蘭丸が気付くと、狗と向き合っていた。黒い毛皮に覆われた、闇色の狗と。
狗神と。
「醜い過去だろう」
狗神は口を開いた。
「幾代も続く呪いの中、俺は怨み続けてきた。人を。世界を」
だけれど、
狗神が口ごもる。
「主様を思い出すと、未だに人を信じたくなるのだ」
矛盾しているんだ。怨みと信じる事は。狗神が呟く。
「…幾度もお前を取り殺そうとした。だが、主様の思い出が邪魔をするのだ」
信じたい、と。思ってしまう。
人を。世界を。
「……正直、恨むのはもう疲れた」
もう、眠りたい。
最後は囁くような声。
「だが、この身体は冥土に行くことすらまかりならん。もう俺は、何処にも逃げ場がない」
人を恨めず、眠ることすら許されない。そんな狗神が、蘭丸に憑いた。
「お前の中から見た世界は久方振りに楽しかった。希望にあふれ、輝いていた」
楽しくて、美しかった。
希望という狗神が捨てざるおえなかった物を、蘭丸の中から見た。
「そのうち俺のせいで消えてしまうであろう命の中で、希望を見た。お前は俺のせいで絶望を味わうだろうに」
希望を捨てて、希望を見た。
だがそれは自らの手で消える。
「…疲れたのだ。もう」
狗神の瞳が濡れているように見えたのは、蘭丸の錯覚ではなかったはずだ。




「…蘭丸に何か出来ないか?」
気付いたら、そう言っていた。
そうだ。蘭丸の望みは狗神から解放される事ではない。
狗神を悪霊にしないことだ。
そのためなら、何になろうとも構わない。この孤独な狗を救いたい。
「そりゃあ、お前がしてきた事は悪いことだろうよ。…でもそれは元を辿れば、蘭丸の先祖がやった、馬鹿なことのせいだ」
蘭丸はお前のおかげで、光秀や幸村様と会えた。感謝してる。だから、今度は蘭丸が。
「蘭丸は、お前を赦すよ」
狗神に手を広げてみせる。まるで、抱擁するように。
孤独な捨て犬に向かって。
「…ならば」
狗神が小さく呟いた。
「せめて、またお前の中に居させてはくれまいか」
その希望を、まだ見ていたい。
狗神は、蘭丸に身を近付ける。蘭丸はその闇色の毛皮に躊躇う事無く触れた。



自ら望んで、狗神をその身に引き入れた。






包容