如何してこの人なんだろうと、ただ純粋に疑問に思ったことはあった。 あの頃はただ彼を見ていられればそれでよかった、満たされた。 過剰なまでの憧憬だったと思う、そして疾走するかのように追いかけた。 突き放すように導いてもらったこともあった。 だから何も考えずに突き進めばよかったのだ。 爆ぜるような想いだったあれは、恋に似過ぎた憧れで決せられる想いだったのだろうか。 それとも、あどけない憧憬を織り交ぜた拙い恋情だったのだろうか、今でもよく分からない。 それでも彼を想い描けば苦しくて、そして日々は明るく楽しかった。 だから浅いところで呼吸をして、思うままに幼く居た。 それは確かだった。 僕がそっと見渡せるだけの世界はあの頃より広く深く、そして僕は其処で生きていく。 立ち止まっては戸惑って、どうにか奮い立たせて前を向いて生きていく。 昔と同じように置いていかれるのは哀しいまま、見捨てられるのだって恐ろしいまま。 それでもあの頃の様にはいかないのだ。 彼は僕に手を差し伸べて、そして僕の腕を掴み取ったから。 腕はまるで癒着したように彼は僕の手を離したりなどはしない、けれどただ僕が立ち止まることを許してくれるのはいつまでだろう。 蹲り、歩くことを厭うた時だって、この人は僕の腕を離さないと知っている。 今更嫌だと叫び喚いたって、腕が引き裂かれるように痛んでも、彼は僕の腕を手離さないだろう。 ねえ、引き摺られるのだって本当は酷く怖いって、泣いて逃げ出してみたりできるほど、子供でいられれば良かった。 強くいられるとは思わない。それでも弱いだけではいたくない。決して。 窓辺から満ちていく柔らかな日差し、秋口の午後はとても穏やかだ。 「…ああ…、豆がもうないかな」 開けて覗きこんだ戸棚の中で缶入りの珈琲豆がもう少なかった。 コーヒーの一つも作れなくなってしまう前に買い足しに出かけないといけない。 昼食を作った後に買い物にでも行こうかと考えながら青林檎を一つ手に取った。 「…亜久津先輩、御昼の後に買い物に行きたいんですが」 彼にそう提案を投げかけてみても僕を包む静寂はそのまま、リビングのテレビの音もいつの間にか消えている。 返って来ない返事を不思議に思って、僕はキッチンの方から部屋を覗いた。 ソファの上、寝そべっているのだろうか、彼の鮮やかな銀色が見える。 「あの、せんぱ…、」 再度呼びかけようとした最後の一文字は、思いがけず口の中で消えてしまった。 長身を横たえて閉じた目、穏やかに繰り返される静かな呼吸、彼の手からは雑誌が滑り落ちていた。 「先輩…?」 そっと、自分にだけ聞こえるような酷く小さな声で囁いてみる。 やはり返事はなくて、彼の目蓋が震えることも無かった。 それをよくよく確かめてから、ゆっくりと静かに絨毯に座りこんで彼の顔まで視線を降ろす。 どうしてだろうか、もう見慣れたはずの彼の寝顔なのに、その度にどこか新鮮な気持ちになってしまう。 こうやってまた心が賑わいで幾分早くなった鼓動を隠しながら、彼を見つめることは何時までだって飽きないのだろうと思う。 「うーん…」 熟睡しているならば大丈夫だろうかと悪戯心が沸いてきて、自然と笑みが零れていく。 そっと忍び寄るように指を伸ばして、何時もより柔らかい髪に指先を滑らせた。 ああ、彼はオフの日はワックスで固めないんだった、そう思い当たったのもまた少し可笑しくて嬉しい。 下ろされたままの彼の前髪を慎重に払って、綺麗に染められた白銀色が手のひらを通り抜ける。 「…ねえ、先輩、知らないんでしょう、」 小さく、告白を惜しむように口の中だけで呟いた。 (今日は何時もより全てがやわらかい空気の中で生きている気がするんです。 精悍で鋭利な印象を持つ貴方ですら、少しだけ幼く見えるほどに。 長い睫毛に縁取られた貴方の顔がきれいで、ほんとうに、) 「僕はそれをずっと好きでいるんでしょうね、…きっと」 でもそんな事、知らないで居るんでしょう、ずっと。 小さく囁く告白が切なくて、そっと彼に手のひらを重ねた。 一瞬、彼の睫毛が揺られて目蓋が震え開かれる、僕を映す琥珀色の瞳。 「あ、…」 咄嗟に離れかけた手を捕まえられて、少し掠れた声で彼が小さく問うた。 「…なにをだ」 あたたかな空気をそのままに、彼は僕の手も瞳も捕まえたまま軽々と僕を抱きよせる。 急に逃げ場を優しく取り上げられてしまったみたいで、いたずらを見つかった子供のような気分だ。 僕の手のひらに滑り込んだ彼の節くれ立った長い指を、誤魔化すように撫ぜた。 「俺は何を知らない、」 そっと髪を撫でていた手をつかまえて、彼の低くて甘い声に首を振る。 髪を撫でる指先の触れ方が何時もみたいに優しくてあやすようで、目を閉じた。 耳元に落とされるひそりとした声がまだぼんやりとしていて、まだ眠気から完全に覚めていない彼に少し安堵する。 額に、頬に、滑る柔らかい感触、それが大好きだって告げてしまいそうだったから。 「太一、」 「…はい」 吐息のように名前を呼ばれて、彼の胸に凭れかかるのと同時にぎゅうと抱きしめられた。 鼻先を擦り寄せて頬を寄せると、彼の鼓動が奥底まで響く。 僕の内側を、僕の世界を支えて揺さぶる、憎らしくて愛おしい音、いっそもう鼓膜の内側に住み着いてしまえばいいのに。 「…なんでもないんです」 何時までも先の問いに答えない僕を咎めているのだろうか。 首筋を探られて、くすぐったさについ笑ってしまった。 心の柔いところに滲むのは彼の存在全てで、余すことなく包んで欲しくなる。 でもこの弛む陽溜まりの中で暴かれてしまわれないように彼の唇に触れた。 彼が赦してくれるように。 「…眠い」 「でも、買い物に行かないと、」 一つ諦めたように彼は息をついて、僕を抱きとめる腕に力を込めた。 今だけは赦してくれるらしい。 いつの日か心ごと解き明かされてしまうかもしれないけれど。 それでも慈しむような琥珀色に、たった少しの猶予をもらって彼に手を伸ばす。 ぬくい体温、髪に落とされたキスがどうしようもなく切なかった。 「寝る」 「…もう、」 うららかな日和の中、僕は結局買い物には行けずに午睡に留め置かれてしまうようだ。 何も答えずに与えずに僕は口を噤んだまま彼に譲歩させてしまったのに、その上彼の腕から抜け出すことなんて至難の技だろう。 それにもう僕は彼の穏やかな心音に呼ばれてしまった。 「分かりました、…おやすみなさい」 「…ああ」 穏やかに肯いて彼は僕をあっという間に抱きあげて彼とソファの間に収めてしまう。 優しい温度で守るように、全ての逃げ道を塞いでしまうように。 彼の唇が目蓋に滑るのを感じて、目を閉じたまま、僕はそっと。 「……明日のコーヒーはなしですからね」
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