その涙を拭うのは コツコツと硬い音が冷たい廊下に響く。 ボールを小脇にかかえてレーゼは能面のような表情で歩く。その顔には苦しみも悲しみも怒りも恐れも浮かんではいない。全てを切り離した顔でレーゼはただ前を見据えて歩いた。 ある扉の前まで歩くと、カツ、と音を立てて足を止めた。かすかに溜息をついた後、キッと扉を睨みながら口を開いた。 「グラン様、失礼します。」 音を立てずに扉は開いた。 ほの暗い部屋の奥から声が聞こえた。 「やぁレーゼ。どんな調子だい?」 得体のしれない闇へ、レーゼは静かに歩み寄った。 部屋の中心部、青白い光に照らされた椅子の上に笑みを浮かべながらグランは座っていた。 しかしその目はまったく笑っていない。冷たい、射るような視線を感じながら、レーゼはグランの前に膝をつき、頭を垂れた。 「順調です。我らジェミニストームは必ずやお父様のご期待に添う活躍を約束致します。」 レーゼの声は無機質でそこには何の感情も見えなかった。自分に頭を垂れるレーゼをじっと見つめて、グランは言った。 「いよいよ明日がエイリア計画の始まりの日、全ての幕開けの日・・・失敗は許されないよ。わかってるね?」 「・・・承知しております。」 いっそう低い声で、レーゼは答えた。 明日が、全ての始まりの日。ジェミニストームによる学校破壊によって日本中にエイリア学園の存在を知らしめ、そして日本、世界をエイリア学園が支配する世の中を目指すエイリア計画はいよいよ明日産声を上げるのだ。その先陣を切るジェミニストームには少しの失敗も許されない。そのことは、痛いほどレーゼには分かっていた。 「ジェミニは一つのミスもなく、計画を実行してみせます。皆、お父様のためならたとえこの身が引き裂かれようとも動き続けるでしょう。」 淡々と話すレーゼには高揚も緊張も見られない。まるで機械のように話し、動く。その冷たい瞳がグランを見上げた。 「明日の準備もあります。これで失礼させて頂きます。」 何も灯していない瞳がグランから外れ、つとレーゼは立ち上がった。そのままグランに背を向けて扉へ歩き出す。あと二、三歩で扉が開く、その距離までレーゼが動いた時、不意にグランが声をかけた。 「・・・待ってよリュウジ」 レーゼが凍りつく。そのままぎこちなく振り向くと、そこには読めない表情を浮かべるグランではなく、よく見知った顔を浮かべる、ヒロトがいた。 「・・・ヒロ、ト?」 半信半疑のままそうレーゼが呟くと、ヒロトは 「久しぶり。」 そうふわりと微笑んだ。 「なっ、んで、ヒロトが、ヒロト、・・・っ。」 呆然とヒロトと呟く姿には、もはやジェミニストームの高圧的なキャプテン・レーゼの影はなく、今にも泣き出しそうな緑川リュウジがそこにはいた。 「そんなに悲しそうに見ないでよ、せっかく会えたんだから。」 ヒロトがそう困ったように笑えば、リュウジは耐えかねたように首を振ってヒロトに抱きついた。 「ヒロトっ、ヒロトっ・・・あいたかった、よぉ・・・」 今にも嗚咽がこぼれそうなのを唇を噛んで押しとどめて、リュウジはヒロトの肩にすがりついた。優しくリュウジを抱きとめてヒロトは語りかけた。 「俺もとても会いたかったよ、リュウジ。・・・ごめんね辛いことをさせて。」 「そ、んなのヒロトのせいじゃっ、なっ」 慌てて顔をあげて首を横に振るリュウジ。目には涙が今にも零れ落ちそうなほどたまっていた。ヒロトの白い指がその涙をすくい取る。 「でも今少なくともお前もレーゼも辛いだろう?きっとこれからも、グランは君たちに苦痛を与え続けてしまうから。だから今のうちに謝っておきたかったんだ。」 ヒロトの口調は、まるでこれからどこか遠くへ行ってしまう人のようで。 「・・・ヒロト、もう、会えないの?」 不安に駆られてリュウジはヒロトの肩を掴む手に力を込めた。指が白くなるほど力を込めているリュウジを見て、ヒロトはぽんと手を頭の上に置いた。静かに耳元でささやく。 「お前のそばにいられるのは今日が最後だって、分かってるだろう?」 エイリア計画が始まってしまえば、そこには"ヒロト"と"リュウジ"はいない。ただ、重く硬い鉄の壁のような上下の差が二人を隔てる、"グラン"と"レーゼ"の関係しかあり得ない。絶対的な力が支配する世界に、愛情などというものは持ち込めないことをヒロトもリュウジも分かっていた。 「・・・っ。」 だから、ただ黙ってヒロトの胸の中で涙を流すことしかリュウジには出来なかった。 「これが最後の夜、だね」 何でもない風をよそおうヒロトの頬にも涙は転がり落ちた。 ほどけたリュウジの緑の髪を優しくなでることも、震える体を抱きしめることも、不安に怯える顔にキスを落としてやることも出来ない。 父さんのためなら何でもできるけど、それでも、この腕の中で震える彼を放っておかなくてはならないのが辛かった。 「エイリア計画は成功する。必ず、成功させてみせる。」 ヒロトは苦しそうな表情で呟いた。緑川も弱弱しく頷く。 「・・・だからリュウジとはお別れだね。お前にあえて良かったよ。」 ゆっくりリュウジの背中へ回していた腕を離し、ヒロトは真正面からリュウジを見つめた。涙でぬれた顔に手をのばしそっと頬を撫でる。その途端リュウジの目の端から再び、ボロボロと大粒の涙がこぼれ出した。 「笑わなきゃって、そう、思ってるけど、思ってるけど、でもっヒロトにっ・・・。」 言葉が喉につまってうまく言えない、それをもどかしく思いながらリュウジは必死で言葉をつないだ。 「ヒロトに、もう会えないなんてやだよ・・・。」 そこまで言って、下を向いてひっくひっくと嗚咽を漏らしだしたリュウジを黙ってヒロトは抱き寄せた。 「もういい、もういいんだよリュウジ。何も言わなくていいんだ。」」 何百何千の言葉より、お互いの暖かさと心臓の鼓動が雄弁に二人の気持ちを語っていた。 この暖かさを抱えて夜を越えたら、朝にはもうどこにも二人はいない。 ヒロトとリュウジは残酷な朝を前にして、今はただ、すべての世界をお互いで満たしていた。 - - - - - - - - - - もう俺じゃない。 二人を分かつのは残酷な朝の光 ★ Back |