遠き日の歌
“神の囁きは歌となりて
悲しみを流すだろう
大地を潤す雨に交えて
一滴(ひとしずく)の涙を落とすだろう
その涙を受けた子あらば
数奇な運命に身を委ねるだろう
悲しみと苦しみが子を襲い
涙に濡れる夜を数える
神の涙を受けし子よ
世界から悲しみと苦しみを与えられ
己が不幸と泣くことなかれ
神の囁きは歌となりて
悲しみを流すだろう
苦しみを流すだろう”
ゆっくりと歌が響いていた。目を擦りながら上体を起こすと、見慣れぬ草原の中、見知らぬ金髪の男性がいた。見知らぬ景色、見知らぬ人、聞きなれぬ歌。不思議と恐怖はなく、口を開いた。
「不思議な歌ですね」
「そう思いますか?」
急にかけた声にも驚かず、男性は穏やかに微笑んだ。最初に歌声を聴いていなければ、女性とも間違うような美しい姿。長い金髪が風に揺れた。
「誰にでも、苦しみや悲しみはあります。与えられた事に意味があると思えば、少しは和らぐ。そんな歌らしいですよ」
「与えられた事の意味……」
「難しい話ですけどね」
柔らかく微笑んだ彼につられて、少し笑う。笑うなんていつぶりの事だろう。
「感情が、わからないんです」
「と、言うと?」
不思議な安心感に包まれて、ぽつりと漏らした言葉。それに、ごく自然に彼は反応を返してくれた。
「自分の感情、他人の感情。考えた事もなかった。考えると固まってしまう。悲しみ、苦しみ、楽しい、悔しい。どれともわからないのに、ただ涙が出たり」
「成る程」
「それがひどく、辛いです」
「あなたは、優しい人なんですね」
「え」
「優しい人ほど、自分を隠すんです。人のために、自分の意見を隠そうとする」
「……そんなんじゃ、ないと思います。ただ、自分が」
“弱いだけ”
そう呟こうとすると、彼の手のひらが、私の唇の動きを止めた。あまりの事に、戸惑いながら目を見開く。
「優しい人ほど、自分で自分を傷つけます」
ゆっくりと離れた手のひら。唇の動きを遮るものは無くなったけれど、言葉を発せなかった。かわりに、何故か涙が出た。
「他人の感情なんて、わからなくて当然だと私は思いますよ」
優しい笑顔で、彼は言った。
「簡単に、わかる訳がないと思います。だから、楽しいのだと」
風が、穏やかに吹いていた。
「わかったふりの方が怖いです。わからないなら、わからないで大丈夫。悩んでも、大丈夫です」
「本当に、大丈夫……ですか?」
不安げにこぼした言葉を受けて、彼は少しだけ首を傾げる。
「悩まない人なんて、いるんですか?」
「……いない、んですかね?」
「だと、思います。私もよく、悩みますし。意外だなどと、失礼な事も言われますが」
心外ですよねー? そう言いながら笑う姿は楽しそうで、仲の良い相手とのやり取りなんだろうと、窺えた。
上着の裾をぎゅっと握りしめ、口を開く。
「……与えられた事に意味があると言いました、けど」
「はい? ああ、あの歌ですね」
「意味があって与えられた事を、投げて、逃げたとして、それでも……それでも、大丈夫だと思いますか?」
「そうですね……個人的な意見では、逃げるのは、悪い事ではないと思いますよ。甘えだとか、負けだとか言われる事の方が多いのは、事実ですが。でもそれは、本人が決める事ですし。冷たいと思われる事を承知で言えば、逃げた先に何があっても、それすら本人の責任です。勿論、それからも逃げてもかまわない。逃げるのだって、勇気ある選択ですよ。逃げてみないとわからない」
でも、と彼は少しだけ黙って空を見上げた。
「逃げた先で頑張れるかもしれないですし。それは、誰にもわからないから、良いも悪いもないですよ。立ち向かう事が良いとか勝ちだとか、逃げる事が悪いとか負けだとか、ないです。ただ勿論、それを正義にする人にとっては、それが正しい事ですよ? それを否定してはいけません。ただ、あなたにとっては、そうじゃないんですよね?」
「はい」
「では、それで良いと思います。人の理念や信念なんて、沢山あります。どれもひとつの道です」
「道……」
「誰かにとって正しくても、自分が納得できないなら、無理に受け入れる事はありません。ですが、その先は、自分で責任を取らなければなりません」
「責任、ですか」
少しうつむいた私の顔を、覗きこまれる。今までに見たことのない深い緑色の瞳が、目に飛び込んでくる。
「難しく考えなくても大丈夫です。自分が納得できる道を選んで行けば、どこかには辿り着きます」
「辿り着きますか」
「ええ、勿論。もし迷ったら、また此処にきたら良いですよ」
柔らかな微笑みに、ふと気づく違和感。そよそよとふく風が、少し生暖かく感じた。
「此処は……何処なんですか?」
おや、と不思議そうな顔をした彼は、今度は少し寂しそうに笑う。
「どうやら貴方は、此処にいるべき方ではないようですね。此処にいたら、せっかく決心した事にも踏み出せない」
「どういう事……ですか?」
「でも、忘れないでくださいね。私はいつでも、此処にいますから」
「貴方は、一体……?」
「そうですね、私の名前は……」
“パリスーー……”
「んん………?」
目を開けると、見慣れた天井があった。
優しい夢を、見ていた気がした。目が覚める少し前、歌が聴こえた気がしたのは、気のせいだっただろうか。
「あれ……?」
涙が一筋、流れ落ちた。
でも何故だろう、少し、頑張れそうな気がした。
...end...
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