リハビリlog 「ホーム」 惰性で流しているニュース番組が、か細く耳を掠めていく。 低く唸るストーブを横目に、その後ろで揺れたカーテンを手の平で少しなぞった。 カーテンは落ち着いたスプレイグリーンで、やさしい淡さがこの部屋に馴染んでいて今ではとても気に入っている。 僕が買おうと思っていたものとは、全然違うのに。 彼と二人の家を決めたあと、郊外まで出向いて向かったインテリアショップの広い店内、買い込んだ数々をカートに乗せて、最後に目指したカーテンのディスプレイ。 何十枚と翻るドレープの回廊で、目の覚めるようなセルリアンブルーを、僕は一番に指をさした。 あれがいいんじゃないですか きれいないろですよ 晴れた空色よりもずっと鮮やかで あちこちに足を運んで飽かずに食器一枚でも時間をかける僕の真後ろで、ずっと彼は黙したままでいた。 好きなものにすればいいと、何の感慨も無いようにしていた彼が、ただひとつ否と発したのは、その青を僕が示した時だけだった。 冷たくて鋭い色はお前に合わないだろうと、彼はそう判じた。 彼の中で僕はどうやって生きているのか、ずっとわからなかったのに。 ぜんぶがそこに詰まっている気がして、そのとき僕は息を止めて彼を見ていた。 「クロゼットに釘を打った話」 眼を開けなければよかった。 亜久津は即座にそう思った。 先程まで眼前に広がっていたその景色は、亜久津の頭の中に鮮やかに蘇る。 本来とは多少歪にずれた出来のいい本能の棲処、亜久津の脳内は俊敏で、今日も正しく異常だった。 もう少し、堪能してからでも遅くはない。 そうして彼は眼を閉じた。 鈍い色をしたアスファルトの上で、亜久津は独りで帰り道を辿っていた。 曇天の下で悴むような寒さが這い上り、足先は急いて前へ進んでいく。 「…なあ、亜久津」 「!」 唐突に名を呼ばれて、亜久津は眼を見開いた。 いつの間にか、一人の男が亜久津の右隣で並び歩いていた。 「南、…お前いつからそこにいた」 「ずっと前からだよ」 「……」 「なあ亜久津、…聞きたい事があるんだ」 「…あ?」 「……」 「…」 「…分かってるだろ?」 「何がだ」 怪訝そうに眼を眇めた亜久津を見て、妙に言葉を詰まらせながら南はそっと空を仰いだ。 眉を顰めて、重く息を吐いて、それから彼は亜久津を困ったように見つめる。 思えばいつも、この男はこんな顔をして己を見つめるのだ。 困惑と疑念、諦観そして僅かに嫌悪をも孕んだ視線、しかしそこに畏怖は無い。 そこにある朋輩に向ける感情を、亜久津は振り払っても、踏みにじることはしなかった。 干渉せずに立ち去れるならば、否応がなく遮断できるならばと、その努力をしたこともあった。 それが相違なく無駄だと互いに知っていても尚。 それからしばらく、南は言葉を無くしたかの押し黙り、一瞬訝しみながらもすぐに興味を失った亜久津も黙したままでいた。 二人は並んで只歩き続けた。 「やあ!」 突然左から、声が飛んで来た。 視線を向けると、その先に人好きのする緩い笑みを浮かべた男がいる。 明朗に何かを推し進めるその身勝手さが不思議と遠心力を持っている、よく知っている男だ。 軽快な足運びで明るく橙色を揺らしながら、その男は駆け寄って来て当然のように亜久津の隣に並んだ。 「千石」 「うーん、さむいねえ、この絵面」 「…面白がって見てたな」 「はは、南、するどい」 何処か噛み合わぬ会話の一端であっても、瑕疵なく通じ合ってしまうほど思考を見通せる。 ともにいた年月が濃く長いことを、全員が須らく知っていた。 明るく世間話を続ける左隣の男の締まりのない笑顔から亜久津は視線を前方に戻した。 「それにしても最近寒いねえ、明け方の冷え込みっぷりったらナイよ」 「千石お前ちょっと黙ってろ」 「なんで?」 「話が進まんからだ!」 「あーはいはい、……ね、もういいよね、亜久津!」 明朗さを失わずに、いつものように口角を引き上げて明るい髪をいじくりながら、千石が唐突に声を大きくした。 がらりと、言葉に重みを乗せて、千石は笑っている。 「あ?」 「たまに、見せてくれよ、…そうしたらいいさ」 「……」 南と千石が、亜久津の歩みを断つように前に回りこんで、足を止めた。 アスファルトを這う冷たい空気、その中で確かに臆することなく彼らは亜久津を見ている。 まっすぐに見据える二対の目を、不慣れな者なら一瞬で蒼褪めるほどの眼光を以て、亜久津は睨みつけた。 一瞬だけ逡巡して、南はそれでも亜久津を見返した。 怯えなど微塵も見せずに、そしてまっすぐに笑って千石は亜久津を見据えている。 「意味がわからねえ、…そこをどけ」 「見せてくれ」 「どけ、俺は帰る」 「開けて欲しいんだよ、あっくん」 「…」 「…なあ亜久津」 「時々でもいいからさ」 ため息を押し殺して、困ったような諦念を滲ませてなお南は求めた。 千石はへらりと微笑んで、時々でもいいと言い含める。 意味のわからぬ問答に、亜久津はいよいよ苛立ちを募らせて、二人を押しのけて前へ足を進めた。 「亜久津!…お前は、…」 引きとめようとする腕を乱雑に振り払いながら、亜久津は足を止めなかった。 さも遠慮がちに言葉を濁しながらも、遂にはあの南が、お前は幾分気が触れているとまで言い募る。 そんな事は亜久津にも重々承知の上だということも知りながら。 千石は、その笑みを消した。 二人とも追っては来ないようだった。 それでも声だけが亜久津の背にぶつかって響く。 「わかってるはずだ、亜久津!」 千石が叫んだ。 「おはようございますっ、先輩!」 「………オイコラ」 ばさりと派手に毛布を跳ね除けて起き上がろうとして、亜久津はそれを断念した。 なぜなら腹の上で太一が満面の笑みを浮かべているからだ。 起きた亜久津を嬉しそうに見つめながら、あちらこちらに飛び跳ねている寝癖もそのままに、太一は亜久津の鼻先に唇をくっつけた。 「どけ」 「えー…やぁですよお」 一気に引き上げられた現実の中、太陽はすでに高くて、太一は亜久津の腹の真ん中に陣取っている。 全て夢だったことが寝起きの頭にしみこんで、亜久津は纏わりつく夢の名残を振り払うために頭を振った。 「おい、いい加減退け」 「ふふ、先輩」 退かないですよ、そう言ってけらけらと笑っている太一の眦は穏やかに垂れていて、起き上がれれば、きっとそこに亜久津は口付けてみただろう。 ぐらんぐらんと揺らぐ思考のもやから脱した亜久津は妙に頑是無い太一の振る舞いに眉をひそめた。 「何がしてえんだ、お前」 「…ん、僕の愛で圧死してください」 太一の柔い髪をそっとなでまわして亜久津は溜息とともにわらった。 亜久津の身体を崩すにはあまりにも頼りない重さだったからだ。 「……先輩、なんで笑うんですか?」 きょとんとしてみせる太一の瞳が、その瞼をすり抜けてきてしまいそうなほど大きい。 それから堰を切ったように無邪気に笑った太一の腕をつかんで、そっと引けば、彼は案の定簡単に亜久津の横に寝そべった。 少し不格好に腰をひねって寝返った太一の額に髪の毛がするりとかかっていた。 「もう、夢の中の僕じゃなくて、現実の僕に構ってくださいよ先輩」 「…ん、」 「夢の僕にもおんなじことしたんでしょう、先輩ったらもう」 「ああ?」 日に焼けぬ生白い肌の色、その色をまとった指が何かを強請るように妖しく這った。 太一の丸い瞳がとろけるように舌先で亜久津の首筋に擦り寄って、亜久津は絡まった指をもう一度握った。 眼を開けた亜久津のすぐ傍で太一が照れくさそうに笑う。 「本当はこれはいけないことなんです、悪いことなんです、全部可笑しいことなんですよ」 だからやめてと、一度だってこの口が動いたことがあっただろうか。 後悔をしているのかと問われれば否と答えるだろう。 もうそろそろ、クロゼットを開けなくちゃ、 ぽつりと太一が困ったように微笑みながらいった。 「ぼくのあしをどこにしまったのせんぱい」 それはもう、詩の一節のようだった。 「おはようございますっ!せんぱーい朝ですよ!あれ、もう起きてたんですか?ぼくは早出なので、もう行きますよ、サンドイッチあるので、ちゃんと食べて、……どうしてそんなご機嫌なんですか先輩?寝起きなのに、 」 2014/11/8 →main //// |