*人外パロ! <序> それは卵だった。 「ああ…」 つるりとした、象牙色の小振りだが光沢の在る卵だった。 僅かな戸惑いを頭の隅に追い遣って、僕は掌の卵をそっと静かに、殊更丁寧に撫でた。 目覚めたまま霞む視界の中で捉えた僕の掌に忽然と息づいていたこの卵。 前触れも兆しすらない、いのちの誕生は星読みですら予言できない理。 噫、そういえば、卵は温めないといけないのだった。 そう思い当たって、慌てて僕は赭色の絹繻子で柔く、それを護る様に幾重にも包み、恐る恐る撫で摩りながら大きな暖炉の側に座りこんだ。 毛足の長いワイン色の絨毯が心地好く僕の躯を受け止めてくれる。 ふわりと辺りを舞った幾つかの羽を掻き集めて、卵に纏わせてから翼を静かに仕舞いこんだ。 「きみは真っ白ですねえ」 無造作に散らばるクッションを引き寄せて背を預けて、僕はやっと安堵することができた。 暖炉で穏やかに爆ぜる薪を暫く見つめていると、赤橙色の炎が僕の頬を取り巻き渦巻く様に照らす。 僕は意識総てを掌の存在に注いで、卵を極めて優しく扱っていた。 もう手放すことなど出来ようも無い。 「…きみは、おとこのこですか?おんなのこでしょうか?瞳のいろは、藍色かしら、ううん、やっぱり琥珀色かもしれませんね、じゃあ髪は、声色は…」 噫、囁く様に卵に問う。 こっそりと祈り望んでいた僕に神が慈悲を下さった、もう何百年も願い続けてきた僕の唯一。 「たとえこの翼を喪っても、…きみを護ると誓います」 だからどうか元気でその命の容を見せてください、どうか、どうか。 精霊の間で伝わる祈りの文言を囁きながら、僕はありったけの霊力をこの仔に捧ぐと誓う。 この青白い指先が惜しみ無く慈しみだけを伝えればいい。 この白磁の卵は、愛しく切な気で、大切な証であるのだ。 頬が緩み、ともすれば潤みそうになる瞳を細めて、卵の艶艶とした照り返しを嬉しく想った。 これは須らく僕が産み育む為のいのちだ。 この仔は彼と僕との合の仔なのだ。 蕩ける様な欲深な想いが実を結び歓喜と成って、暫し僕は満ち足りていた。 存分に微笑い、卵に他愛無い事を語り、返り事が無くとも構わない、ただ嬉しくてならない。 「…ねえ、きみのおとうさんはね、実は神さまになった方なんですよ」 そしてもう一人の血親の事を語ろうかと思い付き、彼の名を告げようと紡いだ声で、僕は事の重さに愕然と我に返った、思い出した。 「ああ…!」 己の遅すぎる気づきに、愚かな僕の胸の底がぎゅうと締め付けられる。 先の僥倖を容易く奪い拭いながら、絶望がひたりと背筋を這い浸してゆく。 噫、僕は彼に云えていない、彼は知らないのだ、僕の願いを、この卵のことを、このいのちを。 同時に、隠して仕舞っておきたいこの身の脆弱さを。 揺らぐ赤丹蝋が朧げに照らす、僕の掌のなんと頼り無いことだろう。 強張る貌で、内側で僕と合歓する愛おしい卵を見つめた。 「噫、…彼が卵を望むと云い切れない、僕を望むと云い切れない、」 記憶の向こうにあの男を描き、僕の想像は昏く凍てつく闇へと飛躍していく。 もし、あの琥珀色の瞳で、怜悧な声色で、この卵を要らぬと裂かれたら。 もし、気高いあの腕で打たれ、殺して仕舞えと見捨てられたら。 彼が、憎々と残酷に嗤う姿を思い描いて、次第にぶるぶると躯が震え、ぜえぜえと喉の奧が嗚咽する。 「そんな、こと、は、ない、ない、あの方はそんなことは云いません!嗚呼、」 云い聞かせる様に放り出した声は大きく、高く木霊した。 卵に頬を押し当てる、ひやりとした、どくりとした、鼓動した。 駄目だ、抑えきれない、滂沱の如く嗚咽に任せて涙は溢れ、零れ、幼子の様にわあわあと掠れ喚いた。 ぼろぼろと頬から滑る滴に溶けきれなかった悲しみが青い珠玉に変わって転がり落ちる。 だいじょうぶ、だいじょうぶ、そうだ、あれはそう云う性分の男ではない。 戀しいと云ってくれた、掌で、眼差しで、吐息で睦言を囁くあの男が、そのようなことを、酷薄なことをするはずがない。 そうは想うのに、信じて祈りたいというのに。 だが、分からない、彼が何と云うのか、どのように判ずるのか分からない。 僕の卵、僕のいのちの仔、万に一つも、孵るはずの愛し仔の貌がこの眼に出来ぬようなことがあったら。 己の止らぬ涙で卵を濡らし、冷やしてはいけないと想うが躯は云う事を聞かない。 「ああ、噫噫!」 雫を吸う、卵を包んだ両手はそのままに、僕は一際大きく、悲鳴の様に産声の様に泣き声を張り上げた。 そうして、堪らなく成って彼の名を叫ぼうとした刹那、轟、と、風が吹いた。 僕は眼を見開き、振り向いた。 滲んで朧ではあるが、天蓋のように巡る深緋の天鵞絨を見上げる。 (…太一!何処に居る!) 重た気に揺れるヴェルベットをすり抜けて凛とした馨が辺りを包む。 微風に乗って確かに届いたその声を僕は知っている。 彼は燃盛る焔だった、彼は凍てつく光でもあった。 凡庸で脆弱な精霊の一端でしかない僕とは比べものにならない。 より高みへと瞬く間に上り詰めその威を轟駆けさせた、神格と畏怖の化身。 今や四精霊の神に名を加えた彼は僕の対のひと、長く永い時の伴侶。 そうして今、その彼が来たのだった。 炎風と馨を纏わせて大股で此処へ向かい来る白銀色の男。 僕の泣き声を聞いたのか、僕の涙を見留めたのか、僕に近付くに連れて険しく歪む其の貌が、狂おしく畏しくて、 動こうと、逃げようとする間も無く眼前に腕が伸ばされた。 「…太一、」 「あ、くつ、さ…」 ヴァリトンが、僕を探る様に強く重く声を紡ぐ。 僕に覆い被さる様に彼は屈み、素早く僕の躯に回した逞しい腕を引き寄せた。 嗚咽を喉の奥で絞殺して僕は、為す術も無く彼の胸に掻き抱かれる。 琥珀石のような真直の瞳が、僕を射抜く様に焼け付く様に見つめた。 精悍で鋭利な貌が歪み、焦燥と怒気が浮かぶ声で矢継ぎ早に問うて来る。 「…何を泣いてる」 跪き、背に回された寛い手は僕を撫でて、しかしそれでも拒絶を許さないように爪が食い込んだ。 それでも僕は頑是無くどうにか首を振り、身を捩り膝を震わせた。 俯いては泣き、その腕から逃れようと必死に抗った。 知られてはいけない、弱いだけの仔供でいたくない、然し隠してはおけない。 卵を包み、震える両手を己の胸に隠す様に抱いて、僕は彼の馨にこんな時ですら安寧を見つけだしている。 一体どれ程情けなく弱い生き物でいれば気が済むのだと己が悲しくて堪らなかった。 「青い涙珠だア?…ふざけんじゃねえ、何を隠してる」 僕のか細い抵抗など去なして、遂に冷気を纏った彼が絨毯の上の涙から生まれた蒼玉を踏み砕いて僕の合わされた両腕を掴んだ。 深い痛み或いは生命を擦り減らす悲哀以外では生まれぬ石を見た彼の峻烈な冷気が僕を取り巻く。 「…待っ…」 泣き声で、厭だと叫んだが、有無を言わせぬよう彼は振り解けない強引な仕草で僕の掌を拓いてしまった。 揺らぎが立ち消え、寥々と辺りが静み、風が一瞬だけ止んだ。 銀朱を織込んだ繻子を剥き、あでやかな月白に照る卵を彼はその瞳に映していた。 ひゅうと彼が息を呑む、そして見開かれる琥珀の眦。 噫、此の卵を知られてしまった、彼は総て悟ってしまった。 僕は息も絶え絶えに、云い募る言葉は言葉にすら成らず、 「…僕の、僕の、卵、…とりあげないで下さい、この仔は僕の、」 ただ手放すわけには行かないと懇願した。 噎び泣き、攫まれ凝視されている刹那の恐ろしさを嘆いてもそれでも譲れない。 何も云わず黙して居る彼に、僕の卵なのだと繰り返した。 己に何が出来様か、判ずるのは彼だ、支配するのは、統べるのは、彼だ。 数秒か数十秒か、分からない内に痛む喉から喘ぐ声すら嗄れたころ、彼が貌を上げて綺羅めく剣のような瞳が僕を捉える。 その唇が何かを紡ぐ。 ぶわりと、辺りに立ち篭める馨が蜜を増した。 芳香が、果てなく、甘やかに爽やかに実り熟れた果実の様に馨った。 氷柱を砕くような風が、突然熱を帯びて、燃え盛る様に僕の躯を包んだ。 「…!」 驚嘆し、感歎したのはどちらの声であったかは分からない。 ただ彼の瞳は色目き立って、腰に回された掌に力が籠った。 縋る僕の貌は如何仕様もなくもうくしゃくしゃだ。 「…何故隠したりした、」 「だって!怖かったんです!貴方が望むと分からなかった、でも僕はずっと、」 「お前が望んでたことなんて知ってたに決まってんだろ」 「……っ、じゃあ…」 「要らねえなんて云う訳ねえだろうが、」 押え切れぬ声色で、確かに穏やかさを滲ませて僕の名が呼ばれた。 僕も卵も丸ごと抱き締めた寛い腕の中、華やいだ馨が悦び、穏やかな熱を孕む風が僕を慰撫してゆく。 よかった、これでもう何も怖いことなんてない、本当によかった、僕はもう何処までも舞い上がれるようだった。 大きく溜息をついて、不器用そうに恐る恐る触れる彼の指先。 深く慎重に、然し品やかに長い指が卵に触れた。 卵に、倖せを、慶びを伝えようと触れている。 祈りは届いた、総ては杞憂で彼は僕を愛している、この仔を愛している。 枯れ果てたはずの涙も再び僕の安堵と歓びを以て濡れて頬を伝っていった。 口を開いては閉じ、何と伝え様かと迷った末僕は泣きながら笑って只彼を見つめた。 「…お前のだけじゃねえだろ、俺とお前のだろうが」 だから如何し様もないことで苦悩するなと言い含めて彼は僕の涙を啜り上げて仕舞う。 僕を歓喜とこの上無い宝幸で慰む言葉を、このひとは呉れた。 貴方と僕の卵だ、そうそれだけ、それだけが欲しかった。 それだけ罅割れた唇で伝えて、縋る手に幸せな温度が戻る。 この手にしたいのちは、あなたの血を受け継いで産まれた、僕のいのちを注がれて産まれた。 擦り拠った躯も卵も、この瞬間に総ての幸いに浸かった。 彼は焔を含んだ風を柔らかく鎮め、甘く芳しい馨を増々蜜のように纏う。 「…泣きたいだけ泣いとけ、この時をお前と五百年待った」 「はい」 まさか授かるとは思えなかった、それほど彼も僕も罪深い業を生きてきたからだ。 だがそれでも確かに新しいいのちが此処に在る。 彼は、僕に囁いては、卵に囁く。 眦を染めた僕の目許を舐めては愛で、頬を撫でた、躯を撫でた。 熱い掌のひと、強い心のひとだ。 「…ねえ、すきです」 「知ってる」 為すが侭の僕はくすぐったさに笑ってそして声をあげて啜り泣いた。 「泣きすぎて目ェ溶かすんじゃねえぞ」 「はい」 彼が僕を抱き上げて濡羽色のマントを翻した。 決して傷つけぬように、幽かな揺れでさえ赦さぬと緋色の天蓋が自ら開き路を作る。 卵を抱いて温めないといけませんね、そう云い乍ら緋牡丹の寝台で僕は微笑む。 幾重にも織った絹を寝台に用意しながら彼は僕と卵を覗きこんだ。 「要る物を云え、総てお前の良い様にしろ」 浮き世総ての贅沢に優る幸せはこの腕に在る。 彼がほんの少し笑って囁いて、瞬きもせずに此方を見つめていた。 それが嬉しくて仕方なくて、僕は暮夜に忍び込む仄白い月灯と卵に頬を寄せる。 「ねえ、亜久津さん……此の世の総ての僥倖をください」 この世すべてのしあわせをください。 此の卵に、貴方と僕の仔に 「くれてやる」 即座に諾と云い放ち、僕と卵を抱く僕の大切なひと。 濃密な芳香花が絡まる様にひとひら舞い落ちて、微かな風に浚われてゆく。 彼の名を呼ぶ。 零れ落ちた先で照り光る純白の珠が重なった。 天泣と卵 |