柔いスポンジの上に広げたボディソープを、たっぷりと泡立てる。
白く沸き上がった泡をまとったそれを、左腕に滑らせた。
真正面の鏡にぼんやりと視線を走らせると、ふと、二の腕の内側に目が止まる。
ぼんやりと気だるげだった意識がぱっと覚めてしまった気がした。

「あーあ…」

そこに、薄赤い痕が二つ残っている。
ああ、いつのまに、なんて少し笑ってしまう。
そんな風に誰にも明かさないようなところに残すのだから、彼は気を使ったつもりなんだろうか。
まさか、そんな子供だましの気遣いなど、するような人じゃないと知っているのに。

(僕も大概目敏い)

そんな風に、彼の痕跡を見つけて、そして目が離せなくなるなんて。
彼は只したいようにしただけなのだろうと、分かっているくせに。
赤いそれをよくよく見つめてから、僕は石鹸の泡でそれを全て隠した。

(そう言えば、僕は彼にそれを咎めたことがあっただろうか)

あまやかな痛みが皮膚を伝って心臓に届く、赤い鬱血が散る。
それをいさめた記憶は終ぞ無くて、僕は緩慢に首を振って再び夜の匂いを追いやった。
身体をふわりと覆う泡を、シャワーから流れ落ちる湯が、あっと言う間に掻き消してしまう。
そしてまた現れた薄赤い痕を、僕はそっと指先でなぞる。
これを、こんな証のような痕を、思い知るように感情を刻みつけられることが、嫌なのかと問われたのなら。

(いっそあからさまに押し付けられたなら拒むふりぐらい出来たのに)

隠すように秘すように、それでも、けして忘れるなと手繰るように。
息をついて曇った鏡をそのままに、僕はバスタブに張られた湯に足先を滑り込ませた。
彼は酷く勘の良い人だから、ただ思うだけで、己の指先から全てが伝わってしまうかもしれない。
なんて、馬鹿げた怯えを僕は未だに抱くことがある。
拒んだら彼はそれを飲み込むだろうか、だとしたら彼はもう、そうやって残さないのかもしれない。
あるいは詮無いことと、気にも留めずに思うままでいてくれるのだろうか。
彼に言わせれば、それは僕がいつものように考え過ぎる嘘みたいな下らない事なのだろう。
伸ばした手に視線を走らせて、手首を囲む薄らいだ痕を見遣った。

「嗚呼」

湯船に沈んで、身体をうんと伸ばして、僕は結局分かり切っている答えを溜息に混ぜて湯気の中に吐き出した。
愛された証拠、だなんて初々しい子供みたいなことで、僕はきっと幸せでいられる。
腕に散る痕も、いずれ消えて、またそして生まれてそしてまた消えていくだろう。

「おい、太一、」
「……先輩?」

目を閉じてお湯の中でじっと息をひそめていると、バスルームの扉の向こうから掛かる声が僕を呼び覚ました。

「どうしたんですか」
「コンビニ行ってくる、飲むもんねえ」
「ええー?水も麦茶も牛乳もありましたよ」
「ビール」
「…はあい、…あ、…やっぱり待って」
「あ?」

ちゃぷん。
お湯がゆるりと、僕を渦巻いて取り巻いて、温かくて抜けだすのは酷く億劫だった。
それでも跳ね上げたお湯が背中を滴るを構わずに僕は湯船から立ち上がって、擦りガラスの向こうの彼を見つめる。

「僕も一緒に行きますから、せんぱい」





街路樹がすっかり葉を落としていて、日はとっくに暮れてしまって街灯が点灯している。
残り僅かな枯れ葉を踏み締めて、乾いた空気と気温が僕を包む。
僕の目の前にはワインの専門店があって、カラフルなリースが飾られた店内へと扉を開いた。

「じゃあ、このシャンパンを、」

混み合っていた店内を擦り抜けるようにして手早く注文してから、僕は硝子の向こう側の通りを見つめた。
駐車場がいっぱいで、悪いとは思いながらも路上に駐車してもらったから早く戻らないといけない。
視線を巡らせた先に、車に寄りかかってこちらを見やる彼が居た。
彼の吐く息が白くて、そしてまっすぐに僕を見つめる瞳が、街灯に照らされている。

(ああ、もう、どうしてかな)

どうしようもなくそこから動けなくなった僕は、真っ白でふわふわのお気に入りのマフラーにどうにか顔を埋めた。
車の中で待っていてくださいと言ったのに、彼は歩道に立って僕を待っている。
少し離れたところで聳え立つクリスマスツリーが、真っ赤に瞬いたり、真っ青に煌めいたりして、暮れた空を照らしていた。
もし僕が幼い子供だったのなら、彼に大きなモミの木を強請ったりして困らせてしまうかもしれない。
それを想像するとおかしくて楽しかったけれど、結局僕はもう良い大人で、ツリーが欲しいわけじゃない。
お決まりの明るいメロディが辺りに溢れていて、誰もがクリスマスであることを、そ知らぬふりするなんてできない。
かく言う僕もその一人で、金曜日だった23日は今年も何とか仕事終わりを急いて、夜から愛すべき先輩たちはもちろん大学時代の共通の後輩や諸々と共に賑やかに騒ぐことになった。
どうせ大して飲めもしないし、その上酔いつぶれた何人かを無事に送り届ける責務を負うと分かっていても、彼らが相手ならば僕は毎回懲りずにそんな席に出向いてしまう。
液キャベ片手に苦労話を語る先輩を宥めるのも、ビリヤード台で女性のアドレスを山のように手に入れる先輩に感心しながら呆れるのも、
笊か枠かと見紛う程に平然と飲み続ける先輩を羨むのも、散々誘ってお願いして結局僕が引っ張ってきたしかめっ面の彼の機嫌をとるのも、毎回それなりにほどほどに騒いで笑ってケーキを食べる僕も、実に全てが例年通り。
自分が彼らの仲間であり同志であったことが僕の中でいつだって輝かしくて愛おしいのだと、そう伝えれば彼らも同じだと笑うだろう。
いつまでも、こういう風に繋がっていたいと心底思う。
夜明けまで居座ったクラブから追い出されて、潰れた何人かをタクシーに押し込んで、僕らが帰宅できたのは24日の昼前で、その後は夜までたっぷりと寝倒して終わってしまった。
そして迎えたクリスマス、寝倒したイブを取り戻そうと考える間もなく、結局僕は彼と怠惰にシーツで溺れて、戯れてそれから。

「先輩、ごめんなさい、寒かったでしょう」
「別に」

イブは元より25日まで、結局大半をベッドで終えてしまうことが何だか悔しくて、態々こんなところ迄車を出してもらった。
一昨日ビールは散々飲んだし、昨日はベッドで潰れちゃったので今日は美味しいシャンパンが良いです、なんて言って。

「大して飲めねえくせによ」
「先輩、クリスマスですよ、良いじゃないですか、それらしくしたって」

今は二人でいるのだから少しくらい気取っても罰は当たらないだろうと僕は笑う。
無論僕たちに特に近しい彼らが気を使わない人たちだということでは決してない。
僕らがどういう関係にあるのかなんて彼らだけはとっくに察しているだろう。
それでも、僕らも彼らも何かを押し付け合ったりなどしない。
そしてお互いに遠慮しすぎたりもしない。
そういう心地いい近しさと距離をきちんと分かっている。

「なに笑ってんだ」
「いーえ、べつに、なんでもないんですよ、寒いし早く帰りましょう」
「…お前が来てえっつったんだろ」
「ええ、先輩、ありがとうございます」

しんと冷え込む空気、夜も遅いというのに途切れぬ人波が年の瀬を感じさせる。
彼の吐いた息も僕と同様に白くて、それが何故か嬉しくて僕は笑いながら助手席に乗り込んだ。
滑るように走り出した車の中で、彼の横顔がネオンに照らされている。

「亜久津先輩」
「なんだよ」
「…コンビニでモンブラン買っていきましょうか、僕はプリンにするので」
「昨日散々食っただろうが」
「先輩はケーキ一口しか食べてなかったでしょう、千石先輩が連れていらっしゃった女性陣がほとんど食べてましたもんねえ」
「ああ」
「2次会終わった後も3次会行くって言ってましたよね、昨日も今日もスケジュールがいっぱいだそうですよ、…すごいですよね」
「いつか刺されんだろ」
「先輩、笑えないですそれ」

洒落にならないことを素っ気なく言い捨てたのを聞いて、悪いと思いながら笑ってしまう。
さもありなんという痴情の縺れに気を付けてくださいと、年賀状にでも書いておいたらどうだろう。
クリスマスというこの国の偏ったイベントが終わった途端、忙しい年の瀬に差し掛かって、また日常に忙殺されるのだからそれはお安い八つ当たりにもならない。
そういえば、もうすぐ僕はまたひとつ年をとるんだった。

「ねえ、先輩、おせち料理つくらなきゃいけませんね」
「次は正月の話かよ…連中がまた飲み会するとか言いだすからやめろ」
「そうですよねえ」

でも今年も作りますよ、去年よりもっと豪華にしましょうか、ねえ。
ハンドルを切る彼を横目に、僕はそんな他愛もない話を続けた。




玄関の鍵を取り出す彼の横で、吹き付ける寒さに逸る足下をもつらせそうになる。
途端に腕を引き上げるように掴まれて、強い力で、それでも彼の掌は優しくて、僕はその手を引き寄せて重ねたくて焦れる。
冷え冷えとする眼下の街灯を後目にマンションのドアを開けて、暖房の名残りがある室内に飛び込んだ。
隠れ家に滑り込むような、そんな気持ちの裏側に背徳を隠して。
ドアを閉めた途端音をたてて吸われる僕のくちびるはそこだけが熱い。

「ん、…、せんぱい、ストーブ点けなきゃ」
「黙ってろ」

興が削がれると言わんばかりに、傲慢な言い草をする癖に、彼の所作はしなやかで穏やかだ。
僕を扱うとき、そういうときはいつも、ふり払えないだけの強さで彼は穏やかに触れる。

(押しのけるふりすら許されないなど嘘だ、厭うならば拒めばいい、だなんて、うそ)

それを許せないのは己だけで、そう思わせるのは彼だけれど、選択するのは僕。
僕はいつだってそう、思い知らされる。
ああでも、痛むのは、己のみなのだろうか。
だとしたら、選ぶのは、本当に僕なのだろうか。

(分からないんです、せんぱい、)

ぼんやりとした視界に映る彼、やわい感触に引き摺りだされる疼き、そして今日も思考など投げ出して僕は目を瞑った。




「せんぱーい、てっぺんの星どこにやったかわかりますか」
「俺が知るわけねえだろ」
「ええー」

テーブルに乗せたホワイトツリーは30センチもないミニチュアで、青い小さな電球と銀色の飾りが可愛らしくて僕はとても気に入っている。
しかし天辺にあるはずの星飾りだけが見当たらなくて、シャンパンのグラスを用意しながら試しに彼に聞いてみたがやはり空振りだった。
さてはどこかになくしてしまったのだろうか。
そういえば、これを取りだした一昨日、きらきらした星型が綺麗だったからついつい弄繰り回していたかもしれないけれど。
ともかく天辺の星はさて置いて、テーブルに向かい合わせに座る彼が開けてくれたシャンパンをグラスに注いだ。
綺麗な金色に、泡がすこし沸き立ってツリーの電球を映しだしていて、艶めいて光る。

「先輩、乾杯しましょう」

カツン、涼やかに響く音、並々と注がれたシャンパンを目の前であっと言う間に飲み干してしまった彼にビールを渡してから、僕もそっとグラスを傾けた。
少し奮発したシャンパンを飲んで、安っぽいコンビニケーキとプリンと一緒に食べて、ツリーには肝心な星が欠けてしまっている。
そんなちぐはぐでちっとも格好の付かないクリスマスが、あと数分で終わりを告げる。
ああ、それでも、そんな風にいるのが僕たちには似合いなのかもしれない。
さっさとモンブランを食べきってしまった彼が、ビールを片手に僕をじっと眺めていて、僕の前には食べかけの生クリームとプリン、それが酷く魅力的な晩餐に見えるのだから。

(だから、明日も、それでいいんじゃないかな)

結局そうやって日々を超えて年を経て、僕と彼と、そしてほかにもたくさんの人を取り巻いて明日を見る。
長針が12時を指し示したのを見計らって、テーブル越しのキスは生クリームの味がした。
幸せな甘さを舌の上に隠して、重なった掌が温かい。




 星
 芒
 を 
 抱
 い
 て




2011/05/07

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