人間の「忘れる」という機能は便利な機能だ、と語る学者がいたのを覚えている。うろ覚えだが、その学者曰く、悲しい事や苦しい事を選択的に忘却できるのは人間だけだそうだ。 だが、自分の考えは違う。 確かに「忘れる」という機能は重要で便利かも知れないが、それゆえに苦しむ人間も存在するだろう。 目の前のこやつのように。 銀の髪が枕に沈んでいる。蒼の瞳は未だ閉じられたままだ。その閉じられた瞼の端から零れ落ちる、滴。 「――、―――」 音にならない声が、その薄く開いた唇から漏れる。それを見ながら、嗤う。 ほら、忘れるなど不可能ではないか。 例えば前世で天下を二分して戦った二人が、今世では親友だったり。前世では主従だった二人が犬猿の仲だったり。 例えば前世で殺し合った仲の二人が幼なじみだったり。 例えばそれは徳川家康と石田三成だったり。例えばそれは伊達政宗と片倉小十郎だったり。 例えばそれは、自分と長曾我部元親であったり。 輪廻転生とはまことに愉快。 「アイツの事が思い出せないんだよ」 『忘れてやる!!』 現世と前世の記憶の齟齬。それが現世の長曾我部元親を蝕み、惑わせている。 簡単に忘れられれば世話は無いのだ。 ほら、忘れると決意した事を忘れているのだから。 そしてそのうち忘れたことすら忘れるのだ。 昨日の夕飯を尋ねられて答えられる人間は意外にも少ないらしい。更に一日前に遡ると更に。 一日前の事を忘れてしまうのだから、ましてや400年前の事を覚えているだろうか。 「卿の方が狂っているのだろうよ」 梟雄は嘲った。前世の記憶を持ち合わせている、数少ない同士だ。同朋とは言わない。 「400年も昔の事を覚えているなど、普通に考えれば狂気の沙汰だ」 「貴様も記憶しているではないか」 違うな、と梟雄は哂う。 「私が覚えているのは、ほんの断片だ。卿のように一言一句漏らさず記憶しているわけではない」 矢張り、卿が異端なのだよ。 息をついて、梟雄は湯呑みに手を伸ばした。簡素な湯呑みだがこの男の事だ、恐らくは高価な物だろう。中に入った茎茶を一口飲んで、梟雄は嗤った。 「"桃李のもの言はねば、誰とともにか昔を語らん"」 いや。こちらの方が卿には相応しいか。 「"衆生の善悪の果報、皆、前世の業因に依りてなり"」 そう言い置いて、梟雄は腰を上げた。 「では失礼するよ。雀が待っているのでね」 扉を開け、退室する梟雄が一度振り返った。 そういえば。 「卿は長曾我部元親に記憶を取り戻して貰いたいのかね」 松永の問いに答えるならば、勿論、是だ。 自分が転生した理由は、紛う事なく復讐の為である。だから全ての記憶を所有したままに、現世に孵った。 「元就、今から帰りか? 一緒に帰らねェ?」 「勝手にしろ」 後ろをついて来る銀色が、夕闇にきらきらと輝く。眩しくて、苛々する。 「そういや今日D組の前田と話したんだけどよ、お前怖がられてたぞ」 何したんだよ、とからかうように後ろから声が飛んでくる。その声は、前世のように潮風に枯れてはいない。 「知らぬ」 そういえば。元就は思う。 銀色の髪は塩の所為だとばかり思っていたが、どうやら違うのか。現世の元親には海との関わりは無い。 「お前なぁ…」 後ろの長曾我部は苦い顔をしているのだろう。簡単に予想がついた。 「元就」 『毛利』 投げられる声は同じ。単語は違う。時代も違う。 長曾我部元親とは自分にとって、前世でも現世でも目障りな存在だ。 戦禍でも変わらない呑気さ。厚かましいまでの気遣い。 目障りな存在の筈だ。 だが、この平穏な時間が幸福に感じられる瞬間が確かにある。 罪を背負うた少年は無垢な子供に恋をした ------- いおり様リクエストの「forget」×ナリチカでした。 もう一年経っちゃってるけど…。いおり様遅れてごめんなさい。 |