此処が何処なのかわからない。
でもそれはきっと、知っている場所だった。
ふと、薄暗い視界の向こうで空気が揺らぐ。
僕ではない誰かが、静かに溜息を零したのだ。
苦悩の深さが滲むその重い吐息に、背筋に這う怖気。
息が巧く吸えない、苦しい呼吸を繋ぎ合わせてどうにか僕は言葉を絞り出そうとするのに、どうしてだか音にならない。
ひきつるような空気が喉奥に絡まるだけだ。

(だれ、…誰だ)

目の前にある椅子。
ふらりと揺られる首筋が白い。
誰かが座っているのが分かった。
細い、頼りない、骨が透けるような薄い胸。
ぼんやりと空を見つめる黒い瞳。
ああ、…子どもだ。
その時、ふらりと彷徨っていた黒々とした瞳が、カチリと僕を映した。

「…、……、…」

細く高いような、曖昧な音程で声の欠片が僕に向かって零れ落ちてくる。
沈んだ淵から、ゆらりと立ち昇るような、子どもの甘い声。
静かに、囁くように、そして謳うような声だった。
聞こえない、だめだ、聞こえない。
上手く聞き取れないそれを必死に拾い集めようとぐっと目を瞑って耳を傾ける。

「……さいしょにこころを」

ぽつり、ぽつりと途切れさせながらも流れてくる声はとどまるところを知らないみたいで、ざわざわと胸が騒いだ。
随分と幼げな声なのに、深い記憶を呼び起こすようにゆるりと落ち着いている。
喉奥から迫る違和感に頭が痛んだ。

「心をあげた、身体をあげた」
(ああ)
「欲しい欲しいと云うのです、ほしいほしい」

そっと吐息を吐き出すように子どもの声がかすれていく。
欲しい欲しい欲しいというんです、欲しい欲しい、寄こせと、だから。
追い詰められたような感覚、息が詰まるように苦しい。
聞きたくないのに、押しとどめる言葉が見つからなくて深く俯いた。

「ほしい、最初は腕を、ほしい、次に足を、ほしい、そして、…僕にはもう何もないのに………ああ」

胸騒ぎがして落ちつかない僕は、そこで唐突にぷつりと途切れた言葉にほっと息を吐いた。
椅子に座る子どもの顔を見ようとしても、どこか焦点が合わなくて分からない。
仕方なく目を逸らして、僕は自分の足元を見た。
リノリウムの廊下、仄青い。
ああ、そうだ、そうだこれは、あの中学校の廊下じゃないか。
懐かしい匂いがぶわりと僕の周りを取り巻いて、そしてまた胸が押しつぶされそうに重苦しい。
彼は誰なのだろう。

(…き、み、は、…だあれ)

崩折れそうな僕が問うた声は音にならず、廊下に溶ける。
寂膜の重さに体が動かないほどの疲労、僕は俯けた顔をそろりと上げた。

(ああ…!)

ぞわりと鳥肌が背筋に這った。
引き千切られる様に悲しくて苦しくて僕は遂に顔を覆う。
耐えられないと思い知る。
満足気に微笑みながら、椅子の上に転がっている。
四肢の無い己。





「っていう…」
「いやいやいやいやたいっちゃんそれすっげええこわいんだけど!」
「え?そうですか?この夢けっこう頻繁にみるんですが…」

なんだそれちょっと引いちゃうと、オレンジの髪を振り乱して千石先輩が笑う。
先程から煽っていたジョッキは既に空になってしまったらしい。
隣で黙って刺身をつついていた南先輩も、いつの間にか箸を放り出してひきつった笑みで僕を見ていた。

「太一…ストレス溜まってるんじゃないか」
「はあ」
「…んー…あのさあたいっちゃん、その夢っていうか、欲しがってんのってあ」
「おおおーっと!手が滑った千石ごめんなあああ」
「えぐう」

突如として千石先輩の頬にめり込んだ南先輩の拳が、どうみても本気味を帯びていたので些かぎょっとしながら僕も笑った。
言いかけた事はよく分かった、そんな気持ちを籠めて赤くなった千石先輩の頬に氷の入ったグラスを押しあてる。
痛みが引いたらしい千石先輩の目許が愉快気に細まって、僕は髪をぐしゃりと掻き回された。

「…なあ太一、これお勧めだ」
「いだだだだあああァア」

向かいでメニューを捲っていた東方先輩が、未だ僕の頭に乗っている千石先輩の手を捻り上げながら、穏やかに笑ってどぎつい日本酒を指差した。





薄暗い視界、此処が何処なのか分からない。
それでもきっと、知っている場所だった。
どろりと滲む静寂、痛いほど重苦しい空気が揺れる。
僕は目を開けた。

「…、…、」

椅子、揺れる細い首、彷徨う瞳。
白い子ども。
甘く静かな声の断片。

(ああ、知っている)

あの夢だ。
違うのは、ゆっくりとぼやけた意識が明瞭になることだけ。
もう一度目を瞑ってから、僕はそっと前を向いた。
ふと気がつくと、眼前にあるのは大きな鏡だった。

(…ああ)
「…かわいそう」

椅子に腰かけた、幼い僕の唇が薄く開いては閉じる。
何処も欠けていない僕は、僕に優しく笑いかけた。

「 拒 め 」





「!…っ!」

喉奥で絶句して、僕はシーツの海に埋もれた身体をがばりと起こした。
目の前に広がる柔いシーツが暁の光で仄蒼く染まっている。
カーテンの隙間から覗く細い三日月が揺らいだような気がした。

「噫、…」

酷く焦燥する心臓と鼓動を押さえつけて、もう一度目を見開いて求めた視線の先に、淡い陰翳を帯びた彼がいる。
残光を交ぜたような白銀色の髪はいつもみたいな硬質さを持たない。
僅かに寝乱れて、彼の穏やかな寝顔を隠している。
枕に沈んだその寝顔をどうしても確かめたくて、冷えた指先で彼の輪郭をなぞって前髪をそろりとかき分けた。
そして影を落とす睫を臥せる目もとを見つめて、ようやく言葉を搾りだせた。

「せんぱい、…」

掠れた喉に絡まって、酷く情けない声が霧散していった。
髪を撫ぜ、頬に指を滑らせて、僕よりもいくぶんか低い体温が恋しい。
僕はなるべく穏やかに先輩の腕に寄り添って、ようやく溜息を吐き出した。

「…はあ」

夢を見た。
また同じ夢を見ている。
先程の光景の向こう側にいたのは確かに自分で、そして何かしらの答えを投げたのも自分。
馬鹿馬鹿しいほどにエゴを抱える自分の姿を、見ただけだ。
ただひとつ、明確にそして残酷に突きつけられたそれに僕が安堵しているだけなのだ。
自分から何かを変えようとなんてしない。
膨らむ不安も焦燥も飲み込んで目を逸らして、それがどれだけ狡いことなのか知っていてもなお、黙している。
疲れてるんじゃないかなんて、優しいあの人たちが僕に言った気遣いがよぎる。
そう言われる資格すらないと言えたら良かった。
自分で自分の首を絞めて自分で憐れんで挙句、縋る先に居るのは彼だけ。

「……おきて、せんぱい」

起きないで、何も知らないふりをしていて。
矛盾したことを考えながら、暗がりで彼の顔を凝視している。
彼の静かな寝息にそっと聞き耳を立てていると、いつもは穏やかに眠れるのに。
一気に醒めた意識が、夢のなれの果てを知ってもう眠気を全て忘れてしまったようだった。
一つ息をついてから諦めて僕は音をたてないようにベッドから抜け出した。
中身が空っぽの感覚のまま、僕のあやふやな覚悟がそこにある。

「あつ、…」

手軽に電子レンジにかけたホットミルクを啜りながら、薄暗いキッチンでぼんやりと息をついた。
もやもやとした澱が張り付くような奇妙な夢を見始めて、もうひと月は経っただろうか。
いつも、眼前に身体の何処かが欠落した過去の己が居座って、そして僕を憐れんで見せる。
あの夢を見始めて、自分の何が変わったというのだろう。
酷く疲れるのに、夢を見たくないとは思わない。
頼りない手足、小さくて子どもじみた姿、衒いなく見つめる瞳。
夢の中で見たそれらを僕はもう持っていないからだろうか。
羨んでいるのだろうか、過去の自分を、だとしたら酷く不毛なことだと思う。
これを飲み終わったら眠ればいい、夢の残滓を頭の隅に追いやってしまえばいい。
そうやってどれくらいそこにいたのか、カップの中身はもう残り少なかった。
目を伏せてもう寝室に戻ろうと思ったその時、後ろからがくんと引き寄せられて息が止まる。

「…せっ」
「…なにしてる」
「え、…あ、牛乳、」
「ああ?」

絡む腕、まわされたそれらは起き抜けとは思えないほどに力強くて確かだった。
あっと言う間にカップを取り上げられて、彼はそれを流しに置くと僕の腕を引く。
ゆるやかな速度で、でも考える間もないうちに僕は結局またベッドに埋もれていた。
彼が面倒そうに欠伸をしているのを眺めながら、まだミルクは残っていたのになどと、どうして伝えられよう。
絡めた足を引き寄せられて、腕のなかにいて、苦しくは無いのに。

「亜久津先輩、」
「なんだよ」
「いや、…ああ、…えーっと起こしちゃいましたね…?」
「……」

ただその名前を紡ぎたかっただけの僕に、彼は何も言わずに目を眇めた。
いつの間につけたのか、いつもは消している常夜灯が照らしだす彼は確かに眠たげな視線を僕に向けていた。
首筋に、彼のぬくい吐息が滑っていく。
壁の時計はもうすぐ4時になろうというところだった。

「眠い」
「…はい」
「今度は大人しくしてろ」
「…ええ」
「太一」
「うん」

ただそれだけなのに、それだけの言葉なのに。
まさか眠れるものかと思っていた僕をも穏やかな睡魔が誘う。
すでにもう一度眠りに沈もうとする彼は朧げな夢を見るのだろうか。
鋭利な迷わぬ瞳を瞑ってなお、自分のいる夢をみるだろうか。

「怖い夢を、みたんです」
「…そうかよ」

甘え切って怠惰で一人で浸っているような自分勝手な夢を見た。
彼の所為にしようとした、自分が自分を憐れむ僕の腹の中を裂いてしまいたかった。
自分で此処を選んだのだ。
安寧を見い出せる場所など、彼がいるこのシーツにふたりでくるまっていれば良いと選んだのだ。
僕は、臆病で忌々しい己の向こう側を知っている。
泣きたくないのは己自身だと、痛いほどに知っている。
小さな子供のような事を言った僕を抱えたまま、彼は低く笑ったようだった。

「忘れろ、黙って寝てろ」
「あと2時間もないですよ」
「充分だろうが」

何も解けぬ思考の海、それを引き寄せながら僕は体温が溶けて混ざるのを、堪らなく愛おしく思っている。

「おやすみなさい…」

岸辺からその先へ進まない事を選んだ。
そしてその深く奥底へ腕を伸ばしているのも自分だった。
そうやって思い知らせてくれるのは、この人が好きだと云う事に帰結して巡る螺旋のようだった。
彼が好きだ。
拒めと言った幼い僕の歪な顔を思い浮かべる。
出来ないのではない。
しないと決めたのだ。
僕は本当に馬鹿だ。
夢はもう見られないだろうと、思った。










逆しまの
瓦解





2011/08/24


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