(思い出をたどることだけ、ゆるして) 「なんだよ、学級委員会にあたるなってんだ…」 ずっと走り続けていた足を止めて地面に倒れこむ。あーあ、疲れた。今はもう予算会議の戦場と化している場所からはだいぶ遠くまで逃げてきたはずなのに、火薬の炸裂する物騒な音が地鳴りのように響いている。でもまぁここまで来ればひとまず安心だろう。逃げ回っているうちにどうやら学園の入口近くまで来てしまったらしい。一年生二人を担いで負担のかかっていた肩の筋肉をぐるぐる回していると、息を切らしたみょうじがボロボロの恰好でよろめきながらやってきた。 「は…鉢屋く、はやすぎっ…」 「お疲れ」 「庄ちゃんと、彦四朗は大丈夫かな…?」 「あー…でもあそこで逃がさなかったら完全に巻き込まれてただろう?立花先輩は明らかに私に狙いを定めて宝禄火矢投げつけていたし」 「それもそうだねぇ」 納得したのかみょうじはすすだらけの顔を掌でごしごし擦りながらふにゃりと笑った。部屋で眠っていた勘右衛門を置いてきてしまったがあいつの事だ、上手く逃げ仰せているだろう。 それにしてもいつにもまして間の抜けた顔。どうしてこいつはこんな風にいつも笑ってられるのか。緩みきった表情を向けられるのはむず痒い気持ちになるから苦手で、顔を背けるように地面にごろりと寝転がった。昔から本当に表情筋が豊かなこった。 「……ない」 「?」 疲れたからこのまま眠ってしまおうかと目を閉じたとき、背中の向こう側からぼそりと聞こえたみょうじの消え入りそうな声に眉をひそめた。その声色があまりにも深刻なもので思わず振り向く。見事に顔から血の気が引いていて表情が強張っていた。こんな泣きそうな顔を初めてみた。さっきまで笑ってたんじゃないのか。百面相にもほどがあるだろう。 「ど、どうしようっ、ない……!」 「おいちょっと待てって、」 どこへ行くんだと言うよりも先にダッと駆け出してしまった。追いかけるために慌てて立ち上がろうとした足は、二人抱えて走り続けていたからかどうにもうまく動いてくれない。慌てて曲がり角を覗きこむと、もうそこにみょうじの姿は見えなかった。思わずこぼれる溜め息。どこにそんな体力が残ってたんだといいたくなる。それでもやっぱりさっきのみょうじの尋常じゃないくらい青ざめた顔が頭から離れなくて、ぐっと足に力を込めて追いかけた。真夏の太陽はギラギラと照りつけているはずなのに、冷たい嫌な汗が背中を伝う。柄にもなく焦っているのかもしれない。ぐるりと辺りを見回すと箒を持ったあの人が隅のほうにいた。 「小松田さんちょっといいですか」 「あれ、鉢屋くんどうしたの?」 「さっきくのたまがここ通ったと思うんですけど、」 * * * * * * * * * * 「…やっと見つけた」 目の前の地面に降り立つ音と荒い息遣い。鉢屋くんのほっとしたような呆れたような声。それだけでわかる。きっと学園中を走り回って探してくれてたに違いない。でも座り込んで膝の間に埋めている顔をどうしてもあげる気にはなれなかった。 「おい」 「ぐずっ、うっ、」 「え、泣いてるのか!?怪我か…?」 違うの、違う。ぶんぶんと首を横にふって少しだけ顔をあげると、鉢屋くんの目が一瞬大きく見開かれた。その顔を見た途端、何故だかまたどうしようもなくぽろぽろと涙が零れ落ちる。 「髪結いの、紐がっ、」 「……紐?」 ぎゅっと握りしめていた右手を開いて差し出す。桃色だった髪結いの紐が、ところどころ焦げて千切れていた。 髪結いの紐がない。そう気がついた時わたしはもう全速力で走っていた。きっとあの時だ。飛んでくる火矢たちから必死に逃げて草木の中に飛び込んで、突き出した木の枝に引っかかってしまった。やっと見つけだしてボロボロになったそれを見た時、涙が止まらなかった。わたしはそのとき初めて、自分が思っていたよりずっとこの紐に執着していたことに気付いた。ううん…違う。本当にわたしが執着していたのはあの男の子だったのだ。この髪紐だけが男の子とのたった最後の繋がりのような気がして、これをなくしたらもう絶対に会えないような気がして。結局わたしはいつも、立ち止まっては振り返ってばかり。あの男の子に勝手に夢を見て、恋をして、泣いて、そしてなんにも掴めなかった。わたしは今まで何をしてたのだろう。答えは自分が一番知ってること。何もしなかった。だから何にもわたしの掌には残らなかった、ほんとうに馬鹿だ。 「そんなに大事なものだったのか」 鉢屋くんの言葉に喉の奥が詰まる。こくりと頷くだけしかできない。どうしてだろう鉢屋くんの声は少しだけ震えていて、瞳がゆらゆら揺れていた。 「もう泣くな」 そういってぽん、と頭にのせられたのは不器用で温かい手。そのままぐいっと下を向かせられて重力に逆らえずに涙がこぼれた。泣くなってそんなの無理だよ、優しくされたら泣かないなんて無理に決まってるのに。 ぐずぐずと抑えきれない涙をこぼしてると、ついに鉢屋くんは顔をしかめた。 「もう泣くなと言っているだろう」 眉を下げて頭をわしわしと掻く。逸らされた目はなんとも言えない色を放っていて、それがどういうことかわかってしまった。困ってる鉢屋くん、初めてみた。ちょっとしてやったり。思わずふふっと零れた笑みに、鉢屋くんの肩がピクっと反応する。振り向いた表情には不機嫌がべったり貼りついていて、わたしを一瞥したあとフンと鼻をならした。 「不細工な顔」 「ぶ、ぶさ……?!」 「あれ、なまえちゃん傷ついた?」 「べつに…」 鉢屋くんがくつくつと笑う。柔らかい、初めてみる表情。それはわたしの知らなかった鉢屋くんの表情。ちゃんとお話するようになってから、わたしは鉢屋くんのことを少しは知ったつもりでいたけれど、そんなのはまだほんの一部分でしかなかったのだと実感させられる。またちょっとだけ鼻の奥がつんとして、だけど胸の奥も一緒の分だけ温かかった。 「…ありがとう」 「なんだ?」 「なんでもないよ、戻ろう」 立ち上がるのと同時に、髪結いの紐をそっと袖の中にしまいこむ。わたしの大切な思い出、もう少しだけあの男の子の記憶を辿ることを許してください。きっとわたしは、大丈夫な気がするから。 歩幅を合わせて一緒に歩いてくれる温もりが今は何よりも嬉しくて、ゆっくりゆっくり歩く。 ありがとう。鉢屋くんがいてくれて本当によかった。鉢屋くんで、よかった。 111217 |