短編 | ナノ



切り裂きジャック×エミリー(英国探偵ミステリア)
※NOT夢 EDのネタバレ






「お嬢様、起床のお時間です」

廊下に響いた声が、目の前の繊細な装飾が施された扉の向こう側に吸い込まれていく。しん、と静まり返った長い廊下はどこかひんやりとした空気を纏っていて、ここに来てから初めて迎える冬が、直ぐそこまで迫ってきていることを教えてくれた。
ジャックは少し戸惑うように視線を彷徨わせた後、もう一度、控えめに扉をノックする。というのも、いつもはここで何かしらの返答が返ってくるはずなのだが、しばらく待ってみても部屋の中からは物音ひとつ聞こえる様子すらないのだ。
(まだ、寝てるのか…)
そんな確信に近い結論に達したところで、ひとつ深い溜め息を吐いた。

昨晩エミリーが眠りに就いたのは、普段よりも随分と遅い時間だった。イーストエンドに住む貧困層の子供たちが学べるような学園を設立したい。そんな夢のような話を、夢では終わらせずに現実のものにしようと、エミリーは日々懸命に頑張っていた。昨日も救貧院のリストを二人で整理していたら、気が付けば時計の針はとうに明日を指し示していたのだ。勿論主が床に就いた後も、執事の仕事やそれ以外の“仕事”だってたくさん残っている。大変ではないといえば嘘になるだろう。それでもジャックはエミリーの夢の為なら何だって、それこそ大げさでも何でもなく、命すら捧げても構わないと思っていた。エミリーがその夢を抱くきっかけになった理由が、自分と大きく関係しているというなら尚更、だ。
(やっぱり、起こさなきゃならない、よな…)
自分は、ホワイトリー邸の執事だ。主が学園の始業時間に間に合うように手伝わねばならない。例えそれがジャックにとって一種の拷問に近いようなものであったとしても。執事の仕事に私情を持ち込むことが許されないのは、ペンデルトンに釘を刺されなくたって、ジャック自身が一番分かっていることだった。
本日二度目の溜め息を吐いて「失礼致します」と小さく呟いてから、扉に手をかける。遮光性のある厚いカーテンが、部屋に注ぐキラキラした朝の光をずいぶんと遮っていた。薄暗い中、ベッドの上で緩やかな呼吸を繰り返している姿を確認して、頭を抱えてしまいそうになる。

「…お嬢様、起きてください。始業時間に遅れてしまいます」

なるべく視界に入れないようにと注意していたのに、ベッド隣のキャビネットの置時計へ向けていた視線を、無意識にエミリーの方に移してしまった。カーテンを開くために伸ばした手が、途中で止まる。白くて柔らかそうな肌に、すっと伸びた長い睫毛。そして、薄く開かれた唇から洩れる吐息。吸い寄せられるようにエミリーの頬へと手を伸ばし、触れようとして、止めた。行き場を失った少し震えている指先を隠すようにギュッと握りしめる。こうして時々嫌というほど痛感させられるのだ。自分はエミリーにとって、一番近くて一番遠い場所に辿り着いてしまったのだということ。エミリーはいつだってジャックへの好意を隠そうとはしない。それこそ学園で初めて言葉を交わして手紙の交換を始めた時から、彼女は自分の気持ちをジャックにぶつけてきた。エミリーの純粋で暖かな言葉に何度救われたかわからない。けれどジャックの方から気持ちを言葉にして伝えることは、滅多になかった。なかったというより、執事として仕えるようになった今となっては、もう出来ないことなのだ。気持ちを伝えられずに受け止めるだけの愛というのは、想像していた以上に辛いものだった。

「……お嬢様」

今エミリーの一番近くにいるのは確かに自分のはずなのに、どうしてこんなにも遠く感じられるのだろう。お嬢様という響きは何よりも愛しくて、しかしいつか訪れるだろう別れの時を忘れさせてはくれないのだ。

「ん…、」
(起こした、か…?)

エミリーは少しだけ眉を寄せたものの、直ぐにまた幸せそうな顔ですやすやと一定の寝息を繰り返している。まだ夢の中にいるのだとわかった。幸せそうに眠っている彼女を起こしてしまうのは少し心が痛むが、そうも言っていられない。これ以上時間をロスすると、本当に学園の始業時間に間に合わなくなってしまう。

「ふふっ」

今度こそとシーツに手をかけようとして、また止まってしまった。突然エミリーの身体が小さく動いたのだ。もしかして起きているのだろうかと思って顔を覗きこんでみると、どうやらまだ眠っているようだった。
(寝ながら笑うなんて、器用な奴だな……)
一体何の夢を見ているのだろう。ぼんやりとそう思った時、微かに開かれた唇に目が離せなくなる。

「ジャ、ック…」
「…っ!」

そしてエミリーの唇からその言葉が紡がれた瞬間、息が止まりそうになった。何でもないはずの自分の名前が急に特別な意味を持って、何度も何度も頭の中で再生される。鼓膜に溶け込んだ柔らかな響きに、どうしてだろうか。急に鼻の奥がツンとして、胸のずっと奥の方をギュッと鷲掴みにされた気がした。

「……エミリー」

言葉に出すと抑えきれなくなって、今度こそエミリーに触れた。さらさらと指の間から零れ落ちていく髪の毛の束を掬い取り、そっとキスを落とす。
カーテンの隙間から一筋の明かりが差し込む薄暗い部屋の中で、願った。どうかあと少しだけ、このままでいさせてくれないか。お前が目覚めて、オレが執事に戻るまで。今はただ、おはようとおやすみを囁けるだけで充分幸せなのだから。

「おはよう、ジャック」そう言って笑うエミリーの笑顔が頭に浮かんだ。




There's always tomorrow.(夜明けの来ない夜はないのだから)




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