怠慢な時計の針は、25時へ向かって、沈んだ夜の向こう側で何処かの車が走り去る音。
熱い目蓋を押し上げて、僕がどうにか知覚できる数字は少ない。
どれほど息苦しくても情けない声は上げたくないのに、口を噤めばそれを彼の舌が抉じ開ける。
エアコンを強烈に効かせて地球を顧みずになだれ込んだ欲の果て、そうなるだろうと夕食を摂りながらなんとなく察していた。
綺麗な所作で箸を使い夕食を口に運ぶ彼が捕食者の目して僕を見たから。
否と言えるはずもないのだからそんな風に追い詰めて、追い落とすような目をしなくてもいいのに。
少し可笑しくて笑うとそれが気に障ったのか、彼が一瞬動きを止めていぶかしげに僕の髪を撫でつけた。

「ぁ、ぁあ、せんぱい、はあ、ぁ」
「…痛いのか、」
「ん…ん、」

喉を引き絞るような掠れ声が漏れ出る。
彼は息を細く吐き出して目を眇めた。
痛いのも苦しいのも一緒くたになって身体が芯から痺れて震えて、そして確かにそこに官能がある。
彼が教えてくれたことだ。
目の前で汗が伝う白くて美しい肉体、躍動する筋肉を持った彼は実に完璧な造形をしていると僕は思う。
それでもぼろりと流れた涙が生ぬるく張り付いて切なかった。
身体よりも心が置いてきぼりにされそうで、訳が分からない。
僕の身体の器官は実に扱いにくいはずなのに彼は手際よく服も理性も言葉すらはぎ取っていってしまった。
甘い匂いがどこか苦くまとわりついて、頭の中は火花で浸る。

「ぁ、は、うぁ、ん、ん」
「……太一、口噛むんじゃねえよ、」
「は、…だって、…」

まさか僕の身体中に性感があるのではないかと思う程に肌が泡立って震えた。
せり上がるように切羽詰まって、喉奥が燃えるように熱い、逃げ場を塞ぐような温度。

「…ぁあ!」

律動の衝撃に慄く僕を宥めるように、彼が僕の掌をからめ捕った。
ねっとりと脹脛を這う彼の舌がまるで別の生きもの。
胸元へ近付くその紅い熱源に僕はきつく目を瞑った。
下腹のその中に彼と混ざる熱が爆ぜる。
止らぬ突き上げに呻いて呟いた言葉は器用に彼の口に吸い込まれた。
余計なことを考える暇すら飲み込まれてしまうみたいに。
だから口を合わせたまま喋ってみたら、ぐちゃぐちゃに舌が絡んだ。

「…ぁ、ぁ、おこって、ますか、…?」
「…噛むなって言っただろうが、」
「ん、…」

少し切れてしまった唇の端、それが気に入らないのか、彼がわざといじくるから彼の唇にも僕の血が移って広がってしまう。
それを手当てするのだって彼がやるのだろうに。
彼の彫刻のように均整のとれた腕に汗が伝うのが見える。
彼の目が鋭さを増し、口角が微かに上がるのを目の端に捉える。
思い知った熱と楔が僕の全てを掻き回して、どろどろで、どこもかしこも。
唾液にまみれた足が冷える。
吐息が絡んで濡れて、ゆびが絡む、僕の口も別の生きものみたいに。

「せんぱ、ああ、…ん、」

ただ黙して彼は僕を鋭利な視線で縫いつけて、逞しい腕で掴んでいる。
常よりももっと彼の口数はすり減って、その癖彼が僕に伝えるもの全てが重く大きかった。
貫く刃のように貪婪に求められる、欲しいのだと彼は決して隠さない。
丸ごと口づけて僕を押し潰すかのように。

「す、き」

それだけを息も絶え絶えに吐き出した僕の何もかもを、取り逃がさぬように回された腕が僕を締め付ける。
腰に腕の痣ができてしまうって知っているのに振りほどくことは一度だって考えられない。
早鐘のように鼓動が瞬く、心臓を掴み取れたら良いのに、この手で大事に抱き締めるから。
彼と混ざる心臓の音が喚きたいぐらいに哀しくて辛くて、それを愛している。
すきですきでしかたないなんて、声にならないぐらい激しく迸った。





ふと意識が浮かび上がると、真横でふわりと煙草の匂いがした。
彼の纏う香りだと考えるまでも無く分かって、僕はシーツに顔を伏せたまま笑った。

「……せんぱい、」
「ああ」
「ぼく、…思ったんですけど」

寝台でうつ伏せて毛布にくるまっていた僕は彼の方へ顔だけを向ける。
ベッドヘッドに凭れかかって煙草を吹かしていた彼は前髪を掻きあげながら灰皿に手を伸ばす。
その間彼は一瞬たりとも僕から視線を外さずにいた。
まだ汗の引かない僕の身体はあちこちが軋むように痛む。

「…何歳から吸ってたんです、それ」
「覚えてねえ」
「…ん、…じゃあ15歳からだとして、もう10年近くです、…きっとそのうち肺が真っ黒になっちゃいますよ」
「検査で異常はなかった」
「その検査行ってもらうためにどれだけ僕が苦労したと思ってるんです」
「いらねっつっただろうがよ」

彼は不機嫌そうに眉間に皺を寄せて小さく舌打ちを零した。
人間ドックに行ってもらうためにどれだけ僕が綿密に計画を立てたか彼はきちんと知っていながらそんな事を言う。
彼の肉体に忌むべき兆候は何一つなくて、それを知った僕がどれだけ安心したのかも彼は知っているのだろう。
僕がさまよわせた視線の先に、彼の二の腕に僕が引っかいた跡が垣間見えて急に切なくなった。
ほんの少しの負担でさえ、その体が資本の彼には担わせたくないのに。

「…僕を安心させるために受けてくれたんですよねえ」
「黙らすためにな」

乱雑に言い捨てて煙草を灰皿に押し付けてから彼は僕を毛布ごと引き寄せる。
そっと静かに、酷く丁寧な所作で抱き込まれて、そんな風に扱われるのが気恥ずかしくて僕は彼の視線から逃れるように俯いた。
こんなふうに彼が僕を扱うことを一体誰が想像だにするだろう。
シャワーを浴びに行かないといけないのに、思うよりもずっと身体は疲弊しているみたいだった。
頬を滑るように彼の指が撫ぜるの感じながら、僕は窓辺に視線を流す。
カーテンの隙間、夜の帳の向こう側に都会の数少ない星が浮かんでいた。

「…もう、夜も遅いです」
「ああ」
「シャワー、浴びないと、…」

温かい温度に浸されてまどろみがひっそりと近づいてくる。
油断したら眠ってしまいそうな中、僕は健全な肉体に健全な精神を据え置くことがいかに困難か、ユウェナリスの誤訳について南部長が話してくれたことを思い出した。

「もう寝ろ」
「でも…」

重い目蓋にとうとう負けそうになりながら僕は彼の琥珀色を探す。
目蓋の裏に焼きついた欲情を灯す彼の瞳、今は穏やかな色を映していた。
健全な肉体の内側に彼が何を宿していようとも、それを悟らせるような人じゃない。
彼は冷徹に生きるのが酷く巧いのだから。
僕はそれで構わなかった。
知っていて尚、それで良かった。

「寝ろっつったろ」
「…ええ、そうします、…おやすみなさい」

もう彼には僕を離す気もないようだから、なんて言い訳を考えながら僕は細く息を吐きだした。
サイドテーブルの明かりが消えるのをおぼろげな意識で感じて、ぎゅうと目を瞑る。
彼が額に口づけてくれるのを待ってから、僕はもう沈んでいく意識に抗うことも無かった。



眩む 片影


2011/02/02

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