拾 惜別
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「師匠っ」

「……無月丸…っ」


暗闇から意識が浮上する。

弟子の呼ぶ声に返そうと口を動かせば、広がるのは血の味。
少し身動げば痛みが襲い、上手く働かない頭を何度か瞬きすることではっきりとさせる。

己と対峙していたあの男はどうなったのか。

思い出したそれに慌てて起き上がろうとするが、全身が痛みを訴え、指先がぴくりと動いただけだった。

それでも無理矢理首を回して周囲を見ると、倒れ地に伏す男共。
既に死んでいるのは一目で解ったが、誰がこれをしたのか。

更に首を巡らせれば、目に入る、黒いもや。
己の傷口から侵入してくるらしいそれは、己の持つ力と似て非なる感覚。

これは、
「…闇の、婆娑、羅………?」

だが、どうして。


「………!?」
本来、闇の婆娑羅は相手の生気を奪うものだ。敵の命を吸収し、己の糧にする。
だが、これは今、明らかにその生気を己に与えている。

そう。与えているのだ。

体から流れ出てゆく血が減り、体の痛みが少しずつ消えてゆく。
己以外にこの場にいるのは唯一人。
まだ教えていなかったが、彼は確か婆娑羅の才があったはず。

一つの仮定が頭に浮かぶ。

はっと顔を上げれば、少し鮮明になった視界で、無月丸の顔色が見ている間にも悪くなっていくのが見えた。

「っ止めろ、無月丸!!俺はもう長くはない!もやを、闇の婆娑羅を消せ!!自分の命を削るなっ」
こいつは、自分の生気を、命を、闇の婆娑羅を通して俺に送り込んでいるのか。


「嫌だっ!もう嫌なんだ!!亡くすのも、無くすのも!!お父さんも、お母さんも、洸も!!父上も母上も!!……っ!?」


そう叫ぶと涙を浮かべた瞳が一転、無表情に変わった。

「どこ?どこにいるの?お父さん?お母さん?洸?私はココにいるよ?それともいないの?母上?父上?どこにいるの?待って!置いていかないで!どこ?どこに行けばいいの……?置いていかないで…………」

どこにいるの。置いていかないで。そう繰り返し呟いたまま、何処か遠くを見る無月丸。
洗脳の影響だろうか。
ひどく幼いその様子は、今にも壊れてしまいそうだった。


「無月丸!聞け!俺は此処にいる!お前も此処にいるだろう!!戻ってこい!」
闇の婆娑羅はいつの間にか消え、少しましになったとはいえ力の入らない両腕で無月丸を抱きしめる。


「無月丸!!」
尚も呼び続ければ、無月丸の目に少しずつ光が戻ってくる。



「無月丸、聞こえるか」
「……は、い」


俺はもう生きられない。
いくら無月丸が俺に生気を与えたとて、俺は命を失いすぎた。
だが、これからすることにはぎりぎり足りる。

「今からお前に掛けられた術を解く。そうすれば俺は、……力を使い切って死ぬだろう」
「!」
びくりと、その肩が震えるのを押さえつける。
いや、それほどの力は既に残ってはいない。
ただ、手が肩に乗せられた。その程度だ。


「聞け。人は死ぬ。俺はそれが今だっただけの話だ。お前の力でも、俺が生き永らえることは恐らくできない。だが、お前は生きろ。せっかくその命が、あるんだ。死ぬことは、許さない。生きろ。生きて、笑え。それが、お前の師としての、最後の、命令、だ。……解った、な…?」

目が霞む。口を動かすことすら億劫になる。体の感覚がなくなり、意識が遠退いてゆくのを気力で持ち直し、一言。




「…『解』」


己の体から生気が抜けていくのが判る。
解呪の音だろうか。
耳の奥で、パリンと、何かが割れたような音がした。

重い瞼をこじ開ければ、霞む視界で無月丸が泣くのが見えた。
溜まっていた涙が、とうとう決壊したようだ。

初めて見る泣き顔は、唯の一人の小さな子供。


「……笑…え…、………無月、丸……」


音など最早出ず、口が僅かに動くのみだったが、子供には届いたらしい。

涙が伝った、しかし今までで一番人間らしい愛弟子の笑顔を最後に、百地の意識はぷっつりと途切れた。



◆◆◆


生きろと言われた。

笑えと言われた。

自分が死ぬというのに、何ということを言うのだろうか。

己は師匠に生きて欲しいのに、自分は死ぬと言う。

だが己が死ぬことは許さないと言う。

師匠に呼びかけても返事はなく、ただ「解」と囁くように唱えられた師匠の言葉に、頭の奥でパリンと音がした気がして、感情が溢れた。


嗚呼、これが悲しいという感情か。これが悔しいという感情か。
溢れた感情のままに、涙が頬を伝う。顔が歪む。

師匠の薄く開いた目が自分を捉えた。



「……笑…え…、………無月、丸……」


微かな、微かな、忍でさえも聞き落とすほどの、吐息にも似た声が聞こえた。


それが、師匠の望みなら。


笑いましょう。ありがとうございました。ありがとうございました。本当の父のようで大好きでした。


初めて作ったその笑顔は、きっと情けない顔をしていただろう。

それでも師匠は。

その笑顔を見て、薄らと笑って、目を閉じた。



「……………師匠っ」






◆◆◆


―――生き残った伊賀の忍たちは、里を移し、新しい長を立てた。
忍たちの中で最も年嵩の、腕の立つ忍を。

そして、里が漸く賑わいを取り戻し始めた頃。
赤目の子供が一人、何処へともなくひっそりと里から立ち去ったという。


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