某軟体動物に限りなく子供のおつかいに近いことを頼まれた帰り、裏庭を通って寮へと戻る途中何だか足元が明るいので上を見た。海の底のような色をした空の片隅に少し欠けた赤い月がある。月なんてそうそうまじまじと見ないが本日の月はあまりにも異端だったので柄にもなく口を開けて暫く見上げていた。昼間照りつけていた太陽による余熱を緩く吹いている風に溶かして私の首筋を擦るこの夜を情熱的な赤が包みそこはかとなく昔の物語のように演出している。明日には満月になるであろう、そんなことを思いながら私は月から目を離した。
ついてだから少しは涼しくなって欲しい。こう暑いとアイスもすぐ溶けてしまう。それに月まで赤くなったら太陽の特権がなくなるだろう。迅速に地球には冷えてもらわなくては。
自分の部屋に帰る前に、ある部屋のドアを私はノックした。
ドアが開いて赤い髪の女の子がひょっこりと顔を覗かせる。彼女の真正面にとあるノートをどんと突きつけた。
「姉さん、事件です」
「いい加減普通の挨拶しなよあんた」
苦笑しつつも渋谷は大きくドアを私が入れるように開く。
入室し、渋谷の後ろにいる私を見て七海はぱっと笑った。
「名前ちゃんいらっしゃい」
「七海、これを」
HAYATOのポスターの前で何故か正座している彼女にノートを差し出した。
このノートは七海のものであり、今日ここまで来たのはこれを届けるためである。先に言っておくが私が借りたわけではない。
「一十木が私に託してきたの」
「えっ」
驚いた七海に合わせて渋谷も手に持っていたHAYATOの顔面が描かれているコップを落とした。
コップは割れず、中の液体を床に撒き散らしながら転がり私の足に当たって停止する。
「あんたが音也のおつかいって・・・。まさか那月の料理でも食べた?」
「食べてない。ていうか食べてたらここにいない」
小刻みに震えている渋谷に首を左右に振り、足元のコップを拾う。
「コーラを買おうと思って自販機の前にいたらあのアホが大声で私の名前を叫びながら飛んできて無視しようとしたらまるで必殺技のように待って!これ七海のノートなんだ!!七海これ落としちゃったの絶対気づいてないから苗字渡してあげてよ!!七海困ってるよ多分!!って連呼しやがって仕方なく引き受けたの」
あの時は本当にどうしようかと思った。よく何の戦乱も起こらなかったものだ。この学園に来て、七海と再会し晴れて友人になってから私の悪癖はゆっくりとだが治癒の道を進んでいる。まず吐かなくなったし七海の取り巻きでもある軟体動物一行に触られても五秒までなら耐えられるようになった。(腐っても彼等は七海の友人であると自分に言い聞かすことによってこれは身に付いた、素晴らしい)すごい進歩だ。その事実に一番初めに気がついたのは憎き赤い軟体動物であり、最近の彼は私に壁に叩きつけられたことを忘れたのか頻繁に背中を叩いてくる。
今日も苗字って結構良いやつと背中を叩かれた際に脳内にて彼奴にコーラを浴びせ蟻の巣に引き渡す妄想が展開されたがぎりぎりのラインで持ちこたえた。それに結構ではなく私は想像を絶する良い人類だ。また一十木を壁に叩きつけて七海に悲しそうな顔はされたくない。
それと結局コーラは買い忘れた。失態である。
麗しき七海は現在、床に零れた液体をせっせと雑巾で拭いている。私も手伝おうとしたが制され、とりあえず見守っている間に笑顔の渋谷が空になったコップにオレンジジュースを注いだ。HAYATOの顔面がうっすら橙色に染まる。
「・・・この時間はもう駄目だしね、男子がこっち来んの。てかあんた今の音也の台詞凄い本人ぽかったよ」
「あいつなんか真似しやすいのよ、七海ー!七海ー!って」
「名前ちゃんありがとう、ふふふ音也くんにもお礼言わないと」
七海も笑いながら雑巾を持って洗面所に向かっている。
頂いたオレンジジュースを一口飲む。市販のものであろうそれは私の部屋にあるものよりも美味しかった。七海が戻ってきて、HAYATOの顔面の半分がようやく元の色を取り戻した頃渋谷は私の肩に手をかけた。
「そうだ!!」
長年求めていた品を見つけましたとでも言いたげな顔をして私をじっと見つめてくる渋谷をこちらも負けじと見つめ返す。一体何がそうだ!なのだろうか。全く展開が読めない私と七海の目線を受けて渋谷はぐっと私の肩を掴む力を強くする。
「名前今一人だよね?」
「うん」
「この夏の予定は?家、つーか元の事務所に帰ったりする?」
「それはない」
「ラッキー!」
次にばしばしと肩を叩かれた。コップの中にまだ残っているオレンジジュースが小さく波打つ。
また零さないよう水平にしっかりコップを持っている無防備な状態の私に渋谷はとんでもない地雷を設置した。
「あんた明日からここで生活しなよ」
ここ。現在私のいる場所は早乙女学園女子寮、渋谷友千香と七海春歌の部屋である。夏休みに入るとはいえ明日から来いなどいくらなんでも気が早いのではないか。
「ていうか何で?」
「それがさー明日からあたしちょっと実家に帰省しなきゃいけないわけで」
夏休みになると生徒の多くが実家に一時帰省する。渋谷もその中の一人であるらしい。
そこまでは笑っていた渋谷が急に真面目な顔になる。
「春歌が一人になっちゃう」
私が相槌としてこくんと頷けば渋谷は噴射される殺虫剤から逃げる某害虫の如き速度で七海の後ろに回り、七海の肩を抱いた。
「こんな可愛い子が一人よ?何か事件起きたら困るじゃん!だからあんたさ、あたしの代わりにお願い!!ベッド使っていいから!」
両手を合わせて私にそう頼んでくる渋谷だが私もまた噴射される殺虫剤から逃げる某害虫の如き速度で彼女の頼みを断った。
「駄目よ脱衣癖やばいから」
「脱衣癖!?」
「朝起きたら限りなく全裸に近い半裸よ、これこそとんだ事件じゃん」
「アイドルなのに!?」
「アイドルなのに」
冬ならまだしも、夏は危険だ。
ここ最近連続する熱帯夜のせいで朝起床したら下着オンリーで朝日を出迎える毎日が続いている。たまたま私のパートナーは私に愛想を尽かしパートナーを解消し部屋からも出ていってしまったから良かったもののもしまだ関係が続いていたらここぞとばかりに警察に通報されていたに違いない。
問題はまだある。
この願いを聞いてしまったら必然的に七海とおはようからおやすみまで過ごすことになる。他の女子なら何も間違いは起きないが相手が七海となればさすがの私でも完全に自制出来る自信がない。常に瓶につめてコルクの蓋で押し潰している我が恋心は決して消滅したわけではなく今でも隙を見せたら牙を剥き出しにして七海に襲いかかろうとしている。今、友達の一人として程よい距離を築いているからこそ毎日が平穏なだけであって、もしもこれが朝起きてふと隣を見たらパジャマ姿の七海がすやすやと安眠していた毎日に変化したら私はどうすればいいのか。
渋谷には悪いが譲れない戦いである。
「・・・私も一人はちょっと寂しいな」
しかし、まさかの追加射撃が私の胸を撃ち抜いた。今まで友ちゃんがいたしおばけとか出たらどうしようと続ける七海を渋谷がおばけはともかく問題は那月とか神宮寺よあいつら絶対危険人物だと苦い顔をしている。どうにか前線に立っていた我が軍隊は壊滅し、ついに私一人が我が恋心と対峙することになった。
悪人面で笑う恋心を睨み付け、私は極めて無表情で七海に問う。
「私でいいの?」
七海は邪気なく頷いた。渋谷に至ってはあんたなら那月も神宮寺にも対処出来るとぬかしている。彼女の期待通り黄色い軟体動物だろうがオレンジのタコであろうが七海に不埒を行う者は全て火星に吹き飛ばす自信はあるが何よりも問題は自分自身である。
「ようは脱がなきゃいいのよ」
一人でぶつくさと呟く。
「脱がないイコール手を使えないようにするってわけで」
手の中にあるHAYATOの顔面を見下ろす。
もうこれしか方法はない。
「手錠して寝るわ」
「な、何か嫌だ!」
オレンジジュースを飲み干す作業中の私に反論の声を渋谷があげる。
私はコップをテーブルの上にそっと置いて、渋谷と向き合った。
「何が?朝起きたら隣に手錠して爆睡してる人間がいるのが?」
「そうだよよくわかってんなあんた!!」
「褒めても何も出ないんだから」
「褒めてない!てか何そのしゃべり方!!」
数世紀前に一時期流行したツンデレなるもののテンプレートを使用してみたがあまり効果はなかった。どうも私にツンデレを使いこなす能力はまだ備わっていないらしい。
それにしても明日から波乱万丈な毎日になりそうだ。
渋谷の肩から降りた心配事は私の肩によじ登ってきて居場所を見つけたとばかりに座り込む。私は溜息をついた。七海が私に申し訳なさそうに謝ってくるのを大丈夫、私が守るからと制する。正式に言えば黄色い軟体動物やオレンジのタコではなく私から守る戦いになるのだが。私の理性には是非頑張って頂きたい。いざとなれば不本意だが聖川に頼ることも考慮しなければ。
HAYATOのポスターの前で七海、そして渋谷とこれからのことについて考えていたらどこからともなく現れた黒い塊が七海の足に擦り寄った。
人間程大きくなかったので私と渋谷が襲いかかることもなく、黙って見つめている内にそれが黒猫であることが分かった。七海は黒猫をクップルと呼び、そっと抱き上げる。
斜めから改めて見直した猫の目の色はどこかで見た覚えのある翡翠色であった。
「猫」
私がそう言うと、それまで平穏な顔をしていた七海と渋谷の表情が一変した。二人して大いに慌てているので何事かと見守っていたら彼女達は微妙な笑顔を作って説明し始める。
「あの、この子はクップルって言って!とっても大人しくて良い子で全然騒がなくて!!」
「そうそう引っ掻かないし夜中に隠れて物漁ったりしないし!」
彼女達が何を心配しているのか察してしまい、苦笑する。
「大丈夫、とにかく誰にも言わなかったらいいんでしょう?うるさくないならゴリラだろうが猫だろうが何も言わないわ」
「さすがアイドル!」
飛び付いてきた渋谷を引き剥がす努力をしながらぱああと顔を輝かせている七海に微笑む。何だか七海の笑顔を見るためなら法律違反も犯しかねない自分が最近いる。
私と七海が微笑み合っている間に七海の携帯が鳴り、SEITEN☆OHA♪YAHHOというふざけたタイトルのHAYATOの曲のサビが流れた。それを聴くなり七海は満面の笑みを保ったままポケットから携帯を取り出す。画面を確認したその後満面の笑みのまま私に携帯を差し出してきた。そこには苗字にお礼言い忘れてた!という一文が記されたメールがあり、覗き込んできた渋谷は固まっている私に律儀だねえといった。私はぷいと顔面を渋谷から逸らす。
そんな嬉しくもなんともないイベントの後、渋谷が明日実家に帰ってしまうのでどうせだから皆で大浴場にでも行くかといった話になり、私は一旦自分の部屋へシャンプーなどを取りに行った。
必要な物を持って七海達の部屋を再度訪れたらノックをする前に彼女達が出てきた。七海のようにドジでもないのでドアで顔面を酷く打ち付けたりしなかった。
「・・・そういや私、HAYATOの物真似習得した」
「誰も得しない情報だわ、それ」
「今すぐ見せたいところだけどここより風呂でやった方がいいかしらね」
「何で?」
「シャンプーがあったら無限に可能性が広がる」
「楽しみです!」
「絶対つまんないよ春歌、この前もオレンジのタコとかいってさあれだって単純にくねくねしながらハッハーンって言ってただけじゃん」
「そこから改良したけど」
「あれよりクオリティ低かったら封印しなよ」
「そんな殺生な」
「じゃあクップルちょっと待っててね」
一連の会話の後、ドアが完全に閉まる前に聞こえた猫の返事はまるで人間の言葉を理解しているようだった。