(戻らなければいけない)

ぺた、ぺたり、頼りなく震える足をどうにか前へと運んでいた。
何処へ行こうとも知れぬのに、唯ぼんやりと歩むしかないのか、夢を見ているように頭が重い。
絹紗のドレープが揺れる窓辺、絹を透けて漏れる光だけが薄明るかった。
朝、ああきっと朝なんだ。さむい。
そう思って遅々として進まぬ手足を引きずって息を吐いた。
しゃらん、じゃらん、しゃらん。

(ああ、)

ふと、耳を澄ませれば、金属が擦れるような小さな音が足元にまとわりついた。
美しく磨き抜かれた床、見下ろせば仄暗く薄靄がかかったようで、微かに青白い爪先が見えただけだった。
それでも靴もはかぬ足を重くする床は、酷く冷たい。
あたりは薄暗く、肌を刺すような冷気が満ちている。
それでも止まることが酷く恐ろしかった。

(…どうして?)

ここにとどまるなとそれだけが頭の片隅から響いてくる。
それが何故なのか、うまく考えられない。
思考の海に溺れては、砂を零すように跡形も無く掻き消えていく。
ふと気が付けば己は藍白の襦袢一枚を胸元で掻き合わせただけ、引き摺るそれは柔らかく何処までも上等なもので…、
…では、誰がこれを僕にくれたのだったか。
僕は逃げているんだろうか…では、なにから?
…誰から?
しゃらん、しゃら、

(なんの音だろう)

足先が重くて冷たくて凍りそうだった。
もう諦めてもいい、そうささやく声が僕の胸の奥にとぐろを巻いた。
じゃらりと絡む音が足首を締め上げる。

(いたい…いたい?…ほんとうに?)

苦痛、そのすぐ横に途方もない安堵がそびえて僕の胸を埋めていく。
遠くに伸びる鎖が横目で見えたけれど、あれはいったい何だったかさえ思い出せなかった。
小さく声を漏らせばもう、足先が辛くて持ち上がりそうにない。
そうこうしている内によろけた先の窓辺に手をついてしまった。
そうしたらやはりもう駄目だった、遂に進めぬ、薄墨のように暗い、長く続く回廊の先。
ああ、仰いだ先で窓辺に身体を寄せて、せめてもと淡光を追ってそっと硝子の向こう外を覗き見た。
陽の光だ。
燈色、薄紫色、藍色。

(西の先に、ああ…そうか)

気が抜けたように身体がずしりと重くなった。
だめだ、遅かったのだ。
そうとしか思えなかった。
どこか意味も分からぬままに漠然と、何が遅かったのかすら考えられない。
ただ目の奥がたまらなく熱かった。
そうか、朝ではなかった、暮れる陽だったあれは西日で、もう夕焼けも終わる陽が隠れて。
うつくしかった。
僕はあれが好きだった。

(彼らの背を追って、夕暮れを縫うように駆けるのが好きだった)

重く吐き出した溜息にまじって、頼りなく溢れだす記憶に薄く笑いが漏れる。
己にはもう安穏として生きる資格など無いくせに、いつまでもあの日の夢を見ている。
西に堕ちる夕暮れすらぼんやりとかすんで行くのを眺めながら、僕は頭を垂れて崩れるように座り込んだ。

…かつん、

は、と身体を揺らす間もなくてすぐ後ろで響く。
かつん、かつん、かつん、誰かの靴音。





がくんと身体が揺れた。
鬱陶しいほどの眠気が身体全体を沈めているようで、意識を引き上げて目蓋を持ち上げる、それだけのことが酷く難しかった。
ふわりと空気が揺れる気配がして、左の方から静かな声が聞こえる。

「…一度だけ、言わせてくれ、一度だけだ」

(ああ)

「…ごめんな」

ああ、この人はなんて酷いことを言うのだろう。
悲しみを纏わす声、それなのに、既に思いを凍らせる覚悟をした声が小さく耳に届く。
ごめんだなんて言って、それでも何も辞す気はないと決めてしまっているのだ。

(酷いことをする…否、違う、僕が酷いことをさせている)

どうにか鈍くなる思考を奮い立たせて、目蓋を持ち上げなければならない。
目の奥が泣きたいほどに痛む。
振り絞るようにして抉じ開けたぼやけた視界に白いドレープが浮かび上がった。

「ああ!…起きたのか太一、よかった」
「…ぁ、」
「今、水を取るから待っとけよ」

ぼんやりと天蓋に向けている顔を傾けて、僕は安堵したような言葉を零す男を見上げた。
喉が乾ききって張りついていて、声が詰まって仕方なかった僕を見て、彼は慌てて水差しに手を伸ばす。
ゆっくりと気遣うように、彼は僕の背中を支えて抱き起こすようにしてくれた。

「起きて大丈夫か?ああ、そうだ、…俺が分かるか?」
「…ええ、…ええ、分かります、東方先輩」
「よかった、…具合はどうだ?まだ体調が安定しないだろう」
「…大丈夫です、今日は、頭がはっきりしてて…」
「ああ、でも無理しなくていいからな」
「…ありがとう、ございます」

ベッドに上半身だけ起こした僕が深呼吸してそう言うと、彼がそっとグラスを僕に渡してくれた。

「東方先輩、えっと、…お水ありがとうございました…」
「嗚呼気にしないでくれ…でもそうだな、太一、なあ、…」
「…はい」
「いや、…お前に先輩って呼ばれるのは、ほんと懐かしいと思って」

まずはじめに久しぶりって言った方が良かったよな、そんな風に呟きながら彼はベッドの横の椅子に腰を下ろした。
まだおぼつかない手つきでグラスを持つ僕に手を添えながら、彼は稚い子供にするように笑う。
惜しみなく僕に気遣いを差し出しながら、朗らかに微笑んで見せた彼が僕の記憶の中の彼と一瞬だけ重なって見えた。
長い間、僕にとって本当に長い間離れていた彼の笑顔が、穏やかに目を細める彼の笑顔が驚くほど変わらない。
それは長い年月で刻まれたさまざまなものを覆い隠してしまう術なのだと悟れぬ程僕は子供ではなかった。

「本当に、お久しぶりですね…」
「ああ、何度か見舞いにはきたんだけどな、なかなかタイミングが合わなくて会話らしい会話ができなかった」
「…意識が、はっきりしてなくて」
「十五年ぶりだ、積もる話もお互いあるけど…半年近く昏睡状態だったんだ、まだゆっくりでいいよな」
「…い、ま…何月何日ですか、」
「太一、まだいいんだ、そんなこと考えなくても」
「いいえ、…もう十分すぎるほど僕はここで眠っています、…亜久津先輩はもう、半年経ったとしか、…ぼく、僕は、軍属の、医療施設にいて、あれは三月の終わり、」
「…分かってる」
「ど、やって、どうやって僕は亡命なんか…!」

溢れ出すささくれ立った言葉を押さえ付けられなくて、グラスを持つ手が震えて仕方がない。
彼を責め立てても何にもならないと分かっているのに、全てを招いたのは己の心弱さではないかと認めるには余りにも惨めだった。
彼がするりと僕からグラスを取り上げて僕の手を固く握る。
冷たい水に押し上げられるようにして僕の頭は酷く冷静な意識を保っていた。
なにもかも急激に整然としていく記憶、寝間着の下にある傷跡の感触さえ分かっていた。
足首に触れるひやりとした温度が、シーツの下で確かに僕の身体を締め付けている。
しゃらりと擦れる鎖の音が僕の内側に住み着いてしまったようでどうしようもなく悲しかった。

「ど、してですか」
「ああ、…もう何も心配ないから」
「なにがですか」
「此処は安全だ、……俺は、絶対なんて言葉は軽々しく使いたくないが、」
「せんぱ、」
「けど、此処は安全で、俺たちがそれを絶対にする、だから何の不安も無くお前はここにいていいんだ」

僕を見つめる彼の両眼が信じられないほど穏やかに瞬く時、そこには僕の拙い言葉などでは揺らがぬと告げる瞳があった。
夢うつつの中で聞いた彼の囁くようなあの悲痛が、ひどい言葉に聞こえたあれが、ごめんなんていう彼の言葉が、虚ろに頭の中を巡る。

「此処にいてほしいんだよ、太一」
「嗚呼…」
「分かってる、…俺たちをどう罵ったって構わないさ、それだけのことをしてる」
「…もう、いいです、やめてください、」
「でも、間違ってるとは、…正しくないことをしてるとは思ってないよ」
「僕、ぼくは、」
「分かってる、大丈夫だ」
「いいえ!分かってないです!」
「太一、」
「僕は軍属なんですよ、…先輩とは、相対する立場にいた、貴方達は軍人で、…そして僕たちはお互いに刃を抜いた、」

彼の言葉も仕草も、所作の全てが誠実で、僕を見つめる視線に親愛が深く深くにじんでいる。
僕はもう見てなんていられなくて、視線を逸らして彼が言い募る言葉から耳を塞ぎたかった。

「……お前は医療従事者だった」
「それが、…何の言い訳になりますか、」

貴方達があの兵器に乗っているのではないかと思っては嘆いて、血を吐くほどに泣いた夜もあった。
それでも、それを殲滅しようとする兵士を僕は黙したまま見送っていたのだ。
母国へ宣誓した忠誠を自分に言い聞かせて、銃剣を持たずともそれはもはや志願して其処に僕は立っていたのだ。

「良く知ってる、…連絡が取れなくなって近況を知るすべも無かったけど、俺たちの進む道は何時も最後には似ていたから、そうなるかもしれないと口には出さなくても皆思っていた」
「…簡単に折り合いをつけられる様なことじゃ、ありません」
「そうだよな」

どう言い募っても彼は静かに笑みを浮かべながら僕を宥め賺すような声色をやめてはくれない。
次第に掠れ震えていく声を絞り出すのが辛くて喉元を抑えた。
そっと僕の背を落ち着かせるようにさする彼の事を、僕は未だ目蓋の裏にまざまざと思い出すことができる。
己は目立つような役柄じゃないと言って後ろでみんなを支える人だった。
溜息をついて怒って呆れたふりをして、それでも仕方ないなんて言いながら彼は気を配って、誰も取りこぼさずに見ていてくれる。
やさしくて、そして堅牢な精神をもって、皆の面倒を見てはそっと助言してくれるような人。
僕だって、もちろん、みんながそれを知っていた。
いつだってしんがりにいた彼が居なくては落ち着かなくて、駄目なんだって分かっていた。
僕は彼らが何時だって好きで好きで、大好きだった。
別れた後は一層さみしくて夜毎手紙をしたためては彼らが居る国を眺めて、まだ幼くて浅はかだった僕は思い出を繰り返し夢に見た。
時を経て辛うじて大人になった僕には、国境の向こうから飛んでくる兵器が憎くて仕様がないということだけが染み込んでいった。
辛くてかなしくて、彼らが住まう国だと知っていながら目を瞑って嫌悪して、ただ歯を食いしばったこともあった僕に、彼は今、安寧だけで触れている。
叫びだしたいのをどうにかこらえても、僕は緩む涙腺を隠せない。

「…なあ太一、元気になったら」
「…」

穏やかな優しさで包む彼の手には力など篭っていないのに、振り解けなかった。
困ったように笑う時に一瞬だけを目を伏せる彼の癖を、僕は頭の隅で思い出している。

「またみんなで海に行こうな」
「っ…ぁ、」
「南もやっと太一が話せるようになったっていうのになあ、…なかなか忙しくてさ」

苦笑しながら彼が首をかたげて言う。

「意識がある時とない時が断続的に続いてるよな?…意識の混濁もあるみたいだからまだ点滴も栄養注射も継続した方がいいな」
「いいえ、もう、…充分ですから」
「亜久津は一番時間を作ってここに帰るように努力はしてるんだがな、」
「東方先輩、」
「うん」
「せんぱい」
「いいんだ、お前は泣き虫だったもんな……いくら泣いても、いくら叫んでもいい、」
「そんなこと、言わないでください、」
「太一、」
「…僕は、もう子供ではないんです」
「わかってる」
「…ここにいるべきじゃない、こんなふうに、してもらえるような人間じゃないんです」
「…お前はそれでいいんだ」
「そんな資格があるとお思いですか、僕に」
「…それが許される」

誰が何と言おうと俺たちが許そう、それでもそれが出来ずに残るのはお前だけだろうに。
そう言い聞かせるような眼をする彼をやはり見つめていることができなくて目を伏せたまま、遂に僕の目から零れ落ちた涙を真白いシーツの海が受け止める。
そっと頬に延ばされる手のひらから逃れる気力すらなかった。
彼は僕の命の確信を得られてうれしいと微笑んだ。
そして安全だけが優先されることを含めながら、なにひとつとして、彼は僕の望むことをしてくれる気はないのだろう。
貴方に庇護される資格などもう僕にはないのだと、震える唇では伝えることも出来ない。

「みんな、お前が元気になってくれるのを待ってる」
「……ごめんなさい、少し、つかれました」

シーツを一枚捲ったそこにある牢獄の証を、彼はきっと知っている。

「みんなお前が好きなんだよ、…大切なんだ、俺も、太一を大切に思ってる」

(大切に、…大切にしまいこんで手のひらを閉じるだろう)

「常に最善を選択しているよ」

顔を上げることのできない僕の手を握る大きくて広い手、それを持つ彼は、僕の記憶の中で笑う彼とはもう決して同じではないのだと僕はそっと思い知る。
低く温和な声がひどく僕を雁字搦めにすることを非難してやりたいくせに、心の片隅ではひそりと安堵する自分を感じていた。
他愛もない近況をゆっくりと語りながら彼が僕に眠ったほうがいいと促す。

「おやすみ、また来るから」

誰か教えてはくれないのだろうか、彼はもう僕に助言を囁いてはくれない。
やさしく僕の背を支える彼の手のことだけが、ぼやけ始めた意識の中で鮮明だった。

(優しい手、おだやかな指先、…硝煙の、におい)



イベリスの落命

act.2


2011/01/05

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