短編 | ナノ



雨上がりはなんだか、地面も建物も全てが太陽の光をうけて、キラキラした世界を作るから私はとても好きだった。食堂のおばちゃんから、外出するついでに買って来て欲しいと頼まれていたお豆腐と醤油を渡して、私はのんびりくのたま長屋までの道を歩く。空が青いなぁ。ふんふんと鼻歌を歌いながら雲を眺めていると、後ろから「名前」と私を呼ぶ声がしてドキリと心臓が跳ねた。


「わ、綾部…どうしたの?」

後ろを振り返らなくたって、誰かなんてわかっていた。なんでって、それは私が綾部を好きだからだ。好きとか恋とか、そんな言葉だけでは到底伝えきれないこの気持ちを抱えて、もうどれくらい経つのだろう。
綾部はいつもそっけない、といより表情があまり読めない。そんな何を考えているのか分からない綾部が、どうやら私をタコ壺に落とすのが楽しいらしいというのは、鈍感な私でも察することができた。
そして私も面白いくらいに毎回「ぎゃあ!」とか「うわぁあ!」とか女子にあるまじき叫び声をあげてタコ壺の中へと落ちる。うん…、正直悲しい。綾部に女子として見られていない事も、そんな綾部を許してしまう自分も。この胸に溜めこんでしまっている想いをひとつ残らず伝えられたなら、距離は縮まるのかな、なんてくだらない妄想ばかりしては落ち込むのが最近の日課になってしまっていた。

振り返ると綾部は鋤を持っていなかった。でもよく見ると裾が少し土で汚れているから、やっぱりさっきまで何処かで掘っていたのかもしれない。


「どこ行ってたの?」
「えっと、シナ先生とおばちゃんに頼まれて町に…」
「ふぅん」

ふぅん、ってなんだか物凄い不機嫌…!もしかして私は綾部に何か怒らせるような事をしてしまったのだろうか。うんうんと頭を悩ませていると、小さな声で不意に綾部が呟いた。


「今日は二人落ちた」
「何が?」
「善法寺伊作先輩と、知らない下級生のくのたまがターコちゃんに落ちた」
「…へぇ」

どうしよう、この場合それは良かったねとか、おめでとうと言うべきなのだろうか。いやだけどそれは、タコ壺に落ちた不運な伊作先輩やくのたまの子に失礼すぎる。綾部の求めている返答がわからなくて曖昧な笑みを返したら、はぁと大きい溜め息をつかれてしまった。


「つまらない」
「ん?」
「名前じゃないと面白くない」

ひゅ、と喉の奥が音をたてる。私は何故か綾部から目を逸らすことが出来なかった。


「自分でもよくわからないのだけれど」
「うん」
「もし笑ったら僕怒るからね」
「…は、はい」
「名前はターコちゃんによく落ちる」
「うん」
「でも落ちるのは名前だけじゃなくて他にもたくさんいるんだけど」
「うん」
「なんかつまらない」
「…」
「言ってる意味わかる?」
「ご、ごめん。あんまり…」

綾部の話を聞き漏らすまいと一生懸命聞いていたのだけれど、私の頭では綾部の言いたい事がいまいちよくわからなかった。なんだか申し訳なくなる。そして綾部が「なーんでわからないかなぁ」と本日二度目の溜め息をついたものだから、私はますます自分が情けなかった。


「名前じゃないとダメだってこと」
「うん」
「意味わかったでしょ」
「……うん」

じわりと視界が涙で滲んでいく。夢じゃないかなぁ、と思った。けれど綾部の手が近づいてきて私の頬に触れた瞬間の熱が、温かさが、私に夢じゃない事を教えてくれる。


「笑うなとは言ったけど泣かないでよ」
「綾部ごめ…、」
「うそ。やっぱり笑って」


そうして私を包んだ綾部の服からは、少し優しい雨の匂いがした。









君みたいな他の誰か





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