「壇、」

バスルームのドア越しに響いた彼の声は、少し篭っているように聞こえた。
ずるりと何かを背に這わせるような暗くて重い声色がそこにあって、太一は少し笑った。
シャワーから流れる湯を止めて、返事を返す。
気だるい身体の奥に薄暗い何かが溜まっているような気がして足が重い。

「はあい」
「…悪い、終電逃した」
「…でしょうねえ、」

さっきまで自分のベッドを盛大に占領していた彼の第一声には大体の見通しが立っていた。
己がそれにどう返すのかも。

「泊まっていってください」
「…悪いな」
「いいえ、気にしないでください」

前後不明になるまで飲みまくった彼は如何せん酷く珍しい。
揺り起こしても振り払ってしまうぐらいなのだから随分と機嫌も悪かったようだ。

「…雨も降っているし、」

ぽつりとつぶやいた声が聞こえたのか分からなかったけれど、ドアの向こうから人影が消えたのを見て、太一は湯船に身体を沈める。
沈んだ湯の中で身体を伸ばしながら、細く長くため息を吐きだした。
酒精では到底払えなかったらしい彼の不機嫌の原因もそれを宥める術も分からない、教えてくれる気も無いのだろう。
もうずいぶんと長い付き合いになるのに、彼について自分はおぼろげな感覚を掴んでいるだけなのだ。
人となりもある程度の性格も、食事の好みまで知っていると言うのに。
知り得ているのは上澄みのような表面だけでそんなものは到底理解には足りないのだ。
黙することが巧くて密やかに強くそこにいる、そんな不思議で曖昧なイメージを彼に重ねている。
見上げたバスルームの天井が、立ち上る湯気で霞んでいた。





病める音律





着替えてから太一がリビングへと向かうと、苦虫を噛み潰したような顔をして彼はソファに深く座り込んでいた。
未だに悪酔いが続いているのかと、しかめつらで目を伏せている彼に太一はそっと声をかける。

「室町先輩?」
「…ああ…」
「お水、今持ってきますね、ええっと液キャベもありますから」

どうか吐くならトイレに行ってくれと心の片隅で願いながら、太一は急いで水を彼に手渡した。
頭が痛むのか米神を押さえて室町は水を一気に飲み干す。
深くため息をついてコップを置いた彼は幾分か気分を持ちなおしたようだった。

「先輩、…もう横になったほうが良いかもしれませんねえ」
「ああ、」

太一が寝具を一式持ってきて渡すと彼はクッションを枕に毛布にもぐりこむ。
髪を拭いたタオルを肩にかけて、太一は室町が寝そべるソファの正面の床に座り込んだ。

「胃が重い」
「あれだけ飲んだんですから当然ですよ」
「だろうな、…そう言えば千石さんは、」
「途中でつぶれたので南先輩が引き摺って行きましたけど」
「道端に捨てればいい」
「……今のは聞かなかったことにします」

さりげなく吐き出された棘に聞こえないふりをしながら太一は笑った。
目を瞑ったまま室町も皮肉気に鼻を鳴らして呟く。

「あの居酒屋の焼酎が効いたな…」
「よくあんな強いの飲めますよね、」
「お前はカクテル専門だもんな」
「…あんまりお酒得意じゃないんです、もう少し強くなりたいんですけど」
「いいだろ、別に…時々不便だろうけどな、」
「…ええ」

しんとした空間に溶けていく二人の声は静かで、二部屋しかないアパートの中でも耳を澄ませないと分からないくらいだった。
太一は天井の蛍光灯の明かりを落として、もう一度床に座ってソファに寄りかかる。

「…先輩、なんでそんなに飲んだんですか」
「さあな、忘れた、…酒と一緒に全部飲んだ」

何処か居心地の良い沈黙の中、太一は無駄と知っている問いを零した。
太一がそれを問うても答えを求めているわけではないということを室町も分かっている。

「大人にはいろいろある」
「…僕と室町先輩は一歳しか違わないです、それにまだ大学生ですよ」
「一年を時間に直すと?」
「……8760、時間」
「大きいだろ」

随分と酷い屁理屈を言うものだ、太一がそう思って少し笑うと、室町も釣られたように喉奥で笑う。
他愛無いことで言葉を零しながら、二人は身動ぎもせずにじっとしていた。
カーテンの隙間から街明かりが差し込むだけで、宵闇の中の静寂が部屋を浸している。

「壇は」
「…はい」
「どうしてあの人とそうなったんだ」

静かな声だった。
暗い中、互いの顔は分からない明度でも室町の眼が自分を捉えている気がして、太一は目を伏せる。
こんなふうにはっきりと言葉でそんなことを問いかけられるのは初めてかもしれなかった。
彼が、あの人と称した人のことが誰かなど今更考えるまでも無かった。
自分とその人が行きついた今、その関係について、太一は誰かにはっきりと伝えたことはない。
いっそ隠しこんでおくべきなのだろう。
太一は己が選び取った今を後悔しないと決めている。
確かに己は幸福の内にいるからだ。
それでも誤解や非難はいつだって恐ろしくて厭わしい。
己が傷つくのも避けていたかった。
己の大切な人達の中で、ほんの数少ない彼らだけが察して、それでいいと黙してくれている。
そういう風に自分は暗黙の理解を一番近しいあの人たちから与えられている。
もしかしたら、それを強いているのかもしれなかった。

「さ、あ…」
「……」
「…言葉にするのは、難しくて」
「…へえ」
「本当はちゃんと言いたいのに、いろいろ足りなくて、」
「ああ」

言葉で全て補うには足りなくて、全てを伝えるには時間も覚悟も足りない。
この感覚を伝えるには足りないものが多すぎる。

「いつも、この気持ちをちゃんと伝えるには思うようにいかなくて」
「なあ、言葉なんて結局、音を重ねただけだ」
「…」
「…だから、出来ないなら無理やり言葉にする必要、ないんじゃないか、…まあ聞いた俺が言うのも、…アレだけど」

多分、俺は分かってるから。何かは分からないけど、確かに分かってる。
大切にしたいんだろ。
彼がつぶやいた言葉はそこで沈むように途切れた。
酷く落ち着いた声だった。
彼がいつも沈黙を以て過ごす時、どんなことを考えているのか太一は唐突に知りたくなる。
伝えたいことが言葉にならなくて、音にならなくて歯がゆい、そんな風に思っているのだろうか。
それはまるで自分への拙さを知らしめるようで、苦しくて切ないことなんじゃないだろうか。
確かにそこにある何かを、求めながら、そうやって苦しむんだろうか。
そっと息を吐いて、太一はまだ体内で淀んでいるアルコールが招く眠気に抗いながら思いを巡らせた。
室町は黙ったまま、二人きりの息遣いだけがそこにある。

「先輩、僕、もう寝ますね、…おやすみなさい」

囁くようにそう言っても、太一はしばらくそこに座ったままでいた。

「おやすみ、」

さらりと返された声も眠気に掠れていて太一は一度だけ室町を振り返る。
単純に音を紡ぐこと、言葉をつくりあげること、それが酷く難しい。
漠然としているのに自分の中を占める感覚も感情も、それが情であっても苛立ちであっても、割り切れぬ理由がいつまでも付きまとう。
そんな事はいくらでもあった。
むしろ、己と彼らが幼かったあの頃、はしゃぎ叫んでがむしゃらに楽しくて、そして泣き喚くことが出来たあの頃よりも多いのかもしれない。
大人にはいろいろあるなんて、冗談みたいに彼が言った言葉は正しい。
大人でもないのに、子どもではなくなる自分が酷く曖昧な気がするなんて、それこそ子どもの言い訳のようだった。

「…寝ないのか」
「いえ、少し、疲れたみたいで…」
「ああ」

なんだか一人でいたくないと考える自分を押し留めて、太一は立ち上がった。
近しくて、馴れあうようにして、それでいて情けない甘えを誰にも押し付けたくはない。
矛盾している。
誰もが複雑に生きている。
大切な何かが、苦しげに増えて行く。
薄暗い視界の中、音をたてないように扉を閉めながら太一はぼんやりとそんな事を思った。



2011/03/27

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