ぬめる空気が重たく立ちこめる。
濃紺、白、時々薄い赤、真っ黒い眼。
それ以外を引き剥がして連れ込んだ。
そして熱の中に沈んだ。
優しさだけを示して愛せるのならば、それが最善である。



Sisyphos




初めは茫然と眼を瞬かせていたが、しばらくすれば太一は困ったように笑って現状を受け入れる。
生白い肌を薄紅に染め上げた彼の声は、いつものように高く涼やかだ。

「…せんぱい、お風呂に入る時はちゃんと着替えを用意してくださいよ」
「必要ねえだろ」
「…もう、」

どうせ脱ぐと亜久津に言われてしまえばまさにその通りになるのだから、太一はまた言葉を飲み込んで笑った。
バスタブに溜められた湯が二人分の体積を以てして勢いよく流れ落ちる。
湯が勿体ないなあと太一がぼんやりした意識で考えれば、その思考を攫おうと亜久津の腕が抱き直すように動いた。

「…ねむいです」

湯船の中でまどろみそうになる意識を引き上げて、太一は夜明けの近い空を仰ぐように窓に視線をやる。
見上げた擦りガラスの向こう側はほんのりと白んできていて、随分と長く彼らが唯ふたりきりの世界に沈んでいたことをこれ見よがしに教えていた。
唐突に、太一は自分の目元を何かに堪えるかのように覆う。
その白い掌を亜久津が目を瞑ったまま絡め取った。

「せ、…せんぱい、いいんですよ僕は大丈夫です、だって僕男ですよ、…多少は丈夫になったでしょう僕、」

縁に凭れかかっていた亜久津の掌が頬をなぞると太一はまた目を潤ませてしまわないように身を捩った。
まだうまく割り切れないように俯くが、太一のささやかな抵抗など軽くあしらわれて終わる。
そっと拭われるのが切なくて情けなくて恥ずかしくて、ただそれだけで誤摩化すように太一は早口に捲し立たてた。

「違うんです、なんだか涙腺が馬鹿になってるようで、っ」
「泣くか話すかどっちかにしろ」
「ああもう、いい歳して情けな…っですね…嗚呼」
「…いっそ喚け」

己の吐く泣きごとを手酷く切って捨ててくれればいいと密やかに願いながら、態と辛辣な事を繰り返しては太一は自分に見えない傷をつけてみようとする。
その都度亜久津が太一から零れる言葉を性急に飲みこんでしまう。
だからいつになっても彼が太一の見え透いた願いを叶えることは無かった。
亜久津は太一の言葉を見落として一人で沈ませないように、普段は使わない語彙を引っ張りだして隠れてしまいそうな太一を両腕で抱きとめておく。
唇を吸われてしまえば太一は嗚咽に痩身を震わせて、棘の立った無作為な言葉も亜久津の舌に喰われて消えた。

「ちょっとやそっとじゃ僕は壊れたりしませんよ」
「知ってる」

おんなのこじゃあ、ないんですからと一週間前と同じことを言いかけただろう唇を素早くふさいで亜久津はそのまま太一の頬を舐めあげる。

「くだんねえこと考えんな、お前が貧弱だなんて思ってねえよ」

そうでなくば暴いたりなどするものかと舌打ちを噛み殺して、亜久津は湯船から太一を抱き上げ脱衣所に運ぶ。
そのままぺたんと床に座り込んだ太一を探り当てたタオルで拭えばぱさぱさと軽い音を立てて、彼は天井を仰ぎ見た。
大きなタオルに包まれて太一が猫のように頭を振る。
垂れた水滴を払って、亜久津は未だに何かを言い募る太一を見る。

「……先輩、僕は先輩に何もあきらめてほしくない、です」
「俺が?…欲しいと思ったもんを諦めるわけねェだろ、必要ないもんはいらねえ」

欲しいものを欲しがらないのが諦める事だが、初めから欲しくないものは諦めようも無い。
亜久津は太一をその腕の中に仕舞いこんだときから、壊れそうなおんなを欲したことも、何かを産み出すための意義も、誰かからの祝福も欲したことはなかった。
それでも亜久津と太一の精神は大人として別個でそこに生きている。

「ぼくは、…ねえ、先輩、何時だって、…あくつせんぱいはつよいままでいてくださるんですね、」

良識の範疇で生きて、多くの人間が構築した社会を汲み取る太一の理想の先に、亜久津にとって己以外との未来が正義なのではないかと、疑念が仄暗い影を生み育てる。
こうして生身の身体で奥底まで委ねてしまえば、どこまでも満たされる、そして大人になった今尚恐ろしさも同じだけ募った。
すらりと伸びる細い手足、生白く光る肌、明度を落とした灯の下でも太一の濡れた頬が見えた。

「何が言いたい」
「…おかしいことばかりですね、…せんぱいのせいにしたいんじゃないです、只…」

関心の一切を太一そのもの全てから外したことも無い亜久津に言わせれば、いかにも愚問だった。
太一の心を沈ませるものは何か、それを招くのは己の言動すべてに起因していることも余すことなく亜久津は知っている。
知っていながら、亜久津は太一の罪悪感にすら己の内側が暗く悦ぶのを止めなかった。
それを削ぎ落として砕けるのは自分だけだからだ。
似たような事を訥々と告げる太一を抱き上げてベッドに連れて行く。

「…面倒だと思いませんか」
「簡単なことなんかねえよ」

面倒でも、非生産的でも、お前を俺で占めておけるならそれでいいだろう、それが全てだ、それが己の正義だ。
亜久津が慙愧の念に捉まるわけもなく、それどころか次の瞬間には太一の思想に取って代わる自分を思い描いてすらいる。
砂粒程度の罪悪感すら感じずに、ただただ欲しいものが湧き出る己の貪欲さに亜久津は笑い出したかった。

「先輩?」

酷薄に口角を引き上げた亜久津に戸惑いながら、太一は大人しく所在なさげに指を遊ばせている。
滑り込んだ寝台の中、亜久津に向かい合って彼はやっと人心地ついたように溜め息をついた。

「…好きって言ってください」
「じゃあ抱かせろ」
「僕、ねむいんです、」

亜久津は捻くり回した太一の議論を全て聞いてから、結局は子供みたいな事を思った。
真正面から論破するにも全てが手遅れ、その上ここはどこよりも居心地が良すぎる。
シーツがひやりとふたりきりを包んで、唇を合わせたまま心を締め付ける睦言を亜久津は太一の耳に滑り込ませた。

「嗚…」

ついに涙の最後の一滴まで啜られて何一つとして切り捨てられなかった己の弱さをぼんやりと考えながら、太一はゆるりと吐息を逃がす。
未だに濡れたままの髪を撫でたり梳いたりしながら亜久津は太一の言葉を待った。

「おやすみなさい、……でも、亜久津先輩、ベッドの中だけでいいんです、どうか置き去りにして欲しかった、何も考えないように」

自分の居場所を、苦しくはなくても擦り抜けられない強さで囲う腕の中で探す太一を見て、亜久津は冷たい髪に口づけて電気を消した。
目をつむった太一の告白に一つ首を振って、亜久津は上澄みの優しさで触れてやりながら眠る。
そして、せめて彼に己の残酷な顔が見えなくてよかったと慰めにもならないことを思った。




2010/10/30

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