あまりにも巧妙に俺達はあの子を甘やかしている。
ように見せ掛けて実は自分たちが途方もなく安堵するためにそうしている。
なんてね。
無意識ならば糾弾など無意味で、見ぬふりならば随分と性質が悪い。
だからといって彼の拒絶も無しにそれは引き止められるわけでもないだろう。
つまるところ誰も止めやしない、暗黙とはよく言ったものだ。
実に、俺たちは人生を謳歌していると思わないかい。

「…ねえ、壇君、まって待って、泣かないでよ」

他人のことを思い遣って涙を滴らせそうになるこの子こそ、誰よりも生き辛いだろうに。

「ちょっとした怪我なんだよ、何にも響かないんだ、治るんだよ」

確かに彼の気持ちを、気遣いを俺はとてもうれしく思っている。
そして同時に苛々と煮えくる腹にそっと手を当てて、俺は零れ落ちそうな後輩の眼窩を覗き見た。

(可愛い後輩、うっとうしいくらいかわいいから面倒くさい)

いつだって遠くの方から俺は俺自身を見ている。
何もかも馬鹿馬鹿しく感じることがあるのは仕方ないよと笑っている時の方が最近は多い。
その眼がどれ程冷たいか知らないだろう。
ティーンエイジャーのサガ、それこそ思春期だと言い捨てしまうには乱暴で薄っぺらい。
つまるところ、これが青春って奴なんだろうか。

「でも、」
「ぜーんぜん平気だって」

些細なことだと思いたいがためにそう言うが、どくんと冷や汗が伝った落ちるスローモーションと痛みはいただけない。
首を緩慢に振って、頭の隅にヘコむ自業自得を順番に追いやった。

「先輩!聞いていらっしゃいますか!」
「あーうん」
(あークソ、いってぇな)

恐らくというかもう確信に近いんだけど、こんな風に彼にイラついてしまうというか憤りたくなるのは、俺の精神年齢がなんともまあヒヨコレベルだっていうことなのかな。
自分に巻かれたガーゼに無言でそう問いかけてみても、不様に倒れこんだときの周りの視線ぐらいしか蘇らないね畜生。
衆目がどういうものかなんてよく知っている。

「千石先輩、もうなんてこと、僕心臓が止まるかと思ったです!」
「んー…心配かけちゃってゴメンね」

居心地悪そうにまた首を振った俺を視線で捕まえて、この子は俺のことがいかにも心配ですという顔をしている。
思い切り下げられた眉、未だに水の膜の張った目、しかもそれが尋常じゃない水量を湛えているとなればもう居た堪れなくて俺は視線を上空へ逃がした。
保険医が去った後も太一君は俺の世話を焼こうと待ち構えて、口やかましい口を歪めた南が俺を部室へと連行する。

「…で?」
「あー…あー」

密度が高すぎる。
ぎろりと見つめる白ランがみっつ、そのうちふたつは卒業式と印字された花なんか胸ポケットに入れちゃったりしてる。
それにしてもびしりと刺さる視線が分厚い。
今日も今日とて部室に連れ込まれた先に俺たち三年、まあ今日までの三年生の名札の付いたロッカーは無くてそれでもお馴染の風景に多少げんなりする。
卒業式とはかくも危険なものだったか、人並みよりやや斜めに春めいた俺の脳内ではもうちょっと安閑とした印象だったのだけれど。

「話としては、アレだよ、簡単だ」
「…じゃあさっさと説明してくれ」

きっちりまとめたオールバックをかき混ぜながら東方が溜息をついている。
自然と腹に持っていく手は胃腸の具合を鑑みているんだろう。
卒業証明書の入った円筒をぽすんと投げあげて俺はううむと切れた口端を労わりながら、とりあえず口を開いた。

「んー…と、」
「埒が明かねー…、太一、何があったの」
「え、ちょ」
「…千石先輩がいきなり階段から突き落とされたですよ、ちなみに泣きわめいてる女の先輩にです」

如何にも簡素に分かりやすく、涙の引っ込んだ可愛い後輩が言い放つそれは多少の棘を含んでいる。
要するに、この時期に盛り上がる恋とか愛とか、まあそんな類を引っかき回して楽しんで精一杯堪能した俺にちょっとしたしっぺ返しが来たということなのだ。
事の次第は痴情の何とやら、後輩の言葉だけで皆まで言わずとも理解した南が眉間に深い溝を刻みこむ。
隣の東方なんか口角を引き攣らせてがなり立ててしまいたいのをやっと噛み殺してるっていう顔をため息で俯けた。

「まあ……めんご!」
「だぁほ!」
「いやいや、俺にも言い分あるんだよ?別に浮気したわけじゃないし、ちょっとその気になっちゃったカノジョが勘違いしただけ」

こういうイベントの時に否応にも盛り上がる雰囲気にのみこまれるなんて実に中学生らしいじゃないか。
俺と言えばまあ開き直った風体でそう言えば、公衆の面前で醜態をさらしたことも折り合いがつけられそうだ。
本当は内心頭よりも利き腕を庇ってしまったなんて絶対に言えないが、実にテニス馬鹿になってしまっただなんてねえ。

「俺かっこわるいなー」
「顔が変わんなくてよかったな、唯一のとりえだろ」
「まあ俺イケメンだしね!」
「お気楽オレンジめ…」
「…ばかですか」
「太一?」
「ばかですか!!」

お決まりのように溜息をついては、まあいいかいつものことだと流す素振りの南と東方を遮る声。
唐突にがつんと声を荒げた彼の声は変声期にようやく差し掛かるようなそれで、迫力も気慨も無い割に悲痛な色を映している。
寒々しい痛罵。
南がそっと彼の肩に手を遣った。

「ぞっとしました」
「……うん」
「あれほど恐ろしい思いをしたのは久しぶりです」
「うん」

正論は善であると言いたげな真摯な目は実際大きすぎて居心地を悪くさせることもあるんだと、この子は知っているのだろうか。
こういうときにちろりと俺の性格の悪さというのが露呈するのだ。

(うん、言われなくとも)

分かってないわけじゃないよ。
水の膜が張った大きな彼の瞳、己の責がどしりと頭を押さえつける。
階段から落ちる俺をポカンと見ていたこの子の顔から、ザアッと血の気が引くのを不様に倒れこんで見上げたなら尚更のこと。
嫌そうな顔をしてこの子を退けることは容易いがそれでもやはり踏みとどまる。
そして適当に肯かないのは良心よりももっと大きい何かを、太一と一緒にじっと俺を見ている彼らと確実に育ててしまったからだ。

「怒ってます、あの女の人にはすごく、でも千石先輩にだって怒ってますですよ」
「うん」

俺は彼らよりも己の愉悦を優先するけれど、俺がいつだって楽しく日々を送るには彼らがいてくれなくては困るのだ。
アンタ等が好きなんだよなんて真顔で言うのはヒヨコには荷が重い。

「ごめん」

かくりと頭を下げた俺の肩を、労わるように彼はそっと撫でた。

「ごめん、心配させた」
「はい……でも、先輩はごめんってもう10回も言ってくれたので、」

言うだけ言って、はあと溜息を吐きだして痩身の後輩は一つ瞬きをしてからそっと笑った。
へらりと笑うそれは気が抜けたような、何時も鏡の向こうにあるようなそれと同じような気がする。
俺の専売特許な笑顔、幾分純粋さを足してやればまさにそれみたいだなんて。
そうかやはり俺たちの青春はどうにも重なっているのだ。
飼い犬は飼い主に似ることがあるのに、後輩が先輩に似ることがないなんてありえない。

「気にしてないです、…ぎゃんぎゃんとうるさく騒いですみませんでした」
「んー、…ねえ、たいっちゃん」
「はい?」
「お腹空いたね」
「…はいです」

するりとほどけた空気の中、悪戯に髪の毛を掻き回してやれば実にあけすけにこの子は笑う。

「……あーあ、お前の所為でもう予約まで30分もない、早くもんじゃ喰いにいくぞ」
「南、いささかチープじゃないの」
「…打ち上げ代千石は2倍決定な」
「雅美ちゃんひっど!」





今やどこに居るかもしれぬ亜久津を探してくると言い置いて、部室を飛び出していった彼が昇降口の階段を上って行くのが遠目に見えた。

「壇君はさー…あれだね、わかいねー…」
「ハア?たったふたつしか、違わないだろ」
「そうだね、たったの2年きりだよ、でもそれだけ違ってるだろう、見てみなよ、あの子は未だにズルして階段を駆け上がる方法ひとつだって覚えてない」
「階段から落ちてベソかいてたお前が言えたことか、歩いた方が堅実だってことを知ってんだよ太一は」
「チッチッチ!大人の階段は疾走こそふさわしいね」
「…いい加減中二病拗らせんなよ」
「東方って時々性格悪いよね!」
「なんだ知らなかったのか」

でもいいさ、きっと俺たちは君からまた遠ざかる。
けれどそうすれば君はいつまでも前を向いてくれるんだろう、生き辛いだろうに。
良薬と苦みを天秤にかけて尚笑えるぐらいのオトナとは誰か。

「みーなーみー、お前の片割れが辛辣極まりないんだけど、」
「あー…つまりまだ餓鬼ってことだろ、四月にはおめでたい高校生だもんな」
「誰が?」
「……おれらが」

そうとも言う。




 深刻なエイジ



2010/12/13

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