いつの頃からか見るようになった夢がある。白く染まった視界と遠い声。自分の名前が呼ばれていて、だけど俺は返事が出来ない。腹部の鈍痛が夢と思えない程にはっきりしていて。その鈍痛が消えてから、ようやく俺の目は覚めるのだ。

元就に会いに行く、と猿は言った。尋ねれば猿と同学年らしい。つまり、俺とも同じ学年。
「そうだ、鬼の旦那」
先を歩く猿が足を止めて、こちらを見ている。
「猿って呼ぶのやめて。今は武田って立派な苗字なの」
「…じゃあ、佐助?」
言い直して彼を見ると、それでよろしい、というように笑っていた。今言う事か、ソレ。

1-1と記された教室の前で佐助が立ち止まった。このドアの向こうに元就がいる。何だか緊張してしまって、息を整える。
そんな俺の目前で、佐助が無情にも扉を開け放った。
「半兵衛サン、元就サン居るー?」
おいコラ、人の心の準備が出来るまで待ってくれねぇのか。やっぱりこいつは猿で充分だ。理不尽さに憤りを覚えながら、扉越しの教室を確認する。前には猿の頭があるが、身長差の為別段視界に影響はない。
確認出来たのは椅子に座って本を読んでいる少女と、その隣の机に突っ伏している少女。
椅子に座っている少女の方が、本から顔を上げた。白い髪が揺れる。
「…元親君」
「…竹中」
間違いねぇ。大分幼くなったのと、顔が丸いせいでわかりにくくはなっているが、こいつは竹中半兵衛だ。
「てめぇ、女だったのか」
「……それを聞かれるとは思ってもみなかったよ」
何故か呆れるように言って、彼女は立ち上がる。本に栞を挟むのを忘れない。
「…今、君が話し掛けるべきは僕じゃないだろう?」
彼女はふわりと笑って、佐助を見た。彼も笑ったのだろうか。肩が揺れている。
「…鬼の旦那。わかるでしょ」
「ああ」
分かってる。歩を進める。
机に突っ伏している少女が。この眠っている少女が。
「…元就、起きろ」
毛利元就だ。

呻きながら元就が目を覚ます。ゆらゆらと視線が彷徨って、目の前の俺とぶつかる。
「よう、おはよう」
出来るだけ普通に笑ったつもりだった。なのに、こいつは目を見開いてしまって。
「…元…親?」
まだ呂律が上手く回っていない舌で、俺の名前を呼ぶ。
「久しぶり、元就」
抱きつかれた。彼女の頭が乗った肩から、じんわりと暖かさが滲んでいく。
「ふぇ…うっ…」
押し殺された泣き声に切なさを感じて、強く抱きしめた。



目を擦りながら、元就が顔を上げる。ああ、やっぱり目が赤くなっちまってる。すん、と鼻を鳴らして元就は呟いた。
「…竹中」
名前を呼ばれただけで、竹中は察したらしい。すぐに返事が返ってくる。
「分かっているよ。帰るんだろう?幸には上手く言っておくから」
「すまぬ、頼んだ」
そう言って、元就は鞄を掴んで教室を出る。ふらふらとした足どりのまま、小さな背中が去っていく。
「…おいっ元就!!」
慌ててその背を追って駆け出した。後ろで竹中がどんな顔をしているか、知らないままに。

ふ、と溜め息をついた。理由は簡単。彼らが去ったからだ。
「どうしたの、半兵衛サン」
佐助君が尋ねてくる。僕は作り笑いで答える。
「いや、見せつけてくれるな…って思って」
確かにー、と彼は言う。きっと作り笑いには気付いているんだろうな。こういうのに敏感だから。でも、気付かないふりをしてくれる彼に感謝した。
「じゃあ、俺様お嬢迎えに行って来まーす」
剣道部の体験入部が終わるはずの幸を迎えに行く為に、佐助君は教室を出て行った。僕はまた溜め息をつく。
元就君が幸せになるのは、喜ばしい事。なのに、僕は何に苦しんでいるのだろう。理由はわかりきっている。僕が彼に会えていないから。でも、僕が彼を望んでも、きっと彼は僕を望んでいない。それ以前に、きっと彼は僕を恨んでいる。
いけない。ぶんぶんと頭を振って、幾分ネガティブになってしまった思考を追い出す。情けない顔をしてたら、幸に心配させてしまう。
「…大丈夫。僕はまだ大丈夫」
無理矢理に笑顔を作って、僕は呟いた。

撫子の憂鬱








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