呟けば、長い黒髪が揺れる。ぬばたまの闇に、私は夜を夢想する。 「なあに?」 「…なんでもない」 口に出かけた言葉を押し込める。 (幸せだな、だなんて言えない) 「…ふふ」 長政さま。 その唇が私の名を紡ぐ。なんと甘美な響きだろうか。 「市、長政さまのこと、大好きよ」 「……!」 深い深い宵闇色の瞳が、私と交わる。その瞳に星の輝きが見える。嗚呼、なんと深い夜の闇。 「…私も、」 「なあに?」 「……っ、」 脈打つ心臓がどくんと音をたてる。ああ静まれ、私の鼓動よ! 「…市といると、幸せだ」 自分の頬が赤くなっているであろう事は想像に難くない。それがわかるから、少しだけそっぽを向いて、だが繋いでいた手は離さぬまま。 「市も、幸せよ」 ふわりと隣で市が笑った気がした。 (この胸が脈打つうちは君を守っていたい、なんて偽善だろうか)
「…市、どうした」 「…桜の花が、散ってしまったの」 昨日まで薄桃色を湛えていた枝は、緑と茶しか見えない。 「…昨日は風が強かったからな」 「七日しか咲けないのに、風に引き離されてしまったのね…」 可哀相。ぽつり呟くと、まだ涙が零れた。 「泣くな、市」 長政さまはそう言う。 「市が泣くと、私が困る」 涙で歪んだ視界に、手拭いが差し出される。白が市の頬を拭う。 「…桜が散ったなら、しばらくすれば菖蒲が咲く。そのあとは向日葵だ。向日葵が終われば、曼珠沙華が咲く」 泣くのは全部散ってからにしろ。長政さまが言う。 でもね、長政さま。 「曼珠沙華が終わったら、椿が咲くよ」 市はきっと泣き笑いのような表情なんだろうな。 「椿が終われば、桃だ。桃の次には桜が咲く」 「市は泣けないね」 「泣く暇などあったら、花見に連れて行くぞ」 くすくすと二人で笑いあう。何処かから桜の花弁が飛んできて、地面に落ちた。 (泣く暇がないくらいに、君の隣で、笑い続けていたいと思うんだ) 幸福とは、君の名を呼べること。 ------ 悠祈様リクエストの 「心拍数#0822」×「浅井(あるいは前田)夫婦」でした。 この二人には幸せになってもらいたいなぁ、と思いながら書きました。 「ぬばたまの」は「夜」「黒」「髪」などにかかる枕詞。「ひさかたの」は「光」「空」「天」などにかかる枕詞。 いつもながら悠祈様のみのお持ち帰りとさせていただきます。 悠祈様、リクエストありがとうございました。 |