窓の外、鈍色の空に雲間はなくて、酷く薄暗い。 一日の半分は夜の中、もう半分はほんの少しの昼間の後に夕闇がすぐさま月を連れてくる。 夕暮れと夜の国、魍魎の世界、そして此処は地下よりも獄よりも深い魔界の奥深く。 この身に闇は重すぎると彼が言うから、夜の内は眼前の大きな窓をあけることは出来なかった。 せめてわずかな昼間だけでもいいからと庭園を眺めてみたくても、テラスのあるサンルームには彼の許諾がなくては行けない。 広く絢爛に仕立てられたこの部屋に扉はなく、高い絶壁にあるこの城のこの一室から覗けるのは暗い谷底だけだ。 窓辺に沿わせたカウチに座り込んで本に向けていた視線を外す。 遠くの湖から青い月が顔を出していた。 直に赤い月に摩り替るだろう、それとも悪戯好きの蛟の仔が齧って今宵も新月にしてしまうだろうか。 紗幕を手繰り寄せて、冷たく透きとおる分厚い硝子にそっと手の平を沿わせた。 吐く息でぼんやりと白く染まった部分、つるりとした感触の上に残った靄は僕を霞ませる。 (嗚) 「……太一、」 (おかえりなさい) 音も無く、まさしく影のように城壁をすり抜けて宵闇から舞い戻った彼は低い声で僕の名を呼んだ。 後ろから絡みついてきた逞しい腕の温度に身体が震える。 ぬくい温度に触れた素肌がざわめいて、訳もなくたったひとつ零れ落ちた涙は瞬く間に啜り上げられてしまった。 「腹が減った」 (はい) 僕が頷くやいなや、彼の腕に収まったままふわりと足が空を泳いだ途端に広い寝台まで連れて行かれた。 清潔でどこまでも白いシーツの上にゆっくりと下ろされて、天蓋から垂れる天鵞絨のドレープが揺れる。 (もうお腹空いたんですか?夕べもそう言ってました) 「お前すぐに寝ちまっただろうが」 (寝ている間に召しあがったらよかったのに、) 彼は長く節くれ立った指を僕に伸ばして頬を撫ぜた。 彼の仕事が何かなど聞かなくても今でこそ少しは分かるようになった。 それでも一度だってその瘴気に当てられたことはなかった。 丹念に血みどろの両手を濯ぎ爪も牙も隠してくれている。 そして隠匿こそ、彼が誰よりも巧く為せることなのだとよく知っている。 「喰わせろ」 (待ってください、そのまえに) 僕を抱きすくめたまま獣が戯れるように好きにする癖に、それでも僕が良いと言わねば喰べない彼のそれは優しさなのだろう。 このまま彼の腕の中でまどろんでもいい、それとも飽きるほどのキスにおぼれてもいい。 どちらも僕の心を惹きつけてやまないのだけれど、彼の琥珀色は早く寄こせと急くように瞬いた。 (夏の名残の白薔薇が、もうすこし欲しくて) 「後で摘ませる」 (明日、お庭に行ってもいいですか?) 「あ?」 (僕が摘んできたいんです、ちゃんとひとりでもいけますよ) 「…抱き潰すぞ」 独りでなど出歩いてみろ、明日は手前の薔薇園で手酷く抱き明かしてやると彼は言い捨てた。 そうやって事あるごとに矯めつ眇めつ態と怖い言いざまをする彼が、僕の額にかかる髪を掻き分けて唇を当てる。 否と言えばそんなことしない癖にと知っている狡い僕は、彼の所作にほんの少しだけ笑って、絡む彼の指を引き寄せて胸に抱いた。 (じゃあ、お昼寝は止めて一緒に行ってください) 「…めんどくせえ」 (リコリスの庭園も一緒に) 深緋のリコリスが群棲する艶やかな庭園で、たったひと時だけまどろみたいと願えば彼はただ黙しただけだった。 それを彼の肯定として受け取って、僕は役に立たぬ口を動かして、随分前に死んだ声で彼に告げる。 (ね、あくつさん、次の夏はひまわりもほしいですね) 「…ヒマワリ?知らねえな、どんなのだ」 (黄色い、背の高い、陽の光が好きな花ですよ) 「外じゃ死に枯れる」 (じゃあお城の中で頑張ってみます) 「創りゃいいだろうが」 (枯れない花なんて本当はないんですよ、それに、強い花ですから大丈夫です) 「そうかよ」 (花籠にしますね) 「好きにしろ」 時を止められ、死せることのない美しいだけの庭園を、彼は僕のために幾つでも創り上げるのだろう。 自然に生きる儚さにある強さも哀しさも美しさも知り得ない、滅びる花と朽ちる草木に何を見出すのか知れぬと彼は繰り返す。 では僕のような脆弱に何を見ているのかと問えば、己がお前を枯れ零すことなどあり得ぬ、させるものかと彼は昏く嗤う。 「永劫お前は死なねえんだよ」 (はい) ああ、僕はもう、とうに狂ってしまっているのかもしれない、怖いことを言うその声こそ酷く優しいような気がするのだから。 伸ばした掌を覆って引き戻す腕が絡む、彼は灼けつくような眼をする生きものだ。 禁忌に怯えて罪を掻き集めて隠しても暴いてしまう、彼はひどい生きものだ。 鋼よりも硬く強く誇り高い獣、禍々しく美しい黒翼を広げ惨劇の種を撒く、そういう世界に巣喰う生きものだった。 「…渇いた、喰わせろ」 (噫) 世界が違った、種も違った、心の在り方も、背負うものも。 戒める僕の背には白い二翼が在った、そういう生きものに産まれついた。 出逢ったことを泣いて、捨ておいてくれぬ彼を恨んだこともあった。 それでも這うようにして身を捩って求めた、恋いし乞いしくとも何もかもが彼と己を隔てたというのに。 沈むことを知っていても恐ろしくても、触れることもままならず況してや、いとおしいとは口が裂けても言えずに。 だから思い知ればいいと思った。 僕の方がよほど悍ましい生きものだと最期ぐらいはせめて彼に知らしめてやりたかった。 三千の異界を従えて、血濡れの剣と傲慢な覚悟を携えた彼が、手を伸ばすのは己だけと誓え、そう怒鳴りつけたあのとき。 肉も魂も心も余す事なく思想すら全て捧げろと、屠る牙を強いたあのとき。 僕は僕に審判を下した。 いいえ、と。 決して出来ないのだと、膝を折った。 だからこそさし上げられるものはただ一つだけと、微笑んだ。 ただ一つ以外は何もあげられぬと叫び、そして千切り取ってみせた純白の両翼。 血潮の中で這いずって戒めるものがなくなったその一瞬、愛していると初めて告げた。 国も神も同胞たちもそして惨たらしい愛すらも、全て抱えて手放せなかった僕が切り捨てられたのは己の命だけ。 消滅を以って、たった一度の愛の言葉、彼にあげられるものは唯一それが全てだった。 薄れる意識の中で、咆哮を聞いた。 (どのくらい、しなないのですか) 「…未来永劫と言っただろうが」 (何故です) 「俺がそうするからだ」 何故己が生きているのか、目覚めた僕の問いに、彼は遂に答えをくれなかった。 翼を失った肉体は諸ともに滅びるという理。 彼が何をしたのか、どんな対価を支払ったのか、何故僕が生きながらえたのか、なにひとつわからない。 恐らくはこれからもそうなのだろう。 今や全て記憶すら霞んだ遥か昔の出来事だ。 僕は天の使徒である証を亡くし、彼は僕を攫いこの城の奥に隠した。 千切り取った両翼の痛みで僕の声は死に絶えていた。 それでも計り知れぬ彼の魔力は僕の声を彼だけに届くようにしてくれた。 二度と戻れぬ天の国を夢に見て、喪った両翼の痕が痛んではもがいた。 陽光で生きてきた己の身にこの地は胸がつぶれるくらいに苦しい。 苦痛と悲壮に悶えては嘆き傷んだ。 身体中がふるえるほど苦しんで、苦しんで、そんな己を抱え慰み撫でる彼が愛しかった。 そして幸福だと泣いた。 僕の背の酷く醜い傷を撫でる彼を僕は愛している。 首筋を辿った彼の舌先が燃えるように熱い。 「太一、」 (あ、あ、…ああ) 吸い付かれて優しく歯を立てられて痛みも無く。 甘く痺れて彼の牙が鎖骨に沈む。 啜り上げて舐めねぶる僕の血で染めた唇、琥珀が燃え盛り吐息に乗せた睦言、僕を欲する彼が激情を零す。 飲み込む喉を鳴らして魂を交えてやろうと笑う。 (…すき、すきです、…すき) ばさりと優雅に揺れた彼の黒翼が僕を包み隠す。 「足りねえよ」 (ああ…!) それでは足りぬ俺を求めろ好きと言え、飢えた獣の溜息で今日も彼は囁いた。 (あいしているとちかえ)
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