「…半兵衛ちゃん、落ち着いて聞いて」
月曜日の朝。佐助がそんな言葉で切り出した。
「前田慶次が、この学校にいる」
息が止まるかと思った。
「…嘘」
「嘘じゃないよ。鬼の旦那と俺様が確認した。間違いなく前田の風来坊だった」
呼吸が荒くなる。胃の奥がずきずきと痛む。空気が、ない。
「……っ」
「半兵衛ちゃん!」
元忍の声を最後に、半兵衛の意識は途切れた。

「…どうして!」
ああ、彼が叫んでいる。優しい優しい彼が。
「どうして、ねねを殺したんだ!」
違う。秀吉はねね殿を手に掛けてはいない。秀吉の友達の君にならばわかるだろう?
「…どうして!」
ああ、もう戻れない。

僕は現世で、豊臣秀吉と会った事がある。
町中の小さな小児科病院。
「竹中さん、どうぞ」
看護婦さんに呼ばれて、ドアを開けた。そこにいたのは、豊臣秀吉だった。
白衣を着て、聴診器を首から下げ、医者の姿をしていた。
「…ひで」
よし、と僕が最後まで言う前に、女性の声がした。
「竹中…半兵衛ちゃん?症状を秀吉先生に言ってね」
長い黒髪。花の香。紛う事なき、ねね殿の姿。
「半兵衛ちゃん、でいいのよね?変わったお名前」
「ねね、そういう言い方をするな」
「あっ気に障ったかしら?ごめんなさいね」
その会話で理解する。彼女には前世の記憶はない。そして、彼もまた。
なら、自分はどうして前世の記憶を持って生まれたのか。前世の記憶がなくとも、幸せになれる。むしろ記憶があるほうが幸せになれないだろうに。
(まるで、貴方は幸せにはなれませんと言われているみたいだ)

ゆっくりと瞼を持ち上げた。視界が潤んでいた。瞬きをすると目の端から零れ落ちる、涙。
「…貴様も泣けるのだな」
顔を横に向けると、元就君がいた。その後ろに水色のカーテンが見える。保健室か。
「幸が鞄を持って来てくれたから、帰れ」
「…乱暴だね」
苦笑いを浮かべる。元就君のこういう率直さは嫌いではないけれど、説明が欲しい。
「教室で倒れた貴様を、幸が背負って此処に連れてきた。養護教諭は目が覚め次第早退して良い、と」
「…わかった」
元就君から鞄を受け取る。その時に見た彼(今は彼女か)の瞳には、珍しいことに驚きが渦巻いているようだった。
(このように無口な竹中を見たのは初めてかもしれぬな)
なんて元就君が思っていた事を知るよしもなく、不思議に思い尋ねる。
「…どうしたの?」
「…いや」
何でもない、と言う元就君に首を傾げながらも、僕はベッドから起き上がる。微妙にふらつくが帰れないほどではないだろう。
「皆に、ごめんって言っといて」
それだけを言い残して、保健室を出る。誰もいない家に帰るのが、少し憂鬱だった。

段ボール箱を二つ重ねたものを両手で抱えて、廊下を歩く。普段なら短く見える廊下が長い。職員室から教室までってこんなに長かったっけ。ぼんやりと思いながら前田慶次は歩を進める。
「うおっ」
段ボールの中の教科書が傾いて、バランスが崩れた。慌てて持ち直して事なきを得る。
その時、廊下の窓ガラスに映った人影。
「…早退かな?」
視界の端のその影をはっきり見ようと窓ガラスに顔を近付ける。

そして、あの人を見付けた。


白菫の残像









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