冷たい水の上に、浮かんでいた。


夜明け前なのか白い空が窓からそんな私を見ている。薄目で見つめ返し、夢かその続きかわからないまま体を捩ってプールの底に足をつけて立ってみた。底はきちんと私に踏まれることで応えてみせる。


周りを白で固められたプールの中心に立ち尽くしている私の後ろに小さな波に揺れるラインがある。水に突っ込んでいた手をあげれば青林檎がその手にしっかり握られていて表面に水滴を携えつつ私の視線を黙って受け止めている。天井には消えた電球だけが静かに息を潜めていた。
透明なガラスの上で白いドレスを着た女の子が私を見下ろしているというパターンはもうなさそうだ。


プールからあがり、プールサイドに横たわった。どうやら私は生きているらしい。乾いた床に水溜まりが出来ていく。青林檎を頭のすぐ上に置いてその手で首を押してみる。穴は開いておらず、血液も漏れていない。すこぶる五体満足である。私は笑った。濡れた髪や服が私にまとわりつき、時間が経つにつれて疲労感を訴える体を無視してひたすらにやにやしていた。生による感激だけが私の脳味噌を埋め尽くしている。


気が済むまで笑い倒し、私は青林檎に手を伸ばして胸に抱いた。そして丸くなる。今日はここで眠ることにする。限界だ。途方もない時間を一人で歩いてきたのだ。私は疲れた。
瞳を閉じるとどこか冷ややかな空気が私を包む。不思議と寒くはない。しばらく眠ってまた目が覚めたら私の部屋に戻り暖かいシャワーを浴びて七海に会いに行こう。


七海には心配をかけただろうからさぞ怒られるだろうな、と思いながら眠りにつこうとする私に瞼の向こうから刺客が放たれた。まるで指を鳴らしたような音と一緒に急にプール内が眩しくなった。天井の電球に光がついている。
心地よい睡眠を邪魔された私は舌打ちをしてそれから視線を逸らした。開けたばかりの目が痺れる。


ゆっくり響いていた足音が私の頭上で止まった。


誰だか知らないが人間がデリカシーもなくこの私を見下ろしている。青林檎を抱き締めたまま私はその人間に聞こえるようにもう一度舌打ちを打って、上半身を起こした。骨が鳴る。


殺気立つ私と人間の目が合う。初めて地球外生命物体を見たような目を聖川はしていた。
まさかこんなところに聖川がくるとは思わなかった私も聖川の顔面の一点を見つめたままじっとしていた。変なやつならば林檎で殴り倒そうとしていたので手の中の林檎がつまらんといわんばかりに私の手を押し返す。林檎を手放して、阿呆顔のまま視界を少し邪魔する髪を後ろに払った。


「お前、女子寮抜けていいの?」


どうやってここまで無事にやってきたのか。
聞く私に聖川は何も言わない。何も言わないまま私と同じ、プールサイドに腰をおろして私の頬を両手で挟んだ。ひんやりとした彼の一部が皮膚をすり抜けていく。


「・・・なにすんだクソヤロウ」

「苗字名前」


大事なものを刻み付けるかのように聖川は私の氏名を口にする。


「お前が苗字名前なのだな」

「そうよ私は苗字名前、誇り高き美少女よ」


わざわざ確認してくる馬鹿に美少女であるのを強調しながら私は目を細めた。冷たい手が頬に添えられたまま、白魚のような指に目元を拭われる。水がまだ付着していたのかもしれない。聖川は泣きそうな顔をして笑った。


「おかえり」

「ええ、ただいま」

「遅かったじゃないか。お前の存在を完全に忘れるところだったぞ」

「こんなにキャラ濃いのに私のこと忘れるってお前素敵な頭をしているのね」

「悪かった」

「うん」


聖川がいない間に死にかけたのと同じように私がいない間に聖川にも何かがあったのだろう。
私の目元から離れて宙をさ迷いかけた彼の手を捕まえてしっかり私の指と絡める。


「許すからもう忘れないで」


傍にいると言ってくれたではないか。口約束でも契約は成立するのだ。
聖川は私の後頭部ごと彼の肩に引き寄せた。


「・・・二度と忘れないから」


かつてない近距離で男は囁いた。


「俺をおいてどこにも行くな」


どこにもいかないから、もう置いていかないから。返事を託して私は聖川の背中にそっと掌をあてる。
聖川の肩の向こうで月は誰かが食べた林檎のように欠けていていた。



だるいから朝までプールサイドで寝ると言うと聖川は激怒した。お前が風邪を引いてしまうと海に行く予定が泡と化す、大変冷静な意見を私に突き刺し次の瞬間にはリュックサックのように背負われていた。濡れるよと注意しても無視をするので黙るしかなかった。
そのままプールから出て、廊下に風景は切り替わる。こんなに近くで野郎を見るのも久しぶりである。どんどん歩いていく聖川に、色白でおぼっちゃまということで勝手に貧弱だと決めつけていた評価を私は訂正した。どう考えても重いはずの私をすいすい運ぶとは。失礼な事項を脳内にて修正していく私にここ数日の動向を聖川は話してくれる。


第一に、サタンは粉砕された。封印ではなく粉砕である。セシルが大苦戦している間に七海が音楽の女神、ミューズとして完全に覚醒しサタンを下した。そこで今まで意識の底に追いやられていた学園長が目覚め、己の拳でサタンを粉塵にしたとのことである。私はこの話を聞いて激しく混乱したがすぐに考えるのをやめた。とりあえず世界は救われたようだ。もうそれがわかれば良い。
第二に、七海ことミューズがこの学園に降臨したことによりセシルはわざわざ国に帰って祈らなくてよくなった。彼は大変歌が上手い上リカちゃん人形の彼氏のような顔面表皮をしているので学園長の売れるアイドルセンサーをぶち抜き、この学園の生徒として暮らすことになったそうである。セシルが帰国することだけが楽しみだった私は気を落とす。女神はいても神はいない。


最後に、日向先生は目を覚ました。呪いも魔法のように消えていて今ではすっかり学園長のわがままに振り回されていると。


サタン粉砕からもう四日が経過していて、いつまでも戻ってこない私の帰りを七海はずっと待っているらしい。その間七海とセシル以外の人間は私に関する記憶が一切ないので普通に生活をしていたと彼は暴露した。薄情な軟体動物どもである。


そんな、私についての記憶がないような男がどうしてプールにやってきたのか。


「そういや何でプールに来たの?」

「・・・金縛りで目を覚ましたら貧しそうな子供が俺を組み敷いていたんだ」

「・・・・・・。」

「初めは悪霊の類かと思ったがなんせ子供だからな、話を聞いてやろうとしたら俺の腕を引っ張ってきて、そいつに連れられてプールに来たらお前がいた」


その子供、見覚えがあるような気がする。黙っている私に聖川は少し笑みを含めた声で続けた。


「そういえばお前によく似ていたよ、あの子供」


確実にあいつだ。


「針と糸・・・。」

「何だそれは」

「気にすんな」



聖川に関係のあることだが、説明してもきっと伝わらない。
話題を変えるべく持ったままの林檎を聖川の頬に押し付けた。


「林檎あげるから七海の部屋までよろしく」

「・・・七海に変なことをするなよ」

「しねーよ、お前じゃあるまいし」

「お前俺を何だと思っているんだ」

「ホクロ星人」


直後、足をつままれた。


「痛ッ」



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