それでも太一の生きて培った精神は甘く健やかで優しかった。
己を取り巻くさまざまな人々と築いてきた幾多の親愛に掛け替えのない多くの存在、そして誰よりも恋しくてくるおしい亜久津への愛慕、どちらもどうしようもなく太一の大切で愛おしい世界。
失えぬものがたくさんあった。
この先もおそらくずっと、どちらかひとつを踏み砕き切り捨てる残忍さを、太一は持ち得ない。
潔白でやさしく、そして良識的な世界で生きている太一にはどこまでも、亜久津の昏闇のような深淵からは遠かった。

「先輩」

掬い上げるような声色、伸ばし与える身体、ならば余さず奪い取ってなにが悪いだろう。
衒いなくそう考える亜久津は元来、他者への興味も関心も薄い。
要らぬと思えば非情に切り伏せられたし、必要ならばそれだけ他人を御し得る才がある。
だからこそ只全て貪婪に、両眼に捉えたたった一人に精神の一切を向かわせて生きられる。
あまりにも偏狭だからこそ、外側からでは狂気の片鱗すら見えやしない。
亜久津は粗暴に振舞うが、それを補って余りあるほど冷徹に生きるのが上手いからだ。

「僕はずっと先輩のそばに居ますよ」
「ああ」

ぶっきらぼうに声を吐き出して、亜久津は太一の髪を撫ぜる。
それは確かに幸せなことだった。
かき消えそうに微笑みながら、太一は裂かれるような痛みを抑えて今日も己に拷問を課す。
いつだって彼は安寧な世界と、亜久津への愛慕との狭間で引き裂かれている。
想像をたやすく絶せられる痛みがそこにあった。
己が毎夜繰り返されるこの要求に添えば、亜久津の何よりも欲しいものを差し出してしまえば、そこで亜久津の世界は死ぬ。その他の一切を放り捨てる。
もろともに。
たった二人で閉じ込もる世界の甘美に一度浸されたならば、抗うことなく溺れ死ぬ。
太一は亜久津を愛している。己自身よりもなお深く。
だからこそ彼はどんな苦痛に苛まれようともたった一つの首肯ができなかった。

「これは?」
「南先輩が、くださったんです」

真新しい湿布が太一の細い手首を広く覆っている。
太一はそれをするりと撫ぜて、己を見下ろす亜久津の腕の内側で伺うように見上げた。

「剥がせ」
「…はい」

太一がそれを剥がすよりも早く、亜久津は太一の是を聞いた瞬間にそれを取り去った。
太一の繊細そうな白い肌に亜久津の指跡が赤黒く這っている。
もうこの色が沈着してしまいそうだと太一は胸の中で呟いた。
そうすれば少しは亜久津の気が慰められるのだろうと太一は知っている。
しかし同時に己に掠り傷すら残ることも彼は赦したくないだろうとぼんやりとした意識の片隅で考えた。
終わらぬ矛盾、沈まぬ欲望は細胞にまで染み渡った本能に似ている。
亜久津がスツールの上の袋を引き寄せていつの間に買い求めてきたのか新しい湿布を取りだした。
それに覆われるために手首を差し出してから、太一は亜久津の鋭利な目を見つめて歌うように言った。

「僕は先輩が好きです」
「そうかよ」

当然知っていると亜久津が返せば、太一はそっと目を伏せて、それでも晴れやかに微笑った。














2010/10/25→main