酷く重い目蓋を押し上げて、霞む視界を拭おうと瞬いた。 あたたかくてやわらかい感触、そしてけだるい身体。 力の抜けた手足を幾分不思議に思う。 ああ、それよりも。 (ここは、何処だろう) 目覚めた先で見たものは、見知らぬ閨のなかだった。 天蓋から幾重にも垂下がる純白のドレープ、視線だけ見回しても映るのは己が広い寝台の上にいるという事実だけ。 細く吐き出した息が、枕に散らばった髪を揺らした。 ここは、どこだろうか。 僕は何故ここにいるんだろうか。 横を向くと淡い陽光がカーテンの隙間から差し込んでいる。 天蓋から下がるレースに透けて、おぼろげに見える陽の光。 うつくしく飾られた、穏やかな朝、そのありかはどこだった。 僕は知らない。 思い出せないのだ。 「…っ!」 意識が明白になった途端、瞬く間に己の置かれている状況が分からないことに茫然とした。 頭の隅でわだかまる何かが、はやく思い出さなければと急き立てる。 ともかく、身を起こしてどこまでも白いこのシーツの海から抜け出そうと身動ぎした。 途端、しゃらん、と金属の擦れる音。 冷たい感触、足首。 「え、…」 上半身だけを起こして、小さく鳴った音の在りかを探す。 身体に柔らかくかぶさるシーツを巻くって自分の身体を見降ろした。 視線の先、寝台の紗幕に紛れてしまいそうなほど、それは細い、白い、 (きれいなくさり、かざり…?…ちがう、…あれは) 足首に一連、巻き付く白い華奢な金属の輪、嵌め込まれた宝石、そこから伸びる白い鎖、長いながい白皙いろをした鎖。 鎖の先は寝台を越えて、どこに繋がっているのかは分からなかった。 (…あしかせ…枷…!) 「あ、あ、…!」 鎖の戒め、その意味に急に気がついて肩がびくりと震えた。 目を見開いて、急いで見回しても天蓋の向こう側はようとして知れなかった。 見れば着ているものは薄絹を何枚も重ね合わせたような襦袢一枚だけ、それも、白い。 上等なものなのだろう、肌は透けないがそれでも心許なくて、急いでシーツを掻き合わせた。 「どうして…」 しん、と寂膜の中に沈む部屋、己の衣擦れの音しかしない。 白いだけのものに囲まれて、漠然と恐ろしくて背筋が震える。 何故僕はここにいるの。 (だれか、) 誰かに、何かに縋りたくて、掠れたような声が喉元を締め付ける。 あたりは明るい光に満ちているのに、ぼんやりと思考が空回って溶けていくようだった。 うまく、かんがえられない。 かつん、 「あ、」 床を踏みしめる音、迫る、近づく音。 靴音、かつん、かつん、近づく。 (きっと彼だ、) 彼って誰だろう。 「…ゃ、いや、だれ、」 白い幕の向こうに透ける靴音の持ち主は誰だろうか。 ぼんやりと恐ろしくて、ひりつくように喉が渇く、どくどくと鼓動が高まって血が巡る音がする。 するすると巻き上がる天蓋の隙間から滑り込んできた、男。 僕の目に飛び込んできた、白銀色。 背の高い、こはくいろの眼、鋭いつるぎのような目。 彼だ。 (知らない、否、知っている) 「ぁ、」 彼の名前を、まとまらないぐちゃぐちゃの思考から引き摺りだそうともがいた。 途端に刺すように頭が痛む、やめろと僕の内側が叫ぶように。 痛みから逃れたくて身を捩って胸元のシーツに顔を埋めた。 それなのに、目を眇めた彼がシーツを手繰ってすぐさま僕から引き剥がしてしまう。 「あ、やだ、なんで、」 衒いも無く僕に触れようとする彼が恐ろしくて、張りついたように動かなかった身体を無理に引き摺って、伸びてくる腕から後ずさった。 寝台から降りようとした僕を容易く引き寄せて、また白い海に沈めるのは誰。 「やめてくださ、」 「太一、」 「あ!」 突っぱねようと腕を払う間もなく、掻き抱かれるように腕の中に囚われて、首筋に走る熱。 甘く啜るように舌が這う、宥めるような、諌めるような痛み。 彼が歯を立てたのだ。 「…!…やぁ、いたい」 締め付けるように抱きとめられて、動けるわけもないのに、その意思すら砕いてしまおうというのか。 首筋を甘くなぞる歯列の感触、ゆるゆると力が抜けて彼の胸元に縋り付いた。 抗えぬ強さに身を委ねざるをえなかったのに、この熱の記憶が僕の体に染みついている。 僕は知っているんだ。 (これは、己が逃れようとした時に、その時だけに彼が僕に与える唯一の痛み、彼を拒めない) 苦痛。あたたかい温度。掠める吐息。僕を撫でる掌の持ち主。 痩せて骨の目立つような青白い手首を掴まれて息を吐いた。 顔を上げた彼が僕を覗きこむ。 ああ、彼を、僕は知っている。 「…ごめんなさい、やめて、いたい、いやです…」 「……」 逃げるな、決して拒むな、雄弁に語る鋭利に眇められた彼の眼差し。 強いる視線で縫いとめられて、力の入らない体をゆっくりと寝台に下ろされる。 彼の逞しい腕がたやすく回る己の身体の頼りなさに、歯噛みした。 「ぁ、ぁ、」 息を乱す僕を落ち着かせるように眦を滑る彼の唇、頬に触れた彼の掌を覆う白い手袋。 直に触れられないのが煩わしいのか、彼は乱雑にそれを取り去った。 彼が事も無げに放り捨てたそれを視線で追えば一点の汚れも無く白くて、彼の節くれ立った指先が髪を撫ぜた。 彼の着崩した白い軍服に並ぶ銀のボタンが鈍く光っている。 (ああ、そうだ、僕は彼を、) 「…は、ぁ……あくつせんぱい、」 亜久津先輩、僕は彼をそう呼んでいた。 白銀色の髪、長身に見合う頑強な体、彼の低い声で名前を呼ばれるのが僕は好きだった。 口角を少しだけ持ちあげる、そっと笑う彼が好きなのだと、教えてあげたことがあった。 油断すればすぐに霞んでしまいそうな記憶をくりかえし、くりかえしすくい上げて、それを思うたびに切なさで身体が痛んだ。 「亜久津せんぱい…?」 「ああ」 そうだとひとつ肯いて、彼はベッドに乗り上げて僕を見降ろした。 一度混乱してぶれた視界がやっと安定していく。 彼は宥めるように僕の髪を撫で、脈拍を見るように首筋に触れた。 「よかった、…せんぱい、僕、此処に、…なんで、」 「…ああ」 「あれ、…で、も、…なんで」 彼が誰だかわかったその次の瞬間には、胸がつかえるような痛みが疼いた。 おぼろげな意識が蘇る。 ぼやけた景色の向こうを手繰り寄せて、ずきりと痛む額を抑えながらきつく目を瞑った。 (つめたい、しろい壁、人いきれ、…薬を探していた、走って、助けたかった) そうだ、僕がいた場所は、冷たく明るい施設の中だった。 祖国のために、祈るだけではいけないと思った。 銃を持たずに僕の出来ることで救おうと誓った。 (助けられる人は皆助けたかった、降り積もる吐きそうな疲労、青い唇をした自分、気付かないふりをした、助けるために両手があるから) 居並ぶ光る治療ポッド、数が足らない、血液すら同じだと何度も訴えた。 地下深くで繰り返されると聞いた治験、見ないふりをした。 足らない薬液のことだけを考えて。 壁をひとつ登れば、その向こう側、荒む大地、光る銃、巨大な兵器、閃光、血と泥の匂い、痛み、叫び。 空を駆ける鋼鉄の死神。 にくらしかった。 けれど、そう思えば思うほど、子供の頃の記憶の中で、隣で笑っていた人たちを思い出した。 (ひとがしぬ、ころす、死、死、死、見慣れた死、そこで僕はせんせいと呼ばれていた) 祖国の色、黒い服、そしてその上に白衣、同志のために、ひとのために、歯を食いしばって。 運ばれる人、自国の兵士、せんせい、たいちせんせい、テロ、民間人、たすけてください、子供だった、力の無い医者、泣き声、死。 生臭い。 (戦争のにおい) 「あああ、ッアア、ア!!」 「…太一、いい、思い出すな!」 「嗚呼!…どして、」 「思い出すな、忘れろ、何も考えるな」 がくんと震えた身体を掻き毟るように抱いた。 再びまみえた時、彼の腕の先、鈍く光る銃口。 軍人になったのだと、風の便りで知っていた。 でも、どこかで信じていなかったのかもしれない。 占拠された医療施設、まさかそんな事があるわけがないと脳が理解するのを拒絶した。 戦闘など間近では見たことがなかった。 知っていたのは、死の匂いだけ、見たものすべてを覆って澱む。 太一、怒鳴り散らされた僕の名前、言葉が終わる前に目の前が白くはじけた、銃音。 彼の赤黒く濡れた服、黒く塗りつぶされる視界、彼の温度を感じた気がした。 「…ここは、どこですか、」 「お前の家だ、俺が手配した」 「家……ぼく、ぼく、どうして」 「昨日も、その前も言っただろうが、……お前を亡命させた、そしてここに隠匿した」 「亡命、」 そうだ、彼はもう幾度も幾度も、僕に同じことを言い聞かせている。 昏睡から目覚めて随分経つというのに、未だに巧く動かせない身体、引き攣れる傷跡が僕の胸を這う。 逃げを打つ身体を縫いとめられて、抗う力など赤子の手よりも弱弱しかった。 彼の身体の下に置かれて、抱き寄せられて唇を喰われてしまえばもうそこで終わりだった。 それでも僕は、乱れる記憶から目覚めては、何十回も何百回も同じことを、繰り返し彼に願っている。 「…ここから、」 「駄目だ」 「だして」 「させねえよ」 無情にすげなく返されるのも、はじめから一つも変わらぬ声色も、同じ。 逃げられぬ。 惑乱した頭にそれだけを刷り込まれる、そうやってもう何か月経ったのだろう。 「おねが、…ここから、だしてください」 「…許さない」 「せんぱい、…」 (にげられぬ、だからここにいるのだ、己の意思ではないのだ……そう思いたいだけではないのか) 「もどらないと」 「まだ寝てろ」 「ま、って…まだ、…」 よく見知ったアンプルをとりだしてから彼が僕の口を舌でなぞった。 いやだと首を緩慢に動かして、視線をさまよわせる間に腕に走った小さな痛み。 とたんに回る薬剤が僕の意識を沈めようと奥底へ引きずる。 (また、おちるゆめをみる) 胸の内側で煮え狂う叫び声に耳を塞いだ。 血が噴き出すように、記憶が頭を走り抜ける。 ああ。 おさないころ、僕たちが同じ学び舎で笑っていたころ、二つの国が、一つの国だったころ。 誰も居ない朽ちた教会の中、黄昏のにじむ祭壇の前。 ひそり、くちびるを合わせるだけ、淡い色をした恋。 祈る先の星、彗星を見ようと彼が僕の手を引いてくれた夜の果て。 (すきだといえた 秘めた恋でもよかった 祝福もいらなかった) 滲む視界、もう泣き枯れてしまったのか、滴は零れ落ちてくれなかった。 脳裏に浮かぶ現実、混ざり合ってしまいそうな弛む温度。 彼の腕の中で縮こまって、僕はそっと目を閉じる。 この温度だけが今や僕の肌に残る唯一の記憶。 耽溺する記憶の中で彼だけが確かだった。 (あどけない、頃の) act.1 |