短編 | ナノ



楽しかった記憶を思い出そうとしてみても、自分の頭には数えるほどしか浮かばなかった。どうしようもなく寂しい夜には、ばれないように一人、布団を頭から被って泣いた。父さんなんか、嫌いだ。もう一週間も家に帰ってきてないじゃないか。


「眠れないの?」

背後からそっと気配を消して近づいたつもりだったのに、母さんはすぐに僕に気が付いて振り返った。ふわりと優しく微笑む母さんの隣に腰掛ける。母さんはチロチロと揺れる囲炉裏の灯りで、父さんの破れた服を繕っていた。思わず下唇を噛む。そんなの…やらなくたっていいのに。

「…父さんはいつ帰ってくるの」
「明日よ」

一瞬にして顔を綻ばせた母さんは、目を細め、天井を見上げた。愛おしむような慈しむような、瞳。僕はなぜかその横顔を見ていられなくなって、逸らした視線がふと服を繕っていたその手を捉えた。お世辞にも綺麗だとはいえない、あかぎれた母さんの指先。だけど僕はその温かい手が好きだった。それなのに今はその手がどうしようもなくイライラする。

「……忍者なんてきらい」
「ん?」

何処にも行かないように、骨の感触が愛しいくらい手を握りしめた。母さん、母さんだけは、どこにも行かないで。城勤めの売れっ子だかなんだか知らないけど、僕を、母さんを家に置き去りにするくらいなら、忍者なんて辞めちゃえばいいんだ。
涙と鼻水でくしゃくしゃな顔を隠すために飛び込んだ華奢な胸の中には、僕が生まれる前から欲していた、命の重み、温もりがあった。母さんの腕の中でわんわん泣いた。自分でも何が悲しいのかわからない。だけどなんだか僕はどうしようもなく切なかったのだ。僕の髪を優しく撫でる手。やさしい掌が、大好きだった。どうして?なんで?母さんは父さんとこれでいいの?聞きたいことはたくさんあった。あったのだけれど、いつも全てが涙と一緒に零れ落ちていくだけだ。






* * * * * * *


ガタン、と小さな音がまどろみの中にいた意識を起き上がらせた。むくりと起き上がると、僕は布団の上で寝ていた。母さんが泣き疲れて寝てしまった僕を運んでくれたに違いない。そしてふと、隣の布団に母さんがいないことに気がつく。そういえば、さっきのガタンという音はなんだろう。もしかして、盗人か何かが?
母さんが危ない!布団を剥ぎ取り襖に駆け寄って、そっと居間を覗き込んだ。どうしよう、裏から回って隣の家に走って、助けを呼んで、それから、


「父さん…?」

ぼんやりと月明かりだけが射し込む光の中で、抱き合っていたのは父さんと母さんだった。母さんの肩が震えている。泣いてるんだ。そして僕は思わず息をのんだ。父さんの瞳は、見たことがないくらい慈愛に満ちた瞳だった。

「名前、城勤めを辞めてきたんだ」
「……うん」
「少し貧しくなるかもしれないが、それまでの間忍術学園で講師として招いて貰えるようにお願いしてきた。落ち着いたらもう少し家に帰って来れるような仕事を探す」
「……うん」
「それと後輩がお前に会いたがってたぞ、名前先輩をなんで連れてこなかったんだと、うるさくて適わなかった」
「…ふふっ、じゃあ今度は仙蔵と一緒に顔を出しに行こうかな」

僕はただ、二人の会話をじっと聞いていた。母さんが昔くのいちだったなんて、ちっとも知らなかった。それと同時に、自分がなんでこんなにもイライラしていたのか、理由が何となく、わかった。
父さんと母さんは本当にお互いを大切に思い合い愛し合っている。でも僕はそんな父さんと母さんを見るたびに、そこがなんだか自分の入り込めない別世界になってゆくようで、少し、寂しかったのかも知れない。寂しくて、何を憎んだらいいのかわからなかった。それで父さんを僕から奪ってしまった忍者というものを憎んだ。
2人の壊れそうに美しい空気の正体を初めて目の当たりにして、やりきれない思いだった。母さんも昔はくのいちだったから、忍者という仕事がどんなに危険なものか知ってるに違いない。だからこそ、僕が生まれるずっと前から、2人は一秒一秒を惜しんで生きてきたのだ。


「…父さん」
「あ、起こしたか?」

ゆっくりと襖を開けると、父さんは少し驚いて、そして僕の頭を撫でた。父さんを憎いとはもうこれっぽっちも思わなかった。やっぱり、父さんの手は大きくて、いつも温かく優しかったのを今になって思い出す。父さんは母さんを見た時の瞳と同じくらい、ううん、それ以上の慈愛に満ちた瞳で僕に笑いかける。父さんはいつも僕を愛していてくれたことを、一番よく知っていたのは僕だったのに、一体何に嫉妬していたんだろう。

「明日は久しぶりに母さんと三人で、ゆっくりしようと思うんだが、」
「父さん、母さん」
「ん?」

足元に見える、引かれた白い線は自分が引いていた境界線。視界の遠くで、未来の残像がちらつく。決めた、僕の未来。


「話しいことがあるんだけど───」









* * * * * * * *



「一年い組、立花」
「はい」

桜の花びらがはらはらと地面に落ちてゆくのを横目に見つめながら、大きく息を吸い込んだ。僕は父さんと母さんが大好きだ。父さんみたいな忍者になりたい。あの日、そう思ったから、僕は今ここにいるのだ。父さん、母さん。僕の大切な大切な人へ。今日、忍術学園に入学します。





僕の最愛の人へ






101017
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