肆 崩壊、そして喪失
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『霧隠才蔵』の名を教えてもらったあの日から数日後。


月明かりのきれいな夜だった。




異様な息苦しさと明るいのに暗い景色の中、私は目を覚ました。


「……ん……母、上…?…父上…?」

今夜は母さんも父さんも帰ってきているはずで、三人で眠っているはずだった。

「…起きたのね、無月丸。ごめんなさい。少しお客様が来てしまっただけだから。…あなたは絶対にこの部屋から出ては駄目よ」


天井から、天井から(大事なことなのde略)私の隣に降り立った母さんがそう言って私の頭を一撫でして、また天井へ姿を消した。

どうやら何かよくない事が起こっているみたいだ。




言われた通りに部屋の中で気配と呼吸を押し殺して耳を澄ませば、ほどなくして、金属のぶつかり合う音が聞こえた。


嫌な音だ。
そう思って、早く終われと願った。



それが続き、どのくらい経っただろう。
極度の緊張のせいで時間の感覚がない。



がらり。


唐突に、襖が開いた。


「…餓鬼が一匹…」


前世のテレビくらいでしか見たことがないような真っ黒な忍装束に身を包んだ男が、里桜を見下ろしていた。


頭の中で警鐘が鳴る。

後ろに下がろうとした、その瞬間。
景色がぶれた。

◆◆◆


自分の腹に太い腕。
頬を撫でるのは、血生臭い風。

首筋に感じる冷たい圧迫感は、クナイだろうか。



現状を理解して、体が末端から冷えていく。


心臓が、音を立てて鳴る。


その場の濃密な殺気と死気に、息が詰まった。



「この餓鬼を殺されたくなければ武器を手放せ。」
不意に頭上で放たれた声が、消えかけた里桜の意識をつなぎ止めた。


そして暗闇に馴れた目は、複数の人影を捉える。



何人もの黒装束が囲んでいる、その中央。


「っ…父上っ、母上っ!?」


見間違えるはずがない。

「無月っ!?」
驚いたような父さんの声。

続いて、何か硬いものが地面に当たる音。


「父上!?母上!?っ、離せっ!父上!?…」



―――。

ザクリともザシュともつかない鈍い音が、やけに耳に響いた。





サァァァ。




生ぬるい風が、血の匂いを撒き散らす。
生暖かい液体が、離れていたはずの漓凰の頬にかかった。


見たくない。

なのに、やけにはっきりと目に映る。





崩れ落ちる、両親の、姿。






「え……?………はは、うえ……?……ち…ち……、…う、え……?……………………」



音が消えて。



色が失せて。



唯、ただ、アカだけが、視界を覆った。



「……あ………ああ…………あああぁぁあ……!」



「この餓鬼はどうする」
「素質もあるようだし、このくらいの歳ならまだ鍛えられる」
「そうだな。連れて帰るか」

そんな会話も里桜の耳には届かない。
脳が全てを拒絶していた。



「ああ゛あぁああぁあ゛ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」



ぶわり。




噴き出すのは、夜闇よりも冥い闇。
それは里桜の身体から滲み出て、里桜を捕まえていた男に絡みついた。


「!?」
「なんだこれは!?」


「ぐあぁ!?」
闇に絡みつかれた男が呻き声を挙げる。

「っ!闇の婆娑羅か!!」



「ああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
里桜の叫びと共に闇が膨れ上がっていく。


「その餓鬼を止めろ!!」
「わかっている!」
「ぐぁっ…」


里桜を捕まえていた男が、生気を吸われ苦悶の表情を浮かべながらも、力を振り絞って里桜に手刀を叩き込んだ。


「あ、あぁ……ぁ……ぁぁ……」



「っ…はぁっ、はぁ」
「やっと、治まったな…」
里桜が気絶したのを確認し、安堵の息を吐きながら、男たちは話し合う。


「やはり殺すべきだ」
「だがしかし、この歳でこれ程の婆娑羅を開花させたのだ。今すぐ殺すのは惜しい」
「しかし、逆に里の脅威となる可能性もある」
「連れ帰り、今一度長に判断を仰げばいいだろう。長居は無用…行くぞ」




一陣の風が吹いた。

風が収まった後には、何も残らない。


男達の影も。


死力を尽くし抗った二人の男女も。


三人の家族が住んでいた小さな屋敷も。



何も、残らない。




◆◆◆



――軋んだ音を立てて襖が開く。

部屋の中央に座り込んでいるのは、まだ年端もいかない男の児。

ゆっくりとこちらに向けた瞳の奥には、虚無しかない。

その瞳と向かい合ったのは、まだ三十路に届くか届かないかの歳の青年。
彼は、一瞬目を伏せ、また幼子と目を合わせた。

「お前の、名は?」



「…………………………………………………」




幼子は答えない。

その瞳はどこか茫洋としていて、果たして男の声は届いているのか。



「…………き……。…………………………無月丸…………」


それでも辛抱強く待っていると、ようやく幼子は答えを返した。

「無月丸、か…。俺の名は、百地三太夫。…お前の師だ」


青年…百地はそう言って記憶と感情を失した幼子の頭を撫でた――――。


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