これのサイドストーリー。 小さな頃から声が聞こえていた。それは姉の飼う犬の声だったり、山で出会った蛇の声だったりした。血の繋がらない姉もそれを聞いてたから、不思議には思っていなかった。 だが姉が嫁ぎ、その夫と会った時、自分がおかしいのだと気付いた。普通の人間には、獣の声は聞こえないのだ。 そんな普通の人間ではない自分を、姉と義兄は慈しんで育ててくれた。 だから。 「なあ坊主。この辺りに獣の声を聞ける女がいるって聞いたんだけどよぉ、知らねぇ?」 その男が来た時に、恩を返さねば、と決心したのだ。二人の幸福を守るため。 「…それ、俺のことだよ」 髪が長いから女と間違えられた、と言えば男は信用した。ようやく十を数えたばかりだから、ふっくらとした顔立ちをしていた所為もあるだろうが。 案の定、その男は人買いだった。気付いたら見世物小屋にいた。ああ、攫われて売られたのか。理解するのが早かったのは、周りにいた獣達が教えてくれたからだ。 獣達は鎖に繋がれていた。 自分の首にも鎖が繋がっていた。 「にげなさい」 真白の熊が言う。 「わたしが鎖を噛み切りましょう」 赤い目の狼が言う。 「にげて」 双頭の蛇が言う。 鼠が逃げ道を教えてくれた。 「私の子供を、どうか外の世界へ」 黄金色の猿にまだ幼い子猿を手渡された。 「逃げなさい」 最後に聞いた声は誰の声だったのだろう。 走った。走った。 襤褸を纏ったまま、子猿を抱えたまま走った。走って、歩いて。そしてようやく、裏道の壁に寄り掛かるようにして座り込んだ。近くの鼠が一瞬だけ驚いてから、心配をするように近寄ってきた 「…大丈夫。ありがとな」 誰かが追ってくるかもしれない。そんな恐怖が絶えず襲ってくると、胸元に抱いた子猿の体温に安心させられた。 ざり、と草履が砂を擦る音。 「…驚いた。獣と話す人間がいるとはな」 慌てて見上げると、白髪混じりの男が立っていた。腰を少しだけ持ち上げて、逃げられる体勢にする。 「ああ、逃げなくて良い。別に掴まえて売ろうなど考えていない」 金なら有り余っている。 そう述べる男をまじまじと見てみた。確かに上物の着物を着ているから、嘘ではないのだろうと判断する。 「…売らないなら、どーして俺に声かけたの?」 念のため警戒を解かぬまま、疑問を投げ掛ける。男は笑った。 「なに。拾ってみようかと思ったまでさ」 その差し出された手を取ったのは、何故だったのか。 松永久秀という名の男の許に来て何年も経つと、わかる事があった。この男は集中してしまうと、絵のことだけしか頭になくなってしまうのだ。三日三晩飲まず食わずだったときもあるらしい。 「…んで、俺はどーしてこんな格好をさせられているんだい?」 紫陽花色の着物に真紅の番傘。問題は着物が女物だということだ。さらに髪も入念に梳かれた。 「贔屓の客に頼まれたのだ。美人画でも描いてくれ、と」 松永が愉快そうに笑う。わざわざ男を手本にしなくても、と慶次は心の奥で呟いた。まあ捻くれた彼のことだ。美人画の手本を男にするなんて今更だろう。 「そういえば」 男が口を開く。手は絵を描き続けている。 「卿から家族の話を聞いたことがないな」 「…あー、まあね」 実の家族にいい思い出がないし、仮の家族を思い出すと攫われたことも思い出す。 「実の両親はさ、二人共すっげえ遊び人で。金がなくなったから食いぶちを減らすために、俺を野山に棄てたんだ」 忘れられない枯れ草の匂い。ぶんぶんと耳元を飛び回る蝿の羽音。差し延べられた、白い手の平。 「そんな俺をさ、その山で暮らしてた女の人が拾ってくれて。まつ姉ちゃん、って呼んで慕ってたんだ」 叱られてばっかだったけど。知らず知らず口の端が持ち上がる。 「んで姉ちゃんが結婚して。その旦那さんと姉ちゃんと三人で暮らしてたんだ」 人買いが来て攫われてから会ってないけど。元気かな、まつ姉ちゃんと利。 哀愁を漂わせて、慶次が微笑む。男がその表情を描いた事に気付きもしないまま。 「……はっ…あ…」 ようやく息をついた。気に入りの浅黄の衣は何処かに落としてしまったらしい。 「…何なんだよ…」 依頼主が自分を気に入っているのは知っていた。だからといって、襲われかけるとは思ってもみなかった。思わず依頼主をひっぱたいて逃げてきたが、この屋敷の誰かに知れたらただでは済まない事は明白だった。 「……帰ろう」 がたがたと震える体を動かして立ち上がる。その時ようやく聞き慣れた声が無い事に気付いた。 「夢吉?」 子猿の姿がない。松永の屋敷に戻ったのか?否、夢吉が慶次の指示もなしにそのような行動を取るはずがない。 「…捜しているのは、この猿だろう」 依頼主のにやけた顔が目の前にあった。手には捜していた子猿が。 「…何のつもり」 「なあに、少々手伝って貰いたいことがあるのだ」 気持ち悪い笑み。夢吉がこの男を嫌っていた理由をようやく理解した。 引っつかまれて、埃っぽい部屋に放り込まれる。 「けいじ…」 「大丈夫だって。身動きはとれないけどさ」 心配する子猿にそう答える。後ろで縛られた手首が痛む以外は大した痛みはない。 「…松永さんに怒られちゃうなあ」 警戒心に欠けている、と忠告された時を思い出す。もし帰れたら、また怒られるのだろうか。恐らくは生きて帰れることなどないのだろうが。 「夢吉、お願いがあるんだ」 縛られているのは自分だけ。夢吉は自由だ。夢吉は屋敷に戻れる。 「今から屋敷に戻って、松永さんの側にいて」 「……?どうして?」「たぶん俺は生きて帰れないから」 夢吉の顔に動揺が走るのが見えた。どうして、どうして、と何回も尋ねられる。それを無視する。 「松永さんはきっと俺が死んだら、今まで以上に自分の体に気を使わなくなる」 誰かが側にいてあげなくちゃいけないんだ。 夢吉は泣きそうな顔をしていた。最期まで一緒にいたいけれど、俺の最期の願いを無下にするわけにもいかない。しばらく逡巡して。夢吉は立ち去った。 「ごめんな。ありがとう」 小さく礼を言う。恐らくは届いてはいないだろうけど、言わずにはいれなかった。 それから何日もそこに閉じ込められた。十日程が過ぎた日の晩、今までと比べて豪華な飯が出された。最後の食事だ。根拠もなく理解した。 次の朝。日が昇る前に依頼主の部下らしき男達が来た。そのまま湯殿に押し込まれ、念入りに体を洗われた。そして女房装束を着せられ、丁寧に髪を梳かれた。 (…男に女の格好させて、何がしたいんだろ) 手だけでなく足にも戒めが施され、さらに猿轡が課せられた。そして、何かの中に放り込まれる。四角く区切られた空間。不規則な揺れ。輿か牛車かはわからないが、そういった物の中にいるのは理解した。 箱の外から声が聞こえてはいたが、はっきりとは聞き取れなかった。 木が爆ぜる音がした。 熱い。熱い。熱い。 外から火をつけられたのだろうか。息が苦しい。身を包む女房装束の裾の方が、ひどく熱を発している。ぱちりと木が爆ぜる音がまた響く。息が少しだけ楽になった。周りを覆っていた御簾が焼け落ちたらしい。太陽の光がやけに眩しい。女房装束の裾から段々と熱が広がっている。煙が目を刺し、熱風が喉を焼く。猿轡は緩んで落ちた。煙の所為で歪んだ視界。その中に。 「………っ」 松永さん。 叫んだ言葉は声にならずに、ただひゅうひゅうとした音になる。唖然としたあの人の顔。初めて見たかもしれない。延ばされた手が空を掴んでいる。 (ねえ、松永さん) 熱さも痛さも忘れて、笑う。 (今までありがとう) 貴方は生きて下さい。 慶次の全身を火が包む。それでも、最期まで笑っていた。 業火。 狂炎に身を炙られ、煉獄に身を焼かれども、吾が胸の焔はけして消える事はなし。 |