新商品としての試験試用から、購買に本格的にピンクと紫の某炭酸水が導入された。私が日向先生に全力であれがいかに美味であるかを押したところそれが学園長に受理されたのだ。新たなおやつの友達の降臨である。
それを三本持ってレジに行き、お金を払ってから出ると前方に見慣れた色の男がメロンパンらしきものを入れた袋を持っててくてくと歩いていた。
ひっそり追いかけて隣に並ぶ。聖川の目の端が私を確認した。
真正面を向いたまま私は鼻で笑う。
「まーたメロンパンか」
「貴様こそ何だそれは」
炭酸水である。それだけ答えて炭酸水を胸にしっかりと抱く。腕にあたる部分が冷たい。
戻ってきた夏が私と聖川以外居ない廊下に強い太陽光をもたらす。この学園は空調管理には徹底しているので外に出た時のような溶ける程の暑さは全くない。窓に遮光機能がないため眩しい、そう感じる程度である。
枠にはめられた夏空にはアゲハチョウがふよふよと泳いでいた。羽を動かす度に装飾品がこちらを挑発している。
もうすぐ女子寮である、というところで聖川はアゲハチョウの今後についての空想に浸る私に話を切り出した。
「神宮寺にハンカチを貸していたそうだな」
「うん」
「それを預かっていて」
ポケットから取り出し手渡されたハンカチには、何やら刺繍が施されていた。
白のみに身を染めて余計な飾りはついていなかった私の愛しのハンカチの端に兎の顔が縫い付けられている。
意外と愛らしい。
「可愛いじゃないの」
「兎が好きだとか言っていただろう」
「犬のが好きだけどね。まあ大事にするよ」
「そうしてくれ」
黒猫だったら憤怒していたところだ。兎なので大切にポケットに突っ込んでおく。
「お礼にこれあげる」
気を良くした私は例の炭酸水を腕から引き抜いて彼に差し出す。
「三本買ってて良かった」
新商品から常時滞在商品として配備された炭酸水はさらなる顧客を得るべくオマケの制度を最近導入したのだ。
だから私と七海の分と何となく一本買っておいたのが今役に立ったのである。
「なんと今ならオマケ付きでHAYATOの顔面ストラップ」
「金色だ」
「えっ」
七海が確実に食い付くオマケの説明をしていたら小袋を開封した聖川がとんでもない強運を発揮した。
聖川の手に金色のHAYATOの顔面が笑顔を咲かせている。なんということだ。
「お前それシークレットじゃん!」
「すごいのはわかったのだがどう見ても破顔した金色の一ノ瀬にしか見えん」
「金色の一ノ瀬は幸運を運んでくるらしいよ、宝くじがあたりました!とか人体錬成が成功しました!とか上司や父親に反対されていた女性との交際が認められました!とか童貞45歳、初めての彼氏が出来ちゃった!とかね」
「・・・・・・。」
無言の後、聖川は自分のハンカチに丁寧にHAYATOを包んだ。
「ハンカチに包むことはないでしょう・・・。」
「お前もあたるといいな、金色の一ノ瀬」
「次当たったらすぐに七海にあげるよ」
HAYATOだったら金色だろうが銅であろうが何でも七海なら喜ぶだろう。
私は別にHAYATOなど好きではないしたかがオマケにそこまで期待していない。
密かに私の頭にHAYATOストラップを包んだハンカチをのせようとしている馬鹿の足をかなり加減して蹴った。
「いらない、それは私が聖川にあげたものよ」
聖川と距離を取る。真正面から行って私が素直に受け取るわけがないことを知っていた上での行動であろうが、まだ甘い。
女子寮と男子寮の境界を一歩越えて、そこから私は彼を振り返り見た。
「何か良いことあったら教えてね」
向こう側で聖川が頷く。
「ああ、一番にお前に教えるよ」
「そうそう良いことなんて起きないけどね、お前の人生」
照れ隠しで爽やかな笑顔を付属してそう言ってやれば即座に顔面に学生証を投げつけられた。麗しき顔面に何をするのかあの男は。
そのまま返すには惜しいので彼の学生証を握り締め風のように七海の部屋へ逃げた。
良いことはもう、あった。一昨日の話になるが迷惑な時間に聖川と一緒に七海の部屋に現れた私に七海ががばっと飛び付いてきたのである。
しかもベッドにいる恋人を放置してだ。濡れに濡れまくった制服に密着するパジャマ姿の七海に私の理性の九割は頬を赤らめる聖川やら固まるセシルなどを連れて飛んでいき、残った一割が必死に欲望と戦っていた。
欲望という単語でもう何を言っても台無しになりかねんが私はとても嬉しかった。やっぱり七海に一番会いたかったし、七海の体温は子兎のようにぽかぽかとしていた。
あれは私の人生のベスト5に入るなと思いながら聖川の学生証の写真の上に征夷大将軍源頼朝の顔面を貼った。カラオケなどに行った時にこれでも見せて散々な思いをすれば良いのである。私の顔面を襲うからこんな目にあうのだ。
七海はその作業を横で笑いを必死に堪えながら見守っている。
始めはやれ聖川様が困るだの何だの言っていたが七海も人間である。
古びた絵の横に聖川真斗という御曹司丸出しの名前が並んでいる。傑作だ。完成した学生証を七海に渡す。七海は学生証に額を押し付けてゼリーのように震えていた。
「・・・名前ちゃん」
「何?」
素知らぬ顔の私に七海は何とか学生証を返して、すぐに顔ごとあちらに逸らした。
「友ちゃんそろそろ帰ってくるって」
「そう、歓迎式典の準備しないと」
「ふふふ」
話を源頼朝から脱線させようとした彼女が想像力の逞しい人間であることを知っているので、笑わせるのは結構簡単だ。今だって外国のパレードのようなものに迎えられてぽかんとしている渋谷を想像しているのだろう。
学生証を弄くり回す。
「渋谷とセシルが戻ってきたら即海に行こう」
セシルも、今学園長に捕まっていて現在この学園にいない。ヘリコプターであちこちつれ回されているのだろう。
泥棒猫がいないのを良いことに邪悪な表情をする私をピアノが反射している。
「泥棒猫のせいで貴重な夏休みが破滅したんだから海行ったら真っ先にあいつを塩水に沈める」
それと神宮寺と四ノ宮も砂に埋める。あいつらは危険だ。水着の七海を彼奴らに見せるなど幼女趣味の変態にブルマを与えるようなものだ。
拳を握る私に七海は言いにくそうに頬を少しピンクに染めた。
「あの、私の・・・。」
「彼氏に優しくしろって?やァなこった。七海は私とカブトガニを探すのよ」
「まだ諦めてなかったんですね名前ちゃん・・・。」
当たり前だ。カブトガニは絶滅危惧種である。地球温暖化の影響もあるので早く鍋にしなければ。
海には、鍋とガスコンロを持っていくことに決めた。夏の砂浜で鍋をするのも一興だ。
夏を描く隣で、にこにことしている七海がピアノの鍵盤に指を置く。
楽譜はない。全ては私に見えない七海の頭のなかにある。目の前で紡がれていく初めて耳にする音は緑の蔦を伸ばし、私を絡め取って花を咲かせる。
あの時から彼女はかなり成長した。
小学生のお遊戯は場所を移転して素敵なお城の演奏会になる。小さかった七海もすっかり大きくなって私の知らない顔でピアノを歌わせる。
誰を何を想い弾いているのかは簡単に予測出来る。
一曲弾き終えてすぐに次に行こうとした七海の手に私は自分の手を重ねた。
「七海」
七海が目線をあげる。
「私、貴女が奏でる音が本当に大好き」
良いことはもう、あったのだ。七海に振り向いてほしいとか、恋仲になりたいとかやっぱり夢想する夜もあるけれど。七海には七海の人生があって、私にも私の人生がある。交わらなかったはずの道が何をミスしたのか絡まって今ここに歪な形で結び付いている。私はただ単純にこんな風に隣に立ってもっと近くでこの音を聴きたかったのである。これこそ小さい時からの夢であり、それが私の本当の幸せだ。
だから私は太陽みたいに笑う七海に願う。この恋は一生の秘密にするからどうか傍にいさせて。