壱 薄氷の上の日常
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「里桜ー。洸ー。買い物行くわよー」
階下から母さんの声が聞こえる。
「はーい!だって。行こう、姉さん」
洸がそう言って遊んでいたゲームを片付けた。
二人で下に降りて、母さんと父さんと車に乗る。今日はこれからデパートに買い物に行くんだ。
今日は5月11日の土曜日。デパートは当然混んでいて、でもセールだったから母さんが張り切っちゃって、食料と服を入れたビニール袋がいっぱい。
全部車に詰め込んで、弟のサッカーシューズを買うために、次はスポーツ用品店に向かう。
そこまではありふれた『毎日』の中にあったんだ。
スポーツ用品店に行く、その途中。
信号が赤になって車を停止させた。
信号が青になる。
車が走り出した瞬間。
車が一台、ものすごいスピードで角を曲がってきた。
車を運転していた父さんが、それを避けようと焦った顔でハンドルを回したのが見えた。
けど、避けきれなくて。
ブレーキが効かないのか、怯えた運転手の顔が不思議とはっきり見えて。
次の瞬間、激しい音がして、身体中に衝撃を感じた。
視界が真っ赤で、自分が座っているのか倒れているのか、周りがどうなっているのかもわからない。
痛みどころか身体の感覚すらなくて。
自分の心臓の音だけがやけに煩く響いて、指の感覚がないのに指先が冷えていくのを感じた。
瞼が重い。
眠い。
寒い。
冷たい。
暗い。
意識が、まるで糸がほぐれるように解けて曖昧になって、視界が真っ暗になった―――――。
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暗い…。
ここはどこ…?
真っ暗な、真っ黒な、闇の中。
自分が目を開けているのか閉じているのかもわからなくなりそう。
上下の感覚もなくて、まるで水の中にいるみたいで。
私はなんでここにいるんだっけ?
私は………――――。
……あぁ、そっか。
車と衝突したんだっけ。
じゃあここは?
死後の世界?
何もないね…。
父さん、母さん、洸…。
正面から衝突したのだ。
生きている可能性は低とわかっているが、無事を願わずにはいられない。
みんなが、無事でありますように………。
――不意に、彼方の方に、光が見えた。
光は近づいてくるのか、大きくなる。
そして次の瞬間、光がはじけて視界が真っ白になった。
◆◆◆
………―――――
眩しい光にうっすらと瞼を開ける。
目に入ったのは見知らぬ天井。
そこにふと影が降りた。
「ああ…。目が覚めたのね、無月丸。」
自分をのぞきこむのは茶髪のきれいな女性。
誰?
そう訊ねようとした自分の口から出たのは言葉にならない音だった。
「…ぅーあ?」
拝啓、父さん、母さん、洸。
私こと秋谷里桜は、男に生まれ変わったらしい。