ショパン・スケルツォの二番が狭い部屋に流れる。動きに合わせて亜麻色の髪が彼の背で跳ねる。 長い曲を延々と弾き続けるその集中力と体力に佐助は感嘆した。感嘆しながらも、その左手はキャンバスに色を重ねる。橙の雲の切れ間から覗く夕焼け空。そして何処か田舎くさい町並み。その上に重なった色は白。小さな犬を一匹描く。黒い瞳を描きこんだとき、曲が終わった。 「佐助」 彼が佐助の名を呼ぶ。佐助は描き終わった絵を脇に置き、何?と聞いた。 「何か弾いてやろうか?」 「いいの?」 尋ね返すと笑われた。当たり前だ、と。 なら、大好きな曲を。そう思い佐助は記憶をあさる。 「ベートーベンの月光」 「全楽章だな?」 確認をすませて、幸村がピアノに向き合う。小さな部屋には不釣り合いなグランドピアノ。穏やかながらも不安の漂う一楽章が終わり、軽快な二楽章も終わる。 そして目まぐるしいスピードで展開する三楽章。オクターブの連続も長い指で軽々と弾き、スフォルツァンド。正確な運指で流れるメロディー。フォルテッシモで和音を奏でて、ピアノが沈黙した。 「…久々だからあまり上手くはないな」 いやいや。十分でしょう。 佐助は心中で呟いた。 そこそこ名の売れている絵描きと、かなり名の売れたピアニストが同棲している理由。それは簡潔に言えば『離れる理由がないから』だ。 高校で出会い、同じ芸術系の大学に進むことになって、二人はルームシェアをする決断をした。もとより息子が芸術への道を歩く事を快くは思っていない幸村の両親と、この世にはいない佐助の両親。そんな環境だから二人の収入はかなり限られていて、一人暮らしなど夢のまた夢だった。小さなマンションを借りて、二人は生活を始めた。 佐助が料理を作り、幸村が掃除をする。部屋には幸村の家から運んだグランドピアノが鎮座した。狭くはあったがピアノが弾ければ良い幸村と、絵が描ければ良い佐助の二人だ。苦労を苦労と思わぬまま年月を重ねた。 佐助の絵が評価されたのは大学三年生のときだ。人物画から風景画に趣向を変えて、すぐに賞を手にした。幸村の名が売れたのもその頃だった。期せずして二人の名は有名になった。 何度か離れようかと話し合ったが、最初から答えは決まりきっていた。佐助は幸村がいなければ片付けが出来ない。幸村は佐助がいなければ飯が食えない。 少し広いマンションに引っ越しはしたが、やはり二人は離れなかった。 今日もまた佐助は幸村のピアノを聞きながら筆を動かす。 俺達が大学三年生の時だ。 佐助が『暁』という名の絵で賞を取った。俺はその絵を見て、恐怖した。 ああ、ああ、こやつはこんなにも美しい世界を見ているのか。俺にはけして見れぬであろう世界を。俺の隣で見ているのか。そしてその美しい世界を映した目で俺を映しているのか。 その恐怖を抱いたまま、ピアノを奏でた。今までで一番の出来だった。そしてそれが評価され、俺は有名になった。 佐助が展覧会から帰ってきた時、俺は目を見張った。血で顔が濡れていたからだ。額を押さえたまま玄関に立った佐助は俺の顔を見て、倒れた。気を失っていた。 佐助の手を額から外して、あらわになった傷を見る。額の半ばから頭部まで走っているであろう傷は、刃物によるものに違いない。失血のために蒼白になった顔面は、未だに血に濡れていた。 ガーゼで額を押さえて、濡れたタオルで顔を拭う。白かったタオルはあっという間に深紅になった。応急処置をしてベッドに寝かせた。 慣れない料理をした。粥ひとつでさえまともに作れない自分に呆れる。少し薄味だが、良いか。 佐助の元にその粥を持って行くと、佐助は目を覚ましていた。額から上を覆うガーゼと包帯が痛々しい。 「旦那…?」 「佐助、粥だ。食えるか?」 「いい、食欲、ない」 ふるふると首を横に振る度にガーゼが揺れる。滲む赤が痛々しい。 「見ないで」 ガーゼを外そうとしたら、そう言われた。救急箱を自分で引っ張り出して、手当をしていた。まるで俺に傷口を見せたくないかのように。 二週間程経って、傷口は塞がったようだった。あれから傷口を一度も見ていないから、憶測でしかないが。佐助の額にはヘアバンド。傷口を見せたくないからだろう。俺が傷口を確認しようとする事を佐助は異常に嫌がった。 「見ないで」 こんな傷、旦那に見せたくない。 ぽつりと佐助が呟いた。 佐助。お前はこんな事で、俺に傷を見られたくないというだけの事で、苦しんでいるのか。ならば。 佐助が外出したときを見計らって、俺はバーナーで炙った針を取り出して鏡と見つめ合った。 取材のために二日程家を離れた。頭の傷痕はヘアバンドで隠して。殆ど痕は残っていないけれど、やはり見られて気持ちのいいものではない。 「ただいまー」 小さく呟いて、同居人に帰宅を示す。耳の良い幸村は佐助の声を聞き逃すことはない。 「佐助か!」 案の定、部屋の奥から聞き慣れた声が聞こえた。どたばたとした音が続く。それを聞いて佐助は、おや、と思った。机に足を引っ掛けて転んだような音だったからである。二人が住み慣れたこの部屋でそのような音をたてることは少ない。まあ少ないだけで、ないわけではないのだが。だから佐助は大して気にせず、靴を脱いで部屋の奥へ向かう。 そこでは佐助が想像した通りに、足を引っ掛けて転んだらしい幸村が立ち上がろうとしていた。 「旦那、」 なーにやってんの、とからかおうとした。しかし絶句してしまう。 起き上がった幸村の瞳は、灰色に濁っていた。 「おお、佐助。帰ったか」 にこりと幸村が笑う。灰色に濁った瞳が瞼に隠された。「…なに、やってんの」 なんとか佐助は言葉を吐き出した。掠れたような自分の声に苛立つ。 「机に足を引っ掛けてな。しかし、」 目が見えぬ事が、これ程大変だとは思わなかったな。 何でもないかのように言う幸村。佐助は呆然としたまま言葉を紡ぐ。 「…どうしたの、その目」 「ん?黒目を針で突いただけだぞ」 灰色の濁った瞳が佐助を捉える。焦点は合っていない。 「まだ輪郭程度は見えるな。まあ、一週間程で見えなくなるだろう」 「どうして」 ひゅうと佐助の喉が鳴った。 「どうしてそんなことを…」 「佐助の傷痕を見ないですむからだ」 平然と幸村が答える。笑みを浮かべて。佐助の額を、隠している傷痕を指差して。 「佐助がそれを俺に見られたくないならば、見ないようにしなければならぬだろう?」 佐助から離れるよりは、目を失うほうがましだ。 はっきりと何の迷いもなく幸村は言い切る。 「…ばかでしょ」 佐助はそんな幸村にしがみついた。幸村は黙って佐助を抱きしめる。佐助の小さな嗚咽だけが部屋に響いた。 最後の一音がホールに響いて曲の終わりを告げた。これから10分の休憩だ。ふう、と佐助は溜め息をついた。 「Hey 佐助じゃねーか」 後ろからかけられた声に振り返る。焦げた茶色の髪に意志の強そうな黒い瞳。ただし右の目は眼帯と髪に隠されてみえない。そんな青年が佐助の後ろにいた。 「政宗」 彼の名前を呼べば、政宗はにやりと笑った。そして誰もいない佐助の隣の席に腰を下ろす。実はその席は、幸村が政宗に用意した席だ。幸村はコンサートの度に佐助と政宗にチケットをくれる。なのに政宗は毎回チケットを買う。佐助には理解できない行動だ。 「心配してた程じゃなかったな」 目が見えなくなったって聞いた時にはびびったが。 政宗は笑う。 政宗は佐助と幸村の古なじみだ。大学の芸術科で幸村と会い、佐助と知り合った。政宗は今、指揮者として名を馳せている。 「…良い音になってたな」 政宗が呟く声が聞こえた。 目が見えなくなったせいか? 政宗が苦笑いを浮かべる。休憩時間の終了を告げるブザーが響いた。政宗はわざわざ買った席には戻らないようだ。別に他人の席ではないから良いのだろうが。 「…そうだ次の俺達の講演、ピアノコンチェルトやるのは知ってるか?」 「チャイコフスキーの?…いや初めて聞いた」 「ピアノフォルテは幸村だ。来いよ」 ブザーが鳴った。幸村がステージに出て来る。手を引かれてはいるが、しっかりとした足取りだ。 鍵盤が沈み、ハンマーが弦を叩く。ピアノフォルテが音を奏でた。 『月光』というタイトルは似合わない、と幸村は思う。 確かに一楽章こそ湖面を揺らす月の光を感じさせるが、二楽章、三楽章はそれがない。聞けば、後世の人間が名付けたのだと言われた。 成る程。ベートーベンが名付けていたら、違うタイトルだったに違いない。そう思う。 幸村は『月光』に、海を夢想する。一楽章はゆらゆらと揺れ、朝日を反射させる姿。二楽章は波打際の白い飛沫。そして三楽章は嵐に荒れる海。全てを巻き込み、海の底へと帰す大浪。 それを夢想して、幸村は『月光』を奏でる。 駒鳥の目を奪ったのは誰か? ------ 「春琴抄」イメージ。 140413改定 |